Heidi 5

 この日は、珍しくアゼムとヴィーゴが留守だった。ヴィーゴを傭兵ギルドに登録しに行くのだという。

 ヘルマンニはすでに登録済みだ。ハイジも登録を勧められたが、ハイジは何故かそれを頑なに拒否した。傭兵ギルドに登録しておかなければ、ただの志願兵になってしまうため、討伐報奨は受けられないと説得を受けたが、それでもハイジは登録を拒否し続けた。

 

 アゼムが街へ出るために居なくなることは日常茶飯事だったが、二人も居なくなることは珍しい。アゼムのことだ、おそらくこれも教育の一環なのだろう。街へ出ることも、置いていかれることも訓練だ。

 

 ハイジは、ヘルマンニと二人で何を話ししていいか分からなかった。

 普段は賑やかに笑っている三人に合わせていればいいのだが、そもそもハイジはあまり社交的な性格ではない。

 対してヘルマンニのほうは、いつもと違う環境を目一杯楽しんでいるように見える。

 巨大化してしまったハイジと比べ、ヘルマンニのほうはまだまだ子供っぽい見た目をしている。背は伸びたし、体も引き締まってはいるが、ヘルマンニは肉弾戦よりも、斥候向きの戦士だ。索敵も速いし、罠を仕掛けるのも巧い。その割に料理だけは下手なのが納得行かないところだが、もしかすると面倒な役割をハイジに押し付けるために、あえて下手くそを装っているのかもしれない。ヘルマンニはそういうところのある男だった。

 

「たまには付き合えよ」


 と、ヘルマンニはハイジに盃を押し付けてきた。

 目の前には、いつもよりも小ぶりな焚き火が燃えている。

 いつもならヨーコやバカみたいに沢山食べるアゼムのために大量の料理が必要なところだが、二人なら簡易的な食事でも全然構わない。「たまには楽しようぜ」というヘルマンニに釣られて、燻製を焚き火で炙っただけの簡易的な食事を済ませた直後のことだった。

 手持ち無沙汰だったハイジは、仕方なくその盃を受け取る。


「飲みやすいように、水で割ってあるからよ。お前でも飲めるはずだ」


 そう言ってヘルマンニはグッと盃を煽る。ヘルマンニの飲んでいるのはストレートの黍酒ラムだ。すでに立派な酒飲みである。

 ハイジは恐る恐る盃に口を付ける。フッと甘い香りがした。覚えがある。これは黒砂糖の香りだ。ヘルマンニを見ると、得意げな顔をしていた。

 

「黍酒を黒砂糖を溶かした水で割ったんだ、飲みやすいぜ」


 確かに飲みやすい。黍酒の芳香と黒砂糖の香りの相性が良い。

 ハイジは、初めての戦場でヘルマンニからもらった黒砂糖のことを思い出し、ついでに黒砂糖にまつわる古い記憶を思い浮かべた。

 

 これは酒のせいなのだろうか? 頭がぼうっとしている

 もう昔のことは思い出したくないはずなのだが、何故か今は辛かった記憶に浸っていたかった。

 いつもなら、思い出しそうになるたびに胸が焼けるように辛くなったのだが、もしかすると魔物の谷ここでの幸せな生活があの憎しみを薄れさせてしまったのだろうか。だとすれば、そんなことは許されない。自分はずっと憎み続けていなければならない。

 

「何があったか知らねぇけどさ、何も憎み続けてなきゃいけねぇってこたぁねぇだろ」


 ヘルマンニがえらく優しい声でそんなことを言った。いつの間にか、思ったことが口に出ていたらしい。恥ずかしい。でも、嫌な気持ちではなかった。

 

「憎しみってよ、原動力にもなるけど、心を削るだろ。俺もそうだけどよ、変態貴族に売り飛ばすために色々仕込まれて……まぁ、細かい話はいいや。気分悪くなるしよ……でもよ、彼奴等のことを俺は永遠に許せないだろうけど、それとは別に、憎んでるわけじゃねぇんだ」

「憎んでない……?」

「ああ、憎んでない。許す許さないってのは、感情じゃなくて意志だ。俺は、俺を良いように利用しようとした連中を許さない。許さないが、もう憎むのはやめた。するべきことは変わらねぇし、余計な感情に振り回されて、心を疲弊させてよ、何にも良いことがねぇからさ」

「……いつになく饒舌だな、ヘルマンニ」

「茶化すなよ。俺だって、ふとした時に思い出すんだ。親が殺されたときのことや、俺の体を娘っ子みたいに改造しようとした変態どものことも、……初めて人を殺したときのことも」


 ヘルマンニはグイと盃を空け、黍酒ラムを注ぎなおす。

 その顔に曇りはなく、むしろ晴れ晴れと笑っているかのように見えた。

 

「でも、師匠に拾われてよ。言われたんだよ。許すな、でも憎むなって。最初は意味わかんなかったぜ。何を言ってやがるんだ、このオッサンは、と思ったな」

「僕は……」


 ハイジは少し躊躇した。

 聞けば、ヘルマンニは自分よりも酷い目に遭っているように思える。いや、こんなものは比較するものではない。しかし、目の前で両親を殺され、奴隷に落とされ、変態たちに弄ばれたヘルマンニは笑っている。


(ヘルマンニには敵わないな)


 ハイジはヘルマンニのことを尊敬している。初めて出会った戦場でも、彼はずっと自分のことを気にかけてくれていたし、それをひけらかすことも、恩着せがましくすることも一切なかった。

 しかも、自分ですら想像もできないほどの、壮絶な経験を乗り越えてきているのに、である。

 ヘルマンニだけじゃない。師匠も、ヨーコも、それぞれがこの狂気の時代に翻弄され、痛めつけられ、それでも果敢に運命に立ち向かっている。

 ハイジにしてみれば、尊敬せざるを得なかった。


 ハイジはヘルマンニに合わせて、ぐっと盃を煽った。


「おっ、ハイジもイケるクチか? まぁ飲め飲め」


 ヘルマンニが嬉しそうに盃に黍酒を注ぐ。

 ハイジはそれをも一気に飲もうとしたが、強すぎてむせてしまった。

 

 ゲホゲホとむせるハイジを、ヘルマンニは呆れたように「初めて酒を飲む奴が、そんな強い酒を一気に煽ってどうする」と言って雑巾を取りに走った。

 あっという間に酒が周り、ハイジはヘルマンニが戻ってくる頃にはひっくり返っていた。

 

「あーあーあー、大丈夫かよ」

「……眼の前で、殺されたんだ」


 ハイジは酒精が回って朦朧としたまま、ポツリと言った。

 

「アンジェは、ぼくを守って殺された––––ハーゲンベックの男たちに」

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