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「笑って悪かったわ」
あたしが謝ると、ハイジはいつもの不機嫌な顔に戻って答える。
「構わん」
相変わらずの素っ気なさだが、ハイジという可愛らしい名前のせいか、いつもほど冷たさを感じなかった。
そう言えば、先日の口論以外でまともに会話をしたことがないなと思ったあたしは、ハイジに提案することにした。
「ねぇ、何か話しましょう」
「話すべきことがない」
「そういうことじゃなくて」
もうすぐこの男とはお別れなのだ。
最後くらい少し話をしておきたいと、そう思ったのだ。
「そういえば、それなりに長い時間一緒にいたはずなのに、お互い名前も聞いてなかったね」
「必要ない」
「まぁこれまでは二人だけだったからね。でも、もうすぐお別れだし、最後に名前くらいはちゃんと知っておくべきでしょ」
「名前なら、さっき散々笑っていただろう」
ハイジはフイと横を向く。
拗ねたのだろうか。
「だから、悪かったって謝ってるじゃない。怒ってるの?」
「怒っていない」
「そう……でも、笑ったことは本当に悪いと思ってるのよ。あのね、あたしのいた世界では、『ハイジ』ってのは、小さな可愛らしい女の子の名前のイメージなの」
「……そうか」
「だからつい笑っちゃった。でも、失礼だったわね」
ごめんね、と言うと、ハイジはまた眉間にシワを寄せる。
「構わん、と言っただろう」
「そう。ならこの話は終わり。……じゃあ、あたしのほうから先に名乗るね。あたしは、
「ハルバルツだ」
「あれっ? ハイジじゃないの?」
「ハルバルツ・ハイジ・フレードリクだ」
「どれが名前で、どれが姓?」
「ハルバルツがおれの名で、フレードリクは……育て親の名前だ」
「ふぅん」
(姓って概念がないのかな? それとも貴族とかじゃないと姓が持てないとかかな)
「じゃ、ハイジっいうのは何? 洗礼名?」
「違う」
「じゃあ、何?」
「……」
男はむっつりと黙り込んでしまう。
もしかして、この男にとって「ハイジ」という名前は触れられたくない話題なのだろうか。
沈黙を見かねたのか、髭親父が話に入ってくる。
「嬢ちゃん、ハイジってのは『呼び名』じゃな」
「呼び名?」
「そう、『はぐれ』の嬢ちゃんはよく知らんじゃろうが、ここヴォリネッリでは、自分の名前と親の名を名乗る。そこのハイジなら、フレードリクの子ハルバルツ、『呼び名』はハイジってこったな」
「へぇ」
(変わった名前体系だこと)
「おじさんの名前は?」
「俺か? おりゃあギャレコだ。他の名前は……まぁ『呼び名』だけ覚えてくれりゃあいい」
普段は『呼び名』しか使う機会はないからな、とギャレコ。
「姓はないの?」
「姓? よくわからんが、お貴族様なら家名があるし、教会の関係者なら洗礼名があるな」
(教会があるのか)
「ふぅん。あたしのいたところでは、姓と名前だけで『呼び名』なんてものはなかったから、ちょっとピンとこないかも」
「そうなのか。じゃあ嬢ちゃんの居たところじゃ、普段から本名だけで呼ばれてるってことなのか?」
けったいな話じゃな、とギャレコは言う。
「呼び方……っていうか、渾名は決まってなかったから、人による感じだったわ。友達や家族は『リン』って呼ぶけれど……ちっちゃかった頃は『リンリン』とか呼ばれたかな」
「なんじゃい、そのリンリンってのは」
ギャレコが笑う。
あたしも一緒になって笑った。
笑うなんて失礼だなと思うものの、お互い様だ。ついさっきハイジの名前を笑ったあたしが言えることではない。
「あたしの姓……家名? の鈴森ってのは、リンリンとも読めるのよ。で、名前もリンだから、リンリンリン。長いからリンリン。もちろんずっと昔の話よ? 今はみんな『リン』って呼ぶわ」
「ふぅん……よくはわからんが、じゃあ、そのリンってのが「呼び名」ってことになるのか?」
「そうなるのかな」
(名前に、ニックネームを含めてしまえってことか。ある意味合理的かも)
「『自分の名』、『親の名』に『呼び名』ね。お貴族様は『家名』、教会の人は『洗礼名』……色々あるのね。他にもあったりする? えーっと、例えば『真名』とか」
ファンタジーぽい異世界なんだし。
「なんだぁ? そのマナってのは……。だがまぁ、あとは、そうじゃな……違う土地へ行けば、土地の名前を名乗るぞ」
「土地の名前? どういうこと?」
「例えば、俺は駅から駅へとこいつを走らせる仕事をしてるが、普段はエイヒムに住んでる。だから、他の土地で名乗るときは『エイヒムのギャレコ』と名乗る」
「なるほど、わかりやすい」
「あとは……ああ、そうじゃ、戦う仕事をしてるやつには、稀に『二つ名』が付くことはあるな」
「『二つ名』! かっこいい!」
「そうじゃな、二つ名が付くってのは、名誉なことだ」
戦う男といえば。
「ねえ、ハイジ」
「……」
返事なし。
あまりあたしと話をしたくないようだ。
(ふんだ、そんなの知るもんか)
「返事くらいしてよ」
「何だ」
「ハイジは『戦う人』よね?」
「そうだ」
まぁどう見てもそうだ。矢の腕前も凄かったし。
この世界ではあれが当たり前のレベルなのかもしれないが、少なくとも日本には、何本も矢を同時に射って、動いている獲物に命中させるなんて芸当ができる人は居ないはずだ。
っていうか、2本同時だって普通に考えれば無理だ。そのくらいはあたしにもわかる。
「じゃあ、ハイジには二つ名はないの?」
「……ない」
ハイジがちょっとムッとしたように顔をしかめる。
二つ名がないってことは、つまりこの男の腕前はこの世界では普通ってことなのだろうか。
だとすると、悪いことを言ったかもしれない。
「怒らなくてもいいじゃない」
「怒ってなどない」
どうも会話が弾まないな……。
まぁそれでも、言葉のキャッチボールが成立したのは初めてなわけで、それはそれなりに嬉しい。
「ハイジは、なんであんな森の奥で一人で生活してるの?」
「誰かがやらなければならない仕事だからだ」
「角を生やした獣を狩ることが? ……誰かに頼まれてるの?」
「ああ」
「なんのために?」
「魔物の森をこれ以上広げないためだ」
「魔物の森?」
なんのこっちゃ。
あたしが疑問に感じていると、ギャレコが横から口を出した。
「嬢ちゃん、知ってるか? 俺の家があった辺りは、魔物がほとんど出ねぇんだ」
「そうなの?」
「この辺り一帯を『寂しの森』と言うんじゃが――ハイジが住んでるのあたりは『魔物の森』と呼ばれる魔物の領域でな。魔物だらけじゃったろう? ほっとくとどんどんでかくなって、そのうち俺の家も飲まれっちまうじゃろうな」
「大変じゃないの」
「大変じゃな」
「それを、ハイジが食い止めてるってこと?」
ちらりとハイジを見ると、ハイジはそっけなく
「そうだ」
とだけ答える。
誇ることも恥じることもなく、ただ事実を述べているだけといった態度だ。
道の左右には雪化粧された白樺の青白い森。
ガタゴトと視界を流れていく。
はじめは見るだけで陰鬱な気分にさせられた風景だが、見慣れると悪くない。
寒さに震えずにすむ小屋や馬車の中から眺める分には、なかなか美しい風景だ。
小屋のそばなら魔物の出現を怖がらないといけなかったところだけれど、ギャレコ曰くこの辺には魔物はほとんど居ないらしい。
危険がないのなら、この風景は嫌いじゃない。
「あたし、この世界の人ってみんなハイジみたいな狩人なのかと思ってた」
「そんな訳あるかい。森ぐらしは過酷じゃろ? そんな仕事を好んでやるやつはハイジくらいじゃ」
「ふぅん。他の人達は何してるの?」
「そりゃほとんどは街で仕事してるに決まってるじゃろ。今向かってるエイヒムは人が多いぞ」
「エイヒム?」
「この辺では一番でっかい街でな。エイヒムってのは、古い言葉で『ふるさと』って意味じゃ」
「へぇ」
目的地の名前がわかった。
ならば。
「ついでに教えて。えーと……確か、国の名前は『ヴォルネッリ』よね。じゃあ、ここを統治してる貴族の名前は?」
「ライヒ伯爵じゃな」
「ライヒ伯爵……ってことは、ここは『ライヒ領』?」
「そうじゃ。……ただ、嬢ちゃん、あまり気軽にお貴族様の名前を口にするもんじゃねぇぞ」
「そうなの? ……覚えておく」
お貴族様、ね。
「嬢ちゃん、暗くなるまでには街へ着く予定だが、休憩無しで大丈夫かね」
「はい、大丈夫です」
「そうか。じゃあ、雪も深いことだし、ちょっと飛ばすぞ」
そう言って男は手綱を大きく動かした。
先程までさほど揺れていなかった馬車は揺れに揺れ、あたしは酷い乗り物酔いになった。
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