10
こんなに長くハイジと話をしたのは初めてだった。
ハイジの口調はいつも通りポツリ、ポツリとしたものだったが、その分ハイジの感情がよく伝わってきた。
「今でもアンジェさんのことを思い出す?」
「いや、長らく思い出すこともなかった。特に、お前が現れてからは全く」
「え、あたし? なんで?」
「お前の雰囲気が、アンジェによく似ているからだ。単に『はぐれ』というだけでなくな。始めて見た時は驚いたぞ」
「……全然驚いたようには見えなかったけど?」
「そうか? だが……それもあって、正直な話、おれはお前が苦手だった」
「うぐ……」
「だが……まぁこれだけ長く一緒にいるとな。もはやいるのが当たり前の気すらしている」
「そう」
それについては素直に嬉しい。
「それに、俺はもうアンジェの顔を思い出せないんだ」
「え」
「サヤのときはそんなことはなかったんだがな。やはり顔や雰囲気が似ているからだろう。お前の印象が強すぎて、もはやアンジェの顔がどうだったか、はっきり思い出せん」
(うぇえええ……!)
「そ、それは本当にごめん」
「なぜ謝る?」
「だ、だって! 大切な思い出を……!」
「逆だ。俺にとってアンジェは大恩ある養母だが、同時に最も辛い思い出につながっている」
「それにしたって、顔を思い出せないっていうのは流石に……」
写真がないこの世界では、記憶から飛んでしまえばもう思い出す手立てがないのだ。
「おれはよくアンジェを夢に見て、魘された。ヘルマンニあたりはよく知っているが、悲鳴を上げて飛び起たものだ」
「……辛い思い出だものね」
「ここ十数年ほどは滅多になくなっていたんだが、それでも年に数度は発作のように飛び起きたものだ。しかし、お前が現れてからは一度もない。いや、
「……それ以上? どういうこと?」
ハイジはお茶を一口啜ると、少しだけ躊躇したように口を開いた。
「お前がハーゲンベックの冒険者に襲われた日の夜、久しぶりにアンジェの夢を見たんだ」
「あの日ね。どんな夢?」
「あんなことは初めてだった。いつも、アンジェの夢といえば、胸から剣が生えているのを呆然と見ていることしかできない夢だった。だが、あの日だけは違った。––––その夢の中で、俺とアンジェは、お互い本をめくりながら、茶を飲んでいたんだ。アンジェの姿はぼんやりと霞んでいてはっきりしなかったが……穏やかな夢だった」
「それは、ハイジにとっていい夢だったのかな」
「ああ。アンジェを想って幸せな気持ちになれたのは、あれが初めてだったよ。その夢の中でアンジェが使っていたマグが、そら、お前が手に持つそのマグだ」
「あれ、このマグってアンジェさんの物だったの?」
「いや、違う。アンジェの私物はとうの昔に処分した。そのマグはペトラがサヤにと贈ったものだ。まぁ、夢だからな。そうおかしな話でもあるまい」
「そう……」
ペトラとサーヤは決定的に仲違いしたと聞いていたけれど、そんな風に暖かい関係だったこともあるのか。
「それから……サヤか。俺はこれまで十人近い『はぐれ』を見つけ出してきたが、見つけた場所のほとんどは戦場だった。だが、サヤを見つけたのは森の中だ」
「森って、寂しの森?」
「そうだ。ここでまた生活するようになってしばらくした頃だった。気配を感じた。弱々しくて、明らかに魔物とは違う気配だった。気になって確認しに行くと、八つくらいに見える子供が泣きながら木の根元で蹲っていた」
「……寂しの森でそんな事してたら、すぐに食べられちゃわない?」
「ああ、昼とは言え、魔獣がいないわけではないからな。だから、俺はその子を狙っている魔獣を殺し、保護した」
「それがサーヤ」
「ああ。しかし、これがとんでもない跳ねっ返りだった」
「えぇ……!?」
あれぇ……イメージと違うぞ……。
そういえばペトラもサーヤを指して「行動力の化け物」とか言ってたっけ……。
「そういう意味ではお前にも似ているな。というかもはや『はぐれ』の特長だな。それまでに拾った『はぐれ』も、一様に普通ではなかったぞ」
「あたしは普通だと思うんだけどなぁ……」
「何を言ってるんだ。俺の拾った『はぐれ』の中でも、おまえが跳ねっ返りの筆頭だ」
「えぇ、酷くない?」
「のこのこ戦場まで付いてくるような『はぐれ』が他にいるか?」
「うぐ……」
それを言われると弱い。
「だが、それ以外では、サヤとお前ではだいぶ違うな。まず、サヤは体が弱くて、戦うという面ではからっきしだった」
「それ、自分でも言ってたわ」
「そうか。あとは……料理や掃除もあまり得意ではなかったな。というか、正直あまり役には立たなかった」
「なんか、散々なんだけど……」
「お前に似ているところもあるぞ。何しろ、俺の名前を知った時のお前とサヤの反応は、全く同じだった」
「……うぐ」
「サヤも、声を殺して笑い転げていた。お前が初めて笑ってみせたのも、おれの名前を聞いた時だったな? あの時ばかりは懐かしい気持ちになったぞ」
「あったわね、そんなこと……」
あの日、ハイジは目を細めてあたしを見ていた。
あたしを通して、サヤのことを思い出していたのだ。
「他には……ショウユを欲しがったこと、あとはペトラの店で看板娘として人気になったことくらいか」
「醤油! あの調味料、なんだったの?」
「わからんが、ヨーコに頼んだら手に入れてくれた。俺の口には合わなかったが、サヤはたまに取り出して舐めていたようだ」
「ぶはっ」
ホームシックになって醤油を舐めるサーヤを思い出して笑ってしまった。
そうか、あれって火を通しちゃダメなんだ。
古くて駄目になってただけかもしれないけど。
「ただ、サヤが成し遂げた偉業もある」
「へぇ?」
「当時、この世界では『はぐれ』は迫害対象だった。不吉な存在とされて、人々からは嫌われていたし、同時に高い能力に目をつけられて、貴族や大商人に奴隷同然に飼い殺されるのが当たり前だった」
「エイヒムのみんなは良くしてくれるけど……?」
「だから、それがサヤの功績だ。あいつは底抜けに明るかった。ペトラの店で看板娘として働き始めると、あっという間に人気者になった。そのおかげでエイヒムでは『はぐれ』への偏見が無くなったと言っていい」
「なんと……それは凄いわね」
「その後のことは、ヨーコに聞いたんだろう?」
「……そうね。ハイジがサーヤのためにどれだけ無茶をしたのかって話と、サーヤの一言でそれが全部ひっくり返ったって話は聞いた」
「概ねそのとおりだ。未だに、あの時どうすれば正解だったのか、おれにはわからん。ただ、もう会うべきじゃないとは感じている」
「……サーヤのこと、好きだった?」
「ああ、もちろん。好きだったし、大切だったよ。ただ、住む世界が違う。だから、できるだけおれの目の届かないところで幸せになってほしいと思っていた」
「そうかぁ……」
ちらりとハイジを見る。
この先を訊いていいものなのだろうか––––だが、この流れならば、訊いてもこの関係が壊れることはない気がした。
「……あたしは?」
「うん?」
「あたしについては、どう思ってる?」
「ふむ……最初はとにかく迷惑だったな。とっととエイヒムに連れて行って、仕事を見つけて放り出そうと、そればかり考えていた」
「ちょ! ……酷くない?!」
「……そうは言うが、『はぐれ』との同居はもう懲り懲りだと思っていたんだ、仕方ないだろう」
「うー……我慢する……じゃあ、そのあとは?」
「しばらく一緒に過ごして、お前がここでの生活で役に立とうと奮闘しているのを見るのは楽しかった」
「うわ、悪趣味」
「だが、おれよりもむしろお前がおれを拒絶していただろう。だから、やはりとっととエイヒムで仕事を見つけて放り出そうと思っていた」
「うぅ〜……」
ハイジのあたしに対する印象が辛辣すぎる……。
「だが…………いや、うむ……」
「なによぅ」
「……ギルド裏の訓練場で『戦い方を教えろ』と叫んだことがあっただろう」
「ええ、あったわね」
「あの時、お前と一緒にいるのも悪くない、と思った」
「え」
「少なくとも、迷惑だとは思わなくなったよ」
「それは、今も?」
「ああ。というよりは、すでに居て当たり前という感覚だな」
「……ありがと」
手の中のマグはすでに空になっていた。
いつもより濃いハーブティは、あたしの魔力を増強しすぎたらしい。
頭が
「ね、ハイジ」
「何だ」
「あたし、まだここにいてもいい?」
「……? なぜそんなことを聞く?」
「あたしと一緒にいることが、苦痛なんじゃないかって……そう思って」
「いらん心配だ」
「放り出さない?」
「放り出されるようなことをしなければな」
「じゃあ、一緒にいていいのね?」
「ああ、
ハイジのその言葉は、あたしの中にある全ての不安を一瞬で溶かしきった。
湧き上がるような安心感で、涙がぽろりと転がり落ちた。
だから––––つい口に出していってしまったのだ。
「ハイジ、大好きよ」
しかし、ハイジは肩をすくめて、
「聞かなかったことにする」
と、何処かで聞いたような返事をした。
その顔は少しだけ微笑んでいるように見えた。
本当に、この朴念仁の唐変木は。
意地悪で、優しくて、冷たくて、暖かくて、苦くて––––甘い。
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