エイヒムに戻ると、あたしはすぐに寂しの森へ向かうことにした。

 受勲式は現実感がなかったし、サーヤのおかげで気が逸れてくれていたけれど、ヴィーゴから聞かされた様々な話にショックを受けたあたしは、とてもではないが、恥ずかしくてペトラのところに顔を出す気にはなれなかったのだ。


 今の自分なら、エイヒムから寂しの森の道中に危険などありえない。それに、一人で考えたいことが山程あったのだ。


 ミッラにペトラへの伝言を頼み、あたしはトボトボと歩き始める。

 森へ一人で向かうのは考えてみればこれが初めてだった。

 すでに日は暮れ始めている。森まで何時間かかるのだろうか。できれば朝までには森に着いておきたいところだ。

 

 でも、ハイジの前でどんな顔をすればいいのだろうか。

 あたしはこの日、この世界に来て一番心細い気持ちだった。

 

 すでにあたしの体はこの世界に合わせて作り変えられている。意識しようがすまいが、視界には魔力を通した世界が重なっている。どんなに真っ暗でも、昼間と変わりはしない。いや、むしろ昼間のほうが邪魔な光のせいで見通しが悪い気すらする。

 

 道中、何度も魔獣の気配を感じたが、一匹たりとも襲ってこようとはしなかった。

 視線が通れば問答無用で襲いかかってくる魔獣達ではあるが、どうやらあたしの気配は魔獣達にとって、ハイジ並みに危険らしい。

 奈落の底みたいな気分だったので、むしろ襲ってきてくれたほうが気は楽だったのに、世の中ままならないものだ。

 

 今の季節は秋。今年の夏はハーゲンベックに潰されてしまった。

 これからは、いつもどおりの冬の生活が始まる。

 

(……本当だろうか)


 自分は、これまでどおりの冬を過ごすことができるのだろうか。

 ハイジはあたしを放り出したくはないだろうか。


(嫌だ…………)

(でも、もしあたしの存在がハイジを傷つけるなら、あたしは––––)


 頬に当たる風は、まだ暖かさを感じさせる。

 あたしは罰が欲しかった。冬の刺すように冷たい風が恋しい。

 

 この世界に飛ばされてきた日のことを思い出す。

 魔物の領域を切り分ける大雪原を見た時の絶望感が懐かしい。

 もはや、一晩中歩いても疲れもしない。今なら鼻歌交じりで踏破できるにちがいない。

 

 あの頃は、ハイジの存在が恐ろしかった。魔獣が、雪が、冷たい風が、この世界の何もかもが恐ろしかった。

 なのに––––今では何もかもが愛しい。


 この世界では、あたしは異物なのだ。

 そんなあたしを受け入れてくれたこの世界が、あたしは泣きたくなるほど好きだ。

 

 

 * * *

 

 

 魔物の領域に到着すると、夜が白々と明け始めていた。

 空を見上げると、大量の星々がパラパラと降ってきそうなほど輝いている。

 

 この森を過ぎれば、いつもの一本道に出て、森小屋を視認できるだろう。

 あたしは躊躇して立ち止まった。

 もう十時間近くは歩き続けているのに、ハイジに何を言えばいいのか、一言もまとまらなかった。

 

 郷愁にも似た気持ちに突き動かされ、あたしはまた足を踏み出す。

 そして一本道––––灯りの消えた森小屋は見慣れなかった。

 と––––、あたしが森を視認した瞬間––––森小屋に灯りが灯った。

 ハイジが、あたしの気配に気付いて起きてきたのだろう。


 あたしはこみ上げる涙を押さえられなかった。

 

(––––ハイジ––––!!)


 あたしは逸る気持ちを抑えながら、森小屋へ向かって足を進めた。

 しかし、扉の前まで来ると、また躊躇する。

 

 この状況は、この世界に来たあの日に似ていた。

 あの時も、あたしはドアを叩くのに躊躇して、吹雪の中凍えながら突っ立っていたっけ。

 ドアを叩いても叩いても返事がなくて––––あたしは寒さに耐えきれずに自分で扉を開いたのだった。

 

 むしろ凍えてしまいたい気持ちだったが、残念ながら、今はまだ秋である。

 扉を開くかどうかで散々迷った挙げ句、あたしは扉に手をやろうとして––––、


「何をやってるんだ」


 あたしが開けるより早く、ハイジがドアを開けて、あたしを見下ろしていた。

 ハイジの顔はいつもと何ら変わりなく––––いや、どこか呆れたような表情を浮かべていた。あたしを非難するような色は全く見られない。

 

(扉を開けてくれた)

(あたしのために)

 

「ハイジ!!」


 あたしは我慢できずにハイジに突進した。


「なんだ、どうした?」


 ぶつかるように抱きついてきたあたしにハイジは驚いたらしい。

 あたしは何を言えばいいかわからなかった。


「ハイジ、ハイジ……ハイジ」

「どうした? 何かあったのか?」

「ごめん、ごめんね」

「……何を言ってるんだ、おまえは」

「ごめんね、ハイジ、もうちょっとだけこのまま……」

「やかましい」


 しかしハイジはいつもどおり全く空気を読んでくれなかった。

 べりりとあたしを引き剥がした。


「あぅ……」

「何があったか知らんが、とりあえず家に入れ。なぜ歩いて帰ってきた? ギャレコに馬車を依頼していたのに」

「…………」

「茶を淹れる。お前も飲むか?」

「飲む」

「とりあえず座れ。落ち着かん」


 ハイジはゴツリ、ゴツリと足音を立ててキッチンへ向かい、マグを二つ用意した。

 差し出されたのは、いつもの赤い花柄の丸いマグだ。

 もはや魔力酔いの心配がないからだろう、ハイジと同じ長さのハーブが突っ込まれている。

 

 あたしはグスグスと泣きながらハイジの淹れてくれたお茶を啜る。

 お茶は火傷しそうなほどに熱い。

 ハイジはいつもどおり、完全な無言だ。

 

 半月ぶりの小屋を見回す。

 殺風景に見えて、そこら中にサーヤの居た痕跡がある。

 まず、この可愛らしいマグだ。

 あたしの部屋にも、花のレリーフがいくつもあるし、色褪せてはいるものの、ベッドカバーも刺繍が施された可愛らしいものだ。

 それは、自分ではない誰かに向けられた、深い深い愛情の痕跡。


(それを痛いほど感じて、酔っ払いたちの騙る英雄譚を聞いて、勝手に色々想像して、決めつけていたのか)


 これではヴィーゴに責められるのは当然だ。

 

(ハイジ、怒ってたなぁ)


 ––––誰から聞いたか知らんが、くだらん噂を真に受けるな。

 

 自己嫌悪で死にそうだった。

 お茶を啜りながら、ちらりとハイジを見る。


「……それで、何があった」


(!?)

(ハイジが自分から話しかけてきた!?)


「え、えと……何で?」

「いつも手に負えない跳ねっ返りが、そんな風にしおらしく泣いていれば、気になるのは当たり前だ」

「……あたし、跳ねっ返りかな」

「まさか、自覚がないのか?」

「う、うん……」

「そうか……。前にも言ったが、おまえはどこかおかしいのではないか?」


(……確かに言われたことがあるわね……)

(あぁ「なぜ俺を怖がらないのか」って訊かれたときか)


 あたしが襲われた日だ。

 哀れな盗賊ピエタリを尋問した後に、そう言われた記憶がある。


「うん、あたし、おかしいのかも」

「……素直過ぎて気味が悪いぞ……本当にどうしたんだ」


 ハイジは気遣わしげにあたしに視線を向けた。

 

「城で何かあったか?」

「う、ううん……あ、聞きたくないかも知れないけど、サーヤから伝言預かってるよ」

「ふん?」

「と言っても、前と同じだけどね。『英雄さんに、ありがとうと伝えて』だって。……その、ごめんね」

「うん? なぜ謝る?」

「その、サーヤのこと……」

「ああ……何を落ち込んでいるのかと思えば、ギルドの一件か」


 ハイジはなぜかホッとしたように小さくため息をついた。


「気にするな。何だ、どうせヨーコ辺りに虐められたんだろう」

「……う、うん……あ、でもヴィーゴさんは悪くないよ、むしろ、あたしのためだったんだと思う」


 あたしがヴィーゴを庇うように言うと、ハイジは少しだけ目を細めた。


「ヨーコは昔からそういう男だった。だが、ちょっとやりすぎるきらいがある」

「そうかな。そうかも」

「気にするな。好き勝手噂されることには慣れている。不快だが……否定しなかった俺の責任でもある」

「やっぱり不快?」

「そりゃあな。不快だ」

「……ごめん……」

「気にするな、と言ったはずだぞ」


 ハイジはちょっと凄むように言った。

 

「……聞きたいか?」

「何を?」

「当時の話だ」

「それって、サーヤについて?」

「そうだな、サヤについての話でもある」

「……苦痛じゃない?」

「いや、全く。確かにあまり良い思い出ではないが、訊かれればいつでも話するつもりでいた」

「なら、聞かせて?」


 あたしが言うと、ハイジは手に持った本をテーブルに置いた。

 

「わかった。どこから話すべきか……やはり、アンジェの話からか」

「アンジェ……?」


 また知らない女性の名前が出てきたが、あたしは大人しくハイジの話を聞くことにした。

 

「俺は孤児だ。両親の顔も知らん。気付いた時はアンジェという『はぐれ』に育てられていた––––」


 ハイジが語り始めた。

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