秋が深くなり、冬の気配が近づいている。

 懐かしい冬の気配、森の季節だ。


 初めて雪が降った日から数日経ち、街へ来たハイジがいつものようにペトラの店まで食事に来た。


「そろそろ森へ帰るわ」


 いつものポトフを出すついでに、あたしはハイジにそう告げた。

 ハイジはただ一言「そうか」とだけ答える。

 それ以外には何もなし。いつもと通りの顔でポトフを口に運んでいる。


 ––––もうちょっと何か無いのか、あんたは。


 そう思ったあたしは、この男の鉄面皮を崩してやりたくなる。


「街も悪くないけど、やっぱり森が気楽でいいわ」


 そう言ってやると、ハイジはほんの少しだけ困ったような顔になった。


 わかっている。本当は「もう森へは帰ってくるな」と言いたいのだろう。

 ペトラやヘルマンニ、ギルドの連中がしきりに街に定住することを勧めてくるのも、どうせこの男の根回しのせいに違いない。

 だからあたしはハイジの思惑を先回りして潰してやったのだ。


(いい気味だ)


 戦いなら足元にも及ばないが、日本人女性に舌戦で勝とうだなんて十年早い。

 ついでにちょっと意地悪な気分になったあたしは、ハイジに言ってやった。


「あと、姫さまから伝言を預かってるわ。「ありがとう」、だってさ」


 途端に苦虫を噛み潰したような顔になるハイジ。

 スプーンを運ぶ手が止まっている。

 あたしは「してやったり」という気分になった。


「なんて顔してんのよ。今は幸せだって笑ってたわ。よかったじゃない」


 そう言うと、ハイジはちょっと驚いた顔をしてあたしを見た。

 そしてポツリと、


「そうか、それならいい」


 といって、食事を再開した。

 ハイジの顔は少しだけ笑っていて、それが少し寂しそうに見えた。



 * * *



 もともと荷物なんて何もないわけで、帰り支度はあっという間に終わる。

 問題は子どもたちとニコである。

 特にニコだ。もうすぐ帰ると伝えると、何度もグズグズと泣きながら行かないで欲しいなどと言われる。これが困る。懐かれるのはありがたいのだが、あたしに街で生活する意志はない。

 子どもたちもグズグズ言うので、春になればまた来るからと全員をなだめ、ついでに「そのときに腕が鈍ってたら地獄のトレーニングが待ってるぞ」と脅しておいた。

 ヤーコブだけ「清々するぜ」などと悪態を着くので、こいつのトレーニングメニューだけ倍くらい厳しくしておいた。「こんなのできるわけ無いだろ!」などとキレているが、「寂しの森での生活はその十倍は厳しい」と言うと黙った。

 一度『寂しの森』まで修行に来れば良いのだ。ヤーコブの甘えた根性では、きっと三日と保つまい。

 ついでに、ニコや子どもたちも一度遊びに来ればいいと思うが、実現は難しいだろう。あんな魔物だらけの森は、本来なら人が居ていい環境ではないのだ。



 * * *



 最終日の夜、ニコが寂しがって、最後だからと一緒に寝たがった。

 ベッドが狭くて寝苦しいから嫌だと言ったが、どうせ頑固さでニコに勝てっこないのだ。早々に根負けして添い寝することになった。


「……すぐ帰ってくるよね」

「すぐというか……雪解け月の終わりになれば、またお世話になりに来るよ」

「……魔物の森は……危ないんだよね」

「まぁ……街と比べたら間違いなく危険ね」

「なのに、なんで森へ行くの?」


 ニコは、あたしが寂しの森に「行く」と言う。

 しかし、あたしにとっては「帰る」なのだ。

 むしろ、この街こそ「来る」という感覚なのだが、それを伝えるとニコはきっと拗ねるに違いないので、あえて口に出したりはしない。


「何故だろうね……自分でもわかんないや」

「……ハイジさんのことが好きだからじゃなくて?」

「またそれ?」


 あたしは何十回目かになる質問に、同じだけのため息をついて何十回も繰り返した同じ返事をする。


「そんなんじゃないよ。そりゃあ、尊敬してるし、家族としては好きではあるんだけど……というか、ニコだってハイジを見たでしょうに。あれが王子様に見える?」

「じゃあなんでよ……! 森には何があるの? 休みの日にだって、わざわざ街から出て森で過ごしてるし……」

「わかんないけど……でも、あそこがあたしの居場所なんだよ」

「……ねぇリンちゃん……リンちゃんは、死んだりしないよね?」

「たぶんね」

「そこは絶対って言ってよ!」


 ニコが怒ったように体を起こす。

 どうどう、となだめる。


「何ごとにも『絶対』なんてことはないよ。ニコだってわかってるでしょ」

「だってぇ……」

「それに、ハイジがいるんだから大丈夫でしょ。心配し過ぎよ」

「でもでも! 魔物だけじゃなくて、吹雪とかも……!」


 このままでは寝させてもらえそうもないと思ったあたしは「そろそろお話はおしまい」と切り上げたが、ニコは「え〜!」とぐずぐず言い続ける。

 しかたなく、あたしはニコの頭を抱いてやり、子供をあやすように背中を軽く叩いてやった。


 そうして、森へ帰る日がやってくる。



 * * *



 翌朝、仕込み中のペトラにお礼を言ってから店を発った。

 ペトラはいつもどおりで「来年もよろしく」と軽い調子だった。

 流石に心得ている。おかげで出立が気まずくならずに済む。


 昨夜のうちに薄く積もった雪を踏みしめながらギルドまで行くと、子どもたちが勢揃いで待ち構えていた。


「今日は稽古は無いって言ったでしょ」


 と言ったが、ヨセフがグスグスと泣き始め、シモが「お礼を言いたくて」などと殊勝なことを言う。

 永遠の別れでもあるまいに大げさな、と思わなくもないが、ありがたくもある。

 ヤーコブだけはふくれっ面をしていて「次はいつ来んだよ?」などという。


「来年の雪解け月の終わりかな。でも、たまには街にも顔を出すよ」

「その時には、稽古を付けてくれるか?」

「もちろん。っていうか、アンタたち、サボってたら酷いからね?」

「わ、わかってる」「頑張る」


 凄んでやると、全員が背筋を伸ばした。


「リン」

「なに? ヤーコブ」

「俺、ちゃんと約束守って鍛錬を続ける」

「そ。じゃあ、来年が楽しみね」

「ああ、強くなって、目にもの見せてやるよ」


 そう言って、ヤーコブはスッと手を出した。

 あたしがそれを握り返すと、ヤーコブは「かかったな」と言わんばかりの笑顔で、短刀を突き出してきた。


(ほいっと)


 それをヒョイと取り上げて、腕をひねり上げて首に短刀を突きつけてやる。

 子どもたちが目を丸くしている。


「……くっそぉー! なんで当たらねぇんだよっ! 完全に不意をついたはずだったのに!」

「うん、今の動きはなかなか良かったよ」


 加速を使わないと避けられないくらいには。


「……じゃね」


 ヤーコブを開放したあたしは、子どもたちに別れを告げて、ギルドへ向かう。



 * * *



 ギルドでは、荷物のやり取りでハイジとミッラが何やら話をしていた。

 残念ながらヘルマンニや、ヨキアムとアルノーもいなかったので(どうせ二日酔いだ)、ミッラにお礼の伝言を伝える。


「リンちゃんがいなくなると寂しくなるわね」

「寂しいって、ミッラが?」

「あたしもだけど、男どもね。『黒山羊』が見られなくなったら、みんな寂しがるわ」


 それを聞いて、あたしは顔をしかめた。


 いつの間にか、あたしに『黒山羊』なんて二つ名が付けられていたのだ。

 二つ名は自分で考えるものではなく、自然発生的に生まれるものだと言うけれど……。

 あたしはチラリとハイジを見る。


「その二つ名、あまり好きじゃないんだけど……」

「二つ名ってのは大体そういうもんよ」


 ミッラがいたずらに笑うが、そういうことじゃないのだ。

 黒山羊というと、前の世界では悪魔の遣いだったりする。縁起でもないのだ。

 これからは、隣りにいる熊男と二人なのである。不幸を呼びそうな名前は遠慮したい。

 あとは……アレだ。もらった手紙を読まずに食べる童謡のイメージ。

 あたしはあの歌を聴くたびに「どんなデリカシーのなさだよ」と心の中で突っ込んでいた。デリカシーがないのはハイジだけで十分だ。


「まだ二つ名を貰えるような立場じゃないんですけど」

「……リンちゃんの場合は、色々事情もあって目立つからね」


 少し前、戦う人間には二つ名がつくことがあって、それは名誉なことなのだとか、そんなようなことを聞いた気がする。

 あたしは戦う人としてはまだまだ未熟だし、ちょっと分不相応なのではないだろうか。

 そういえば、ハイジはあの時「自分には二つ名がない」と言っていたが、それは嘘だった。実際は『番犬』なんていうなんともぴったりな二つ名を持っていた。


(姫を守る番犬、ってことね)


 こんなにピッタリの二つ名もないだろう。

 二つ名の話題が好ましくないのか、ハイジは不機嫌そうにムッツリとしている。

 これほど似合う二つ名もなさそうなものだが、すでに守るべき姫を失い、ハイジは自分は番犬だとは思っていないのだろう。

 守るべきものがいなければ、番犬は番犬足り得ない。なにしろ、あたしでは姫様の代わりにはなれないのだ。なぜならあたしは守られるべき姫ではなく、隣を歩く相棒になりたいのだから。

 だから、あたしは不用意なことを口にしたりしない。

 いつかのように、彼がいなくなってしまわないように。


「帰りましょう」


 あたしがそう言うと、ハイジはまたいつものように、何も言わずに背を向けて歩き始める。

 あたしは、後ろから思いっきり蹴っ飛ばした。


「だから、そういうときは『ああ』の一言でいいから返事するもんよ! この朴念仁の唐変木!」


 体重差でびくともしなかったが(むしろあたしが跳ね返された)、いきなり蹴っ飛ばされたことに驚いたのか、ハイジはそれを『キャンセル』したりはせず、ただ「ああ」とだけ答える。


(一矢報いてやったぜ。ざまあみろ!)

 

 そして、絶対に一生言ってやらないんだ。


 ねぇ、ハイジ。あたし––––あなたのことが大好きだ。

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