15

 それからというもの、あたしは必死になって仕事に打ち込んだ。

 ハイジが死んだと思い込んだあの日以来、なんだか自分でも理解できないくらいに、ハイジへの反感がくるっと反転してしまったのだ。

 おかげで、気を許すと「ハイジに会いたい」などと馬鹿なことを考えるようになってしまっていた。


(でも、これって明らかにヒヨコの刷り込みとか、吊り橋効果みたいな錯覚よね)

(実際のところ、ハイジはあたしを最後まで無視し続けてたわけで、冷静になってみれば、好感度が上がる理由がないもの)


 というわけで、あたしはわけのわからない感情を振り払うため、必死になって働いた。

 気を許すと、ついぼーっとしてしまう。

 しかし、残念ながらこの店は冬の間、仕事は全く忙しくないわけで……あたしは無理やり元気に接客に務めた。


「いらっしゃいませー! 何名様ですか? 奥の席へどうぞー!」

「おっ、姉ちゃん元気いいな! とりあえずエールと、いつもの煮込み頼まぁ」

「ありがとうございます! 喜んでー! 女将さーん、エールとポトフ一丁ー!」


 バイト先の居酒屋のノリ全開で仕事に打ち込む。

 がむしゃらに働いて、他のことは全て忘れてしまいたかった。


「リンちゃん……なんか変」


 ニコが怪訝そうにあたしを見た。

 ペトラもそんなあたしを呆れたように眺めて


「いや、ウチの店は、そんな妙なノリの店ではないんだがね」


 などと言う。


 だって仕方ないのだ。

 大事にされていたと気づいてしまったから。


(分かりづらいんだよ、あの人の好意は)


 でも、気づいた。

 気づいてしまった。

 大切にされていたことに。

 あたしの意思を尊重してくれたことに。


 姫さまの一件を聞いた今なら理解できる。

 きっと思い入れを深くしたくなかったんだ。

 だから、懐かれてしまわないように、冷たく突き放した。


 「子供」は、困っているときに助けてあげると、すぐに懐いてしまうから。

 苦しんでいる時に優しくすると、すぐに好きになってしまうから。


 そのせいで、相手に辛い思いをさせてしまった事があるから、姫さまを傷つけてしまったことを、今も後悔しているから……だから、なるべくあたしに嫌われるように、無視して、冷たく接して、できるだけ会話も避けていたんだ。


(……会いたいな)


 あの無視は、不器用なハイジの、精一杯の優しさだったのだ。

 そんなことを考えているとペトラに叱られる。


「ほら! また手が止まってる! 元気すぎるかと思ったら、ボーっとして! 変な子だよリンは!」

「うわっ、すみません……」

「アンタ……なんか恋煩いでもしてるみたいだよ? 大丈夫かい?」

「こっ……?!」


 恋?!

 いやいやいや、流石にそれはない!

 あたしは知的なタイプの男性が好みなんであって、あんな野生動物みたいな男はタイプじゃない!


「誤解です! どちらかと言うとハイジはお父さんみたいな感じで……」

「……誰もハイジの話なんてしてやしないじゃないか……」

「あっ!?」

「語るに落ちるとはこのことだね」

「リンちゃん、顔真っ赤」

「やめてぇ〜〜……」


 顔が熱い。

 いや、本当に違うのだ。わかってほしい。


 ハイジが戦死したと思い込んだあの日。

 あたしは彼にもう一度会いたい、会って話がしてみたいと思った––––その気持ちは紛れもなく本物だ。

 本物だが……それは恋とか愛とか、そういう甘ったるいものじゃないんだ。


 そう、どちらかと言うと、あの小屋でいつも飲んでいたハーブティみたいに、渋くてふわっとした感情で……。


「リン! またぼーっとしてるよ!」

「うわぁん! すみません! いらっしゃいませぇーーッ!!」

「だから極端だっつってんだろ! 普通でいいんだ、普通でっ!」

「そんなこと言われてもー!」

「じゃああたしも! いらっしゃいませ~っ!」

「ニコも真似しなくていいんだよ! 何なんだい、一体!」


 そんな風に、あたしは酒場で過ごした。

 ペトラは優しかったし、ニコも可愛いし、客とも仲良くなった。

 居心地がよくて、ここが自分の居場所だと強く感じるようになった。

 もともと賑やかなのは嫌いじゃないし、暇よりは忙しいほうが好きなのだ。


 だから、あたしはハイジのことは忘れて、ここで生きていこうと決めた。



 * * *



 一月ほどそうしているうちに、だんだんハイジのことを思い出すことも少なくなった。

 街にはだいぶ溶け込めたと思う。

 買い物に出ても、店員と談笑したり、名前を知ってくれている人と挨拶しあうようになった。

 あたしはエイヒムのことが大好きになった。


 冬はまだ始まったばかりで、春はまだまだ遠い。

 ヴォリネッリの冬はうんと長いのだ。年の半分は雪に閉ざされてしまうほどに。

 ならば、冬のうちに仕事をしっかり覚えて、こんなややこしい娘を受け入れてくれたペトラへの恩に報いよう。

 ごく自然に、そう決心した。


 日本の居酒屋風の接客をしまくっていたおかげで、街の人達にも「ペトラの店の看板娘」として認識されつつあった。

 今ではニコとあたしは酔っ払いたちの人気者である。

 常連客たちは、みんなやさしい。

 こんな『はぐれ』なんていう、わけのわからない存在を自然に受け入れてくれている。

 ありがたいことだ。


 客といえば、ヘルマンニがちょくちょく顔を出すようになった。

 ヘルマンニはペトラとも顔見知りだった。

 しかし、昔ツケを払わずに逃げたせいで、長らく食堂に近づかなかったらしい。

 「ツケのことは忘れてないよ!」 と恫喝するペトラにだったが、ヘルマンニが素直に頭を下げ、ツケを利子付き払ったことで、ペトラは謝罪を快く受け入れた。

 それからというもの、ヘルマンニは、週に一度は必ず顔を出すようになった。


(何となく分かるんだけど)

(これって多分、ハイジに言われたんだろうな)


 どうせ、変な貴族に目をつけられないように目を配ってやれ、とか言われたんだろう。

 ヘルマンニは腹芸ができるタイプの人間ではないので、顔にでるのだ。

 過保護なことだ、と思った。


 ペトラとヘルマンニ、どちらもハイジの古い知り合いだ。

 それに街の人達の目もあるのだから、奴隷商や他領の貴族もあたしに手出しすることは難しいだろう。

 あたしは随分恵まれている。


 * * *


 ある日、客の一人が「ハイジを見た」と教えてくれた。

 どうやら、毛皮を売りに街へ来ているらしい。


 とたん、胸が高鳴るのがわかった。

 ここしばらくは、ハイジのことを思い出すことも少なくなっていたのに、人の口からハイジの名を聞いた途端、冷静ではいられなかった。


(会いたい!)

(……いや、だめだ、今は仕事中なんだぞ!)


 それに、あたしが会いに行ってもハイジは絶対に喜ぶまい。

 むしろ迷惑そうにしかめっ面をするに決まっているのだ。


(そんな顔でもいいから見てみたい)

(って、あたしは乙女かっての! バカみたいだ!)


 勘違いも甚だしい。

 このバカバカしい気持ちを、あたしは必死に頭から振り払った。


「3番テーブルさん、鶏の煮込みどうぞ! 5番テーブルさん、エール少しお待ち下さい! あっ、いらっしゃいませ、何名様ですか!」


 あたしはハイジのことを頭から振り払うために、必死になって接客に務めた。


「リン! だから張り切り過ぎだっての! もっと普通でいいんだ普通で……って、リン、アンタそれ、どうした?」

「え?」

「あっ、本当だ! リンちゃん、顔色悪いよ! それに目! 目が真っ赤!」

「ええ〜? あれぇ、なんだろ、 煙が目に沁みたんですかね?」


 あたしは強がってそんなことを言うが、目がシパシパしている。

 貧血を起こしたみたいに、フラフラしていた。


(なんじゃこりゃ)

(ちょっと吐き気がするし、なんだか視界も白い……)


 慌てて「えへへ」とごまかす。


ペトラは「はぁ」とため息を吐いた。


「リン、明日は休みだ。一日好きに過ごすがいいさ」

「えっ! いや、いいよそんな、定休日でもないのに」

「だから、冬の間は赤字だっつってんだろ! あたしとニコだけで十分回るっての!」

「リンちゃん、あたしなら大丈夫だよー?」

「でも」

「それよりも、あんたはちょっと気持ちを整理したほうがいい」

「整理って……あたしは別にいつも通り……ですヨ?」

「リンちゃん、言葉遣いが変」

「はん。そうかい……それならそれでいいさね。ただし、体調が悪そうな店員を客に見せるわけにはいかないんだよ。だから、アンタは明日は休み。言うことを聞きな! いいね?」

「……はい……」


 二人から休め休めと猛攻を食らい、しまいには無理やり承諾させられてしまった。

 できれば仕事に打ち込んだほうが楽なのだが、店の迷惑になるなら仕方ながない。

 あたしは早退させられ、トボトボと自室に戻った。


 案の定、上の空とハイテンションを行ったり来たりして、なんだかぐったりと疲れていた。

 くらくらする頭と、ボーッとする視界が不快だった。


 結局、夜はいつもより早くベッドに入り、目を閉じるとあっという間に眠りについた。

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