2
「誰だ」
野太く、どこか怒りを含んだ男の声。
ゴト、ゴト、ゴトと重たい靴音とともに、奥からヌッと顔を出したのは、背の高い、巨大な獣のような体格の男だった。
「ひっ!?」
背の丈は2メートル近いのではないだろうか。
みすぼらしいシャツが、筋肉でパンパンに膨らんでいる。
逆光でよくはわからないが、短く刈られた髪は暗い金髪で、異常に鋭い眼光を放つ目の色は深い青。
無精髭と、一直線に結ばれた口、太い首。眉間に皺を寄せて、私を睨んでいる。
どう見ても日本人ではないし、こんな野生動物みたいな現実離れした体格の人間を、わたしはかつて一度だって見たことはなかった。
――恐怖心が爆発した。
「きゃああああっ!!!」
恐慌状態に陥った私は、悲鳴を上げながら、後ろの扉を開けて逃げ込んだ。
(鍵ッ!……鍵を閉めないと……! ああっ、どうしよう! 鍵がない!)
どうしよう、よりによってこんな袋小路に逃げ込んでしまった!
(鍵がない……どうしよう……!どうしたら……!)
何なのだ、この状況は!
状況を整理しようにも、わけが分からなすぎてパニックを抑えられない。呼吸が荒い。おかしい。なぜだ。あたしはついさっきまで、両親と東京のレストランで食事をしてたはずなのに!
それがドアをひとつくぐっただけで、なにやら北国の小屋の一室に立っていて、しかもあんな恐ろしげな男と遭遇して、袋小路に逃げ込んでいる!
男の形相はまるで鬼のように見えた。
とてもではないが、初対面の女性に対して優しく接してくれそうには見えなかった。
あの腕の太さ、はちきれそうな胸。
無駄な贅肉のなさそうな体躯は、まるで巨大な虎のような……。
ひと目見て「暴力」を想起させるに十分だった。
扉を男に開けられないように背で抑えつけながら、必死になって頭を巡らせる。
逃げ込んだ部屋を見回すと、男が寝るしては小ぶりの寝台と机、本箱だけがある殺風景な部屋だった。
ここから逃げるにはどうしたらいいか、死にものぐるいで考える。
(……窓!)
窓の外を見ると、雪の積もった森だった。
(なんで?! )
人工的なものが一切ない、寒々しい風景が広がっている。
ここ、東京じゃないの?!
部屋はシンと冷え込んでいる。
電灯のない薄暗い部屋には、窓から青白い光が差し込んでいるばかりだ。
(助けて……)
思わず、声が出る。
「助けて……! 誰か……!!」
すると、ドアの向こうで「ゴトリ」と足音がした
「ひいっ……!」
膨れ上がる恐怖に、喉の奥から悲鳴が上がってくるのを止められない。
(ハァッ……! ハァッ……!)
必死になってドアを押さえる。
あの男の体格を考えれば、あたしがどれだけ押さえたってきっと無駄だろう。
それでも抵抗せざるを得ない。
しかし、足音は「ゴト、ゴト、ゴト……」と遠ざかっていった。
(まさか、武器でも取りに行った?)
いや、そんな必要はないだろう。
あの男は一度あたしを目視している。まさかこんな小娘相手に武器が必要だとは思うまい。
男の意図はわからないが、とても安心できる状況にはなかった。
あんな巨大な男に組み伏せられたら、あたしでは絶対に抵抗できない。
一瞬、男に乱暴されている自分を想像して、恐怖のあまり慌てて頭から振り払う。
(逃げなくちゃ……!)
逃げ道は一箇所しかない。
この部屋にはドアはひとつしかない。
部屋から出れば、あの男がいる。
(窓から逃げるしかない!)
窓から逃げれば、何とかなるかもしれない。
幸い、直前までレストランにいたおかげでちゃんと靴を履いている。残念ながらスニーカーではなくローファーだったが、それでも裸足よりはマシだ。
こちらは短距離走に6年も青春を捧げてきたのだ。
あんな巨体では、男はあたしに追いつくことはできないだろう。
……希望が見えてきた気がした。
なるべく音を立てないように窓に近づく。
窓は単純な仕組みの跳ね上げ窓だ。薄っすらと隙間風が入ってくる。
古ぼけた真鍮の錠を外し、窓を跳ね上げる。
ビュウっと、カミソリのようにに鋭い冷気が顔に当たる。
よかった、窓の外は普通の地面だ。崖でもあったらどうしようかと思った。
窓から這い出し、飛び降りる。
雪に手が触れて、その冷たさにこれが夢ではないのだと思い知らされる。
外は一段と寒く、一気に体温が奪われる感覚があった。
(逃げなきゃ……!)
小屋の周りは、白樺らしき白い木々が囲んでいる。
男から見えない方向へ逃げたほうが良いかと考えるが、どうせ雪に足跡が残るだろう。それなら走りやすい道のほうが逃げ切るためには良いかもしれない。
さっと見回す限り、小屋からは一本道しかなかった。あとは白樺の森だ。
ならば、森へ入るよりも、あの道を一気に走り抜ける!
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