幕間 : Heidi - 1

Heidi 1

 戦場へと向かう四頭立ての軍用荷馬車がガタゴトと悪路を進む。

 明らかに定員以上の数の人が乗っているが、狭さや乗り心地の悪さに文句を言う者はいない。見る限りは全員が男性で、大半が屈強な体つきをしている。中には真っ青な顔でブツブツと独り言を呟く貧弱な男も混じっているが、恐らく初陣の類だろう。そうした未熟な兵士を、ベテラン戦士が励まし、あるいは誂ったりしている––––ここに居るのは、だいたいそうした二種類の人間に分けられる。

 

 しかしそのどちらにも属さない一人の少年が、目立たないように端の方で丸くなって座っている。年齢はまだ青年というにはまだ早く、子供と大人のちょうど中間に位置する不安定な年頃だが、少女のように華奢で小柄な体躯のせいか年齢よりも幼く見える––––ここは「青年」と呼ぶよりは「少年」と呼ぶほうがしっくり来る。

 少年は緊張しているようには見えなかった。全く落ち着いて見える。未熟な兵士なら緊張するし、ベテランならばこれから始まる戦いに対する高揚感で平素とは言い難い精神状態のはずなのだが、そのどちらでもない。ただ、長らく手入れのされていないらしいボサボサの長髪の隙間から昏い目を覗かせて、じっと落ち着いている。

 目は虚ろで、恐怖しているようにも、あるいは少しでも期待しているようにも見えない。まるで、何もかもに絶望したかのように、どこか怒りを含んだ静かな目で虚空を睨んでいる。

 

 ちょうど、若くして奴隷に落とされた人間がこのような表情をしている。人間は、全てに絶望するともはや救われたいと思うことすら簡単でなくなる。奴隷の立場から救われたとしても、その多くは、救われたことに対し心から礼を述べたり、喜んで涙を流したりしない。すでに心は負の感情に塗りつぶされており、感謝や喜びといった感情を呼び起こすことができないからだ。絶望は、人の感情を負の海の底に縛り付けて、息ができなくしてしまうのだ。

 

 しかし少年は奴隷ではなかった。少年の目には明確に意志があった。奴隷には意志がない。少年が奴隷であるはずがなかった。それほどまでに強い「戦う意志」が見て取れる。

 それだけに、兵士たちの中で少年は浮いていた。

 はじめは、周りから「変なやつが居るな」と思われていただけだったが、今ではほとんどの兵士がこの少年を不気味がっていた。

 少年はそのことに気づいているのかいないのか––––いや、そのどちらでもないだろう。人からどう思われているのか、などという余計な感情を、彼は持ち合わせてはいない。

 

 そんな中、一人の少年、フツーカ・ヘルマンニ・マイヨールだけは、奈落みたいな目をしたこの少年のことを気にかけていた。なぜなら、自分にも身に覚えがあったからだ。自分も師匠に奴隷身分から救われた頃はこんな感じだった。

 自分は救われ、こうして笑って生きている。この少年には救いの手を差し伸べてくれる人はいないのだろうか。いや、自分はこの少年のことを何も知らないのだ。救われるとは一体何から救われるというのだ。わからない。わからないが、ヘルマンニは少年のことを他人事とは思えなかった。

 何度も話しかけようかと迷ったが、結局その思いは果たされることがなかった。

 戦争に参加するのはこれで五度目だが、そのたびに思い知るのは、生き残るためには戦友たちとの交流が思った以上に重要だということだ。だからヘルマンニは回りの屈強な戦士たちに積極的に話しかけ、駆け出しの少年兵の緊張をほぐそうとしたりと、なかなかに忙しくしていた。故に、たまたま同じ馬車に乗り合わせただけの、この厄介そうな少年に時間を割くことができなかった。

 

 今回の戦は、マッキセリ子爵領とハーゲンベック伯爵領との一騎打ちとなる。

 ヘルマンニにとっては、なんとしても勝ちたい戦だ。

 少年のことは気にはなるが、今は勝利のためにできる限りのことをしておきたい。

 

 軍用荷馬車が目的地に到着すると、馬車はそのまま馬車砦として用いられる。

 すぐに炊き出しが行われ、戦闘開始までにこの戦争の正当性を知らしめ、戦意高揚のための演説が行われるはずだ。

 

 ヘルマンニはすぐに炊き出しの手伝いを申し出て、忙しく動き始める。

 マッキセリは良い政治が行われている領地ではあるが、貧乏だ。十分な‎戦闘糧食を用意するのは大変だったはずだ。腹が減っては戦はできないという。ヘルマンニは陣地を駆け回りながら、兵士たちのために食事を振る舞って回った。

 ふと、あの虚ろな目をした少年はどうしたか気になった。

 もし、ここに師匠が居たなら何と言うだろうか。あのお人好しなら放っておくことはあるまい。

 

 自分は何だ。

 師匠の名代としてここに居るのではなかったか。

 

 ヘルマンニは少年を探すことにした。少年の事情など知らないし、助けが必要かどうかもわからない。ただ、きっと放っておくと、今日にでもあの少年は死んでしまうに違いない。そんな予感がした。

 

 ヘルマンニは師匠に叩き込まれてようやく使えるようになってきた『遠見』を使った。

 『遠見』––––視覚、聴覚、嗅覚に関して『距離を無視する』能力だ。戦闘の役にはあまり立たないが、斥候としてはこの上なく便利な能力である。

 器用で勘が良いヘルマンニはあっという間に少年の姿を見つける––––あのバカ、最前線近くで座り込んで、敵を睨んでやがる。

 

 ヘルマンニは一つため息をつくと、少年と自分の分の‎糧食を手に歩き始めた。

 

 

 ▽

 

 

「よぅ、兄弟。こんな前線で何やってんだ?」


 ヘルマンニが話しかけたが、少年は微動だにしない。

 無視していると言うよりは、本当に気づいていないようで、一切の反応を示さない。

 ただ熱心にハーゲンベック側を睨んでいる。

 

 この世界の戦争では、はじめに儀礼戦が行われる。

 儀礼戦とは、日時を示し合わせて戦うことだ。お互いがお互いの正義を賭け、予め示し合わせた時間に、法螺貝の音と共に戦闘が開始される。儀礼戦を無視すると、それは正統な戦争行為とは見なされない。無視した場合は、たとえ戦いには勝てたとしても、ヴォリネッリ王国軍にあっという間に滅ぼされる。そのため、ハーゲンベックがどれほどの糞だろうと、儀礼戦だけはきちんと行われる。

 

 儀礼戦では正規兵とベテランの傭兵が先頭に立って戦うのが常だ。

 経験が浅い兵、忠誠心の低い駆け出しの傭兵、あとは少年兵などはなるべく後ろの方で邪魔にならないように戦う。実際は戦いにすらならず、一度も剣を交えることもなく終わることもあるくらいである。

 しかし、目の前の少年は法螺貝が鳴らされたらすぐにでも飛び出せるように、前線近くでハーゲンベックの陣を睨んでいる。

 

(こりゃ、開戦早々すぐおっ死ぬな)


 ヘルマンニはそう判断し、よっこらせと少年の横に座り込んだ。

 ここで、少年はようやくヘルマンニの存在に気づいたようで、機械仕掛けみたいにじわじわと頭をヘルマンニの方に向け……焦点をあわせた。

 

「やっと気づきやがったか。ほれ、飯持ってきたから食え」

「……要らない」


 少年が返事をする。地声か、あるいは声変わりが遅いのか、高くかすれた中性的な声だ。しかし、意志の強そうな響きを纏っている。

 

 よく見れば、なかなかキレイな顔立ちの少年だ。汚れてはいるが、肌が綺麗で、手も労働者の手ではない。きっと貴族のように大切に育てられたのだろう。労働階級の少年ならば髪は邪魔にならないように短く刈るのが当たり前だが、ボサボサのおかっぱ頭である。背は低く小柄。全体的にほっそりとしていて、手足だけが長い。うっかりすると少女に見紛うほど華奢である。

 それだけ見れば、ハーゲンベックの変態奴隷商が喜んで商品に欲しがりそうな見た目と言える。しかし、筆舌に尽くしがたい目付きの悪さと眉間の皺が、全てを台無しにしている。


「そう言うなって。開戦まであと二刻ほどあるけどよ、飯食ってすぐには動けねぇんだから、今のうちに食っとけ」

「……いらない」

「はぁ? 食わねぇと戦えねぇだろが。死んじまうぞ?」

「……」


(ああん? ちゃんとは聞き取れなかったが、たぶん今コイツ、「構わない」って言ったか?)

(つまり、あれか。死にに来たってか)


 ふざけんな、とヘルマンニは思った。


「いいから食え! これは、戦に参加する兵士の義務だ!」


 ヘルマンニがそう凄むと、少年は眉間に皺を寄せた。

 本当に仕方なさそうに、ノロノロと手をのばして、ヘルマンニの手から堅焼きのパンらしきものと、賽子サイコロ大の黒砂糖を受け取った。

 堅焼きパンは乾燥しているので、すぐには飲み込めない。そこで黒砂糖を先に舐めると、唾液が大量に分泌されて、飲み込みやすくなる––––この程度の知識もないらしく、少年はかじったパンを飲み込めずに四苦八苦している。

 

「ははっ」


 ヘルマンニが笑って、少年に黒砂糖の役割を教えてやると、少年は黒砂糖の端をかじる。

 ヘルマンニも並んで砂糖とパンをかじる。


「お前、覇気がねぇやつだなぁ。そんなんじゃすぐ死ぬぞ」

「……構わない」

「いや、お前が死ぬと、マッキセリの迷惑になる。そんな簡単に殺されていいわけねぇだろ」

「……どうでもいい」

「……お前、」


 ヘルマンニはムッとして文句を言おうとしたが、続いて呟かれた言葉に抑えられてしまう。

 

「ハーゲンベックを一人でいいから殺せれば、それでいい」


 ヘルマンニは、ぐっと言葉を飲み込んだ。

 少し考えて、どうにかこうにか言葉をつなぐ。

 

「何があったのかは知らねぇけどよ……オレの両親もハーゲンベックの兵に殺された」

「……」

「オレも、ハーゲンベックに奴隷に落とされてよ。それも、愛玩奴隷だぜ? ……笑わせるぜ」


 こんなのは、ただの傷の舐め合い、不幸自慢みたいなものだ。

 しかし、とりあえず目の前の少年を死なせないためには、会話を繋いで置くべきだとヘルマンニは考えた。


「ま、売り飛ばされる前に何とか師匠に助けてもらえたんだけど……だから、ハーゲンベックを討ち取りたいってのは、まぁオレも同感」

「……そう」

「お前もさ、ハーゲンベックが憎いんだろ」


 ヘルマンニがそう言った途端、少年の雰囲気が激変した。

 さきほどまでの、熾火のように静かだった怒りが、体内に収まりきれずに炎となって溢れ出ているようだ。

 瞳は見開かれ、煌々と輝き、髪は逆立ち、獰猛な歯をむき出している。

 

(これは……!)


 ヘルマンニは思わず恐怖した。

 狂ったやつ、絶望したやつ、死にたがり、復讐者、色々な奴を見てきたが。

 

(これは、別格だ)


 ハーゲンベックを殺す。ただそれだけを望んでいる。そのために自分の命を使い捨てる気でいる。

 

(冗談じゃねぇ)


 関わってしまったことを後悔してしまいそうになるほどの強烈な怒り。

 しかし、ヘルマンニは何食わぬ顔で言葉を繋いだ。

 

「でもよ、お前みたいな弱そうなやつ、一人も殺せねぇだろ。ハーゲンベックの下っ端兵の手柄として、剣の錆になって終わるんじゃね?」

「……それは」

「だからよ、一人でも多く殺したいなら、生き残ることを考えろよ。何もあいつらを喜ばせてやるこたぁねぇだろ。ハーゲンベックは戦好きだからよ、生きてりゃ復讐するチャンスなんて何度でも巡ってくるぜ」


 かく言うオレも、ハーゲンベック戦に参加するのは五回目、とヘルマンニは胸を張った。

 

「名乗ってなかったな。オレはヘルマンニ。フツーカ・ヘルマンニ・マイヨールだ。お前は?」


 ヘルマンニが名乗りを上げると、少年は挑むようにそれに応えた。


「ハイジ––––ハルバルツ・ハイジ・フレードリクだ」



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 幕間として、数回に分けてハイジの過去話を挟みます。

 エイヒムがハーゲンベック領だった頃の話のため、かなり暗いです。

 読まなくても本筋には大きく影響はありませんが、登場人物たちのそれぞれの立場や想い、行動の根拠などはリンの一人称では書けないため、幕間で書いていく予定です。

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