#2

 小屋を出て、もう三時間は歩いただろうか。

 途中で干し肉をかじったりしたが、基本的には歩き詰めだ。

 ローファーは防寒着としては最悪だった。指の先がひどく傷む。

 傷む指をかばうように歩いているせいで、足腰にまで負担がかかっている。

 男の歩みは早く、ずんずん進んでいく。あたしのことなどほとんどお構いなしだ。

 それでも、あたしが雪に足を取られたりして遅れたりすると、一応は待ってくれていたりする。

 少し離れては、慌てて急ぎ足で追いかける、その繰り返し。


 ついに耐え難くなった頃、地平線まで続いているかとまで思った雪原は唐突に終わった。

 ようやくはるか遠くだと思っていた森までたどり着く。


 森には木々を切り開いて道が作られていて、見れば少し先に、木々に隠れて柵に囲まれた建物がある。

 どうやらここが目的地らしい。男の住む小屋とよく似た小屋だった。

 小屋はそれなりに広い範囲が柵で囲まれていて、その向こうには馬小屋らしきものがある。

 母屋より馬小屋のほうが幾分か大きい。


(馬小屋っていうか)


 この場合はトナカイ小屋とでも言うのだろうか。

 馬小屋には馬ではなく、トナカイらしき巨大な生物。

 トナカイの実物を見るのは初めてだったので、興味津々で眺める。

 巨大なトナカイには現実感がなく、その光景はまるで異世界の光景のようで––––。

 ……というか、実際に異世界なのであった。

 非常に残念なことに。


 男が玄関横の小型の鐘を紐で鳴らす。

 カランカランという寂しい音が寒々しい森に響く。

 あたしは何となく気が引けて、少し離れたところで様子を伺っている。


 しばらくして扉が開く。出てきたのは頑固そうな顔つきの髭だらけの男性だ。

 来訪者を見ると表情を緩めて少し笑い、男の肩を親しげに叩いている。

 男もそれに返すように相手の肩を叩き返し、なにやら会話している。


(なによ、普通に会話できるんじゃないの)

(ただのコミュ障かと思ってたけど、つまりあたしだけ無視してたってことね)


 なんとなく面白くない。

 遠巻きに二人を眺めていると、髭親父がこちらを見て「おっ」と驚いた顔を見せる。

 あたしは慌ててぺこりと頭を下げた。

 それに対して、男が何やら説明すると、髭親父は「なるほど」といった風に頷く。


(駅ってのは、駅馬車の駅かぁ。ってことは、馬車を出してくれるのか)

(悪い印象を持たれるのは良くないよね)


 何を話しているのかはわからないが、何が可笑しいのか髭親父が大声で笑っている。

 何度も男の肩を叩いているが、男の方はそれに反応せず、むっつりとしている。


 ふと、


(よく考えたら、男二人にあたし一人が女じゃないか)


 ということに気づく。

 だが、その点については特に不安は感じなかった。

 妙なことはされまい、という不思議な安心感があったし、どちらかというと「街」とやらに行ってからのことのほうがずっと不安だ。


 この世界には、あたしの頼れる人は一人もいないのだ。

 一体、あたしのような子供が街で何ができるのだろう。

 仕事はあるのだろうか。独り立ちできるのだろうか。

 人生経験の乏しい現代っ子のあたしを、街の人は受け入れてくれるのだろうか––––。


 不安は尽きない。


 話が終わったのか、髭親父が馬小屋へ向かって歩いていく。

 暫くすると、巨大なトナカイがヌッと顔を出した。


(でも、トナカイってこんなに大きかっただろうか)


 実際それがトナカイなのかどうかはわからない。この雪に閉ざされた世界で、巨大な立派な角を持つ鹿とくれば、直感的に「トナカイ」だろうと思っただけだ。

 トナカイは、地面から背中まで、2m 近くはある。随分立派な体格をしている。

 サンタクロースを引っ張っているトナカイは、子鹿みたいな見た目をしていたはずだ。


(なんだか、随分筋肉質っていうか)

(まぁ、ウサギや狼に角がある世界ですし)


 トナカイはどこか達観したような顔つきで、何やら口をモゴモゴさせている。

 後ろには馬車が繋がれていて、髭の男が御者台で手綱を握っている。


(あの髭親父が御者なのか)


 馬車は、車輪にスキーを履かせたような姿をしていた。

 おそらく、雪があるところはそりで、雪がなければ車輪で走るのだろう。

 髭親父が柵の前にそりを止めると、男はサッと馬車に乗り込む。


「嬢ちゃんも乗りな!」


 髭親父に大声で呼ばれ、あたしは「はい」と応えて、慌ててそちらに走る。

 おっかなびっくり馬車に乗ろうとするが、馬車の入り口はかなり高いところにある。

 初めてのことで男のように颯爽とはいかなかった。

 もちろん男が手を貸すことも無い––––というか、手を差し出されてもそれを握ったりはしないだろう。


(あたしにも意地というものがあるのだ)


 髭親父はあたしが乗り込むとピシリと手綱を動かし、馬車を走らせる。



 * * *



 しばらくすると、御者が言った。


「ハイジ、おめぇさん、娘っ子が馬車に乗るときは手ぇくらい貸すのがマナーじゃろが」


(……ハイジ?)

(何のこと?)


 意味がわからず、不思議に思っていると、何故か目の前の男が返答した。


「いらん口を効くな」


 静かだが、とても低く、よく響く力強い声だった。


(……えっ?)


 それを聞いて、あたしは固まる。


(……え? えっ? えっと、この男が返事をするってことは……)

(もしかして)


 もしかして、この男の名前が……?


(もしかして)

(この男の名前が「ハイジ」だってこと!?)


 そういえば、あたしはこの男の名前を知らなかった。

 考えてみれば、世話になった命の恩人の名前を知らないなんて失礼にもほどがあるというものだ。

 と言ってもそもそも話しかけても返事が返ってこないわけで。


 それにしても––––––––––––。


(この強面のおじちゃんの名前が……!)

(ハイジ!? ハイジだって!?)


「……ブフ……ッ!」


 あたしは我慢できずに吹き出した。

 笑ったら失礼だと思うものの、長いこと笑いに飢えていたせいか、変なツボに入ってしまったらしく、お腹のそこから笑いがこみ上げてきた。

 何とか笑いを抑えようとするも、勝手に体が震え始める。


(いや、本当に失礼だなあたし!)


 さすがに声は必死に抑えて、大声で笑ったりはせずに済んだが、静かに笑い転げている自分は、旗から見てどれほど不気味だろうか。いきなり笑い初めて、堪えながら震えているあたしは、男にとってははわけがわからないだろうし。

 そう思って、心を落ち着ける。


(はぁ〜……)


 落ち着け。駄目だ、笑ったりしたら駄目だ……。


 ちらりと男を見る。

 2メートルくらいある、傷だらけの重機みたいな体躯。

 余計な脂肪のまったくない、鎧みたいな筋肉。

 太い首、引き締められた唇、鋭い眼光。

 短く刈られた金髪に、眉間に刻まれた深い皺。


 名前はハイジ。


 駄目だ。


「……ぐふッ……!」


(駄目! ハイジ! ハイジだって! 嘘でしょ! おじさんってば、そんな怖い顔してるのにっ!)


 男と「ハイジ」という名前のギャップが面白すぎて、とうとう涙まで出てきた。 


「嬢ちゃんどうしたぃ、何笑ってんだ?」


 髭親父が不気味そうに話しかけてきた。


「ごめんなさい……で、でも……だって、ハイジなんて、女の子の! 女の子の名前じゃない! よりによって、こんな熊男が……ハイジ……!……!」

「……ハイジって名前がそんなに面白ぇのか? 何が可笑しいのかさっぱりなんじゃが……人の名前を笑うってなぁ、あまりいい趣味じゃねぇなぁ……」


 髭親父に困ったように指摘され、急速に心が冷える。

 ようやく笑いが収まった。

 確かにとんでもなく失礼なことだった……でも我慢できなかったんだよ!


「ごめんなさい……」


(怒るかな)

(また頭を殴られたりして……)


 恐る恐る男の顔を覗き見る。

 そして驚いた。


(な、何よ、その表情かお……)


 男……ハイジは、なにか眩しいものを見るかのように、静かにあたしを見ていた。

 いつも険しいその顔は少し緩められ、どこか寂しそうに、仄かに笑っていた。


 始めて見た男の笑顔だった。


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 2章開始です。

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