9
エイヒムに戻ると、あたしはすぐに寂しの森へ向かうことにした。
受勲式は現実感がなかったし、サーヤのおかげで気が逸れてくれていたけれど、ヴィーゴから聞かされた様々な話にショックを受けたあたしは、とてもではないが、恥ずかしくてペトラのところに顔を出す気にはなれなかったのだ。
今の自分なら、エイヒムから寂しの森の道中に危険などありえない。それに、一人で考えたいことが山程あったのだ。
ミッラにペトラへの伝言を頼み、あたしはトボトボと歩き始める。
森へ一人で向かうのは考えてみればこれが初めてだった。
すでに日は暮れ始めている。森まで何時間かかるのだろうか。できれば朝までには森に着いておきたいところだ。
でも、ハイジの前でどんな顔をすればいいのだろうか。
あたしはこの日、この世界に来て一番心細い気持ちだった。
すでにあたしの体はこの世界に合わせて作り変えられている。意識しようがすまいが、視界には魔力を通した世界が重なっている。どんなに真っ暗でも、昼間と変わりはしない。いや、むしろ昼間のほうが邪魔な光のせいで見通しが悪い気すらする。
道中、何度も魔獣の気配を感じたが、一匹たりとも襲ってこようとはしなかった。
視線が通れば問答無用で襲いかかってくる魔獣達ではあるが、どうやらあたしの気配は魔獣達にとって、ハイジ並みに危険らしい。
奈落の底みたいな気分だったので、むしろ襲ってきてくれたほうが気は楽だったのに、世の中ままならないものだ。
今の季節は秋。今年の夏はハーゲンベックに潰されてしまった。
これからは、いつもどおりの冬の生活が始まる。
(……本当だろうか)
自分は、これまでどおりの冬を過ごすことができるのだろうか。
ハイジはあたしを放り出したくはないだろうか。
(嫌だ…………)
(でも、もしあたしの存在がハイジを傷つけるなら、あたしは––––)
頬に当たる風は、まだ暖かさを感じさせる。
あたしは罰が欲しかった。冬の刺すように冷たい風が恋しい。
この世界に飛ばされてきた日のことを思い出す。
魔物の領域を切り分ける大雪原を見た時の絶望感が懐かしい。
もはや、一晩中歩いても疲れもしない。今なら鼻歌交じりで踏破できるにちがいない。
あの頃は、ハイジの存在が恐ろしかった。魔獣が、雪が、冷たい風が、この世界の何もかもが恐ろしかった。
なのに––––今では何もかもが愛しい。
この世界では、あたしは異物なのだ。
そんなあたしを受け入れてくれたこの世界が、あたしは泣きたくなるほど好きだ。
* * *
魔物の領域に到着すると、夜が白々と明け始めていた。
空を見上げると、大量の星々がパラパラと降ってきそうなほど輝いている。
この森を過ぎれば、いつもの一本道に出て、森小屋を視認できるだろう。
あたしは躊躇して立ち止まった。
もう十時間近くは歩き続けているのに、ハイジに何を言えばいいのか、一言もまとまらなかった。
郷愁にも似た気持ちに突き動かされ、あたしはまた足を踏み出す。
そして一本道––––灯りの消えた森小屋は見慣れなかった。
と––––、あたしが森を視認した瞬間––––森小屋に灯りが灯った。
ハイジが、あたしの気配に気付いて起きてきたのだろう。
あたしはこみ上げる涙を押さえられなかった。
(––––ハイジ––––!!)
あたしは逸る気持ちを抑えながら、森小屋へ向かって足を進めた。
しかし、扉の前まで来ると、また躊躇する。
この状況は、この世界に来たあの日に似ていた。
あの時も、あたしはドアを叩くのに躊躇して、吹雪の中凍えながら突っ立っていたっけ。
ドアを叩いても叩いても返事がなくて––––あたしは寒さに耐えきれずに自分で扉を開いたのだった。
むしろ凍えてしまいたい気持ちだったが、残念ながら、今はまだ秋である。
扉を開くかどうかで散々迷った挙げ句、あたしは扉に手をやろうとして––––、
「何をやってるんだ」
あたしが開けるより早く、ハイジがドアを開けて、あたしを見下ろしていた。
ハイジの顔はいつもと何ら変わりなく––––いや、どこか呆れたような表情を浮かべていた。あたしを非難するような色は全く見られない。
(扉を開けてくれた)
(あたしのために)
「ハイジ!!」
あたしは我慢できずにハイジに突進した。
「なんだ、どうした?」
ぶつかるように抱きついてきたあたしにハイジは驚いたらしい。
あたしは何を言えばいいかわからなかった。
「ハイジ、ハイジ……ハイジ」
「どうした? 何かあったのか?」
「ごめん、ごめんね」
「……何を言ってるんだ、おまえは」
「ごめんね、ハイジ、もうちょっとだけこのまま……」
「やかましい」
しかしハイジはいつもどおり全く空気を読んでくれなかった。
べりりとあたしを引き剥がした。
「あぅ……」
「何があったか知らんが、とりあえず家に入れ。なぜ歩いて帰ってきた? ギャレコに馬車を依頼していたのに」
「…………」
「茶を淹れる。お前も飲むか?」
「飲む」
「とりあえず座れ。落ち着かん」
ハイジはゴツリ、ゴツリと足音を立ててキッチンへ向かい、マグを二つ用意した。
差し出されたのは、いつもの赤い花柄の丸いマグだ。
もはや魔力酔いの心配がないからだろう、ハイジと同じ長さのハーブが突っ込まれている。
あたしはグスグスと泣きながらハイジの淹れてくれたお茶を啜る。
お茶は火傷しそうなほどに熱い。
ハイジはいつもどおり、完全な無言だ。
半月ぶりの小屋を見回す。
殺風景に見えて、そこら中にサーヤの居た痕跡がある。
まず、この可愛らしいマグだ。
あたしの部屋にも、花のレリーフがいくつもあるし、色褪せてはいるものの、ベッドカバーも刺繍が施された可愛らしいものだ。
それは、自分ではない誰かに向けられた、深い深い愛情の痕跡。
(それを痛いほど感じて、酔っ払いたちの騙る英雄譚を聞いて、勝手に色々想像して、決めつけていたのか)
これではヴィーゴに責められるのは当然だ。
(ハイジ、怒ってたなぁ)
––––誰から聞いたか知らんが、くだらん噂を真に受けるな。
自己嫌悪で死にそうだった。
お茶を啜りながら、ちらりとハイジを見る。
「……それで、何があった」
(!?)
(ハイジが自分から話しかけてきた!?)
「え、えと……何で?」
「いつも手に負えない跳ねっ返りが、そんな風にしおらしく泣いていれば、気になるのは当たり前だ」
「……あたし、跳ねっ返りかな」
「まさか、自覚がないのか?」
「う、うん……」
「そうか……。前にも言ったが、おまえはどこかおかしいのではないか?」
(……確かに言われたことがあるわね……)
(あぁ「なぜ俺を怖がらないのか」って訊かれたときか)
あたしが襲われた日だ。
「うん、あたし、おかしいのかも」
「……素直過ぎて気味が悪いぞ……本当にどうしたんだ」
ハイジは気遣わしげにあたしに視線を向けた。
「城で何かあったか?」
「う、ううん……あ、聞きたくないかも知れないけど、サーヤから伝言預かってるよ」
「ふん?」
「と言っても、前と同じだけどね。『英雄さんに、ありがとうと伝えて』だって。……その、ごめんね」
「うん? なぜ謝る?」
「その、サーヤのこと……」
「ああ……何を落ち込んでいるのかと思えば、ギルドの一件か」
ハイジはなぜかホッとしたように小さくため息をついた。
「気にするな。何だ、どうせヨーコ辺りに虐められたんだろう」
「……う、うん……あ、でもヴィーゴさんは悪くないよ、むしろ、あたしのためだったんだと思う」
あたしがヴィーゴを庇うように言うと、ハイジは少しだけ目を細めた。
「ヨーコは昔からそういう男だった。だが、ちょっとやりすぎるきらいがある」
「そうかな。そうかも」
「気にするな。好き勝手噂されることには慣れている。不快だが……否定しなかった俺の責任でもある」
「やっぱり不快?」
「そりゃあな。不快だ」
「……ごめん……」
「気にするな、と言ったはずだぞ」
ハイジはちょっと凄むように言った。
「……聞きたいか?」
「何を?」
「当時の話だ」
「それって、サーヤについて?」
「そうだな、サヤについての話でもある」
「……苦痛じゃない?」
「いや、全く。確かにあまり良い思い出ではないが、訊かれればいつでも話するつもりでいた」
「なら、聞かせて?」
あたしが言うと、ハイジは手に持った本をテーブルに置いた。
「わかった。どこから話すべきか……やはり、アンジェの話からか」
「アンジェ……?」
また知らない女性の名前が出てきたが、あたしは大人しくハイジの話を聞くことにした。
「俺は孤児だ。両親の顔も知らん。気付いた時はアンジェという『はぐれ』に育てられていた––––」
ハイジが語り始めた。
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