魔物の森のハイジ

カイエ

#1

 ドアの向こうは北国だった。

 

「何? これ……」

 

 見覚えのない、薄暗い木造の小屋。

 思わず後ずさるとクラリと目眩がした。

 

 おかしいな。

 あたし、さっきまでレストランにいたはずなんだけど。

 

 

 * * *

 1

 

 今日は卒業式だった。

 

 友人たちとの別れが寂しくて、泣いて泣いて、抱き合って、再会を約束して、後輩には制服のボタンをあげたりした。

 あまり仲の良くなかった子たちとも、この日ばかりは別れを惜しんで、一緒に写真を撮ったりした。

 先生たちも涙目になっていて、怖かった陸上のコーチも人間なんだなぁと思った。

 

 ああ、もう明日からは、この人たちと毎日会うことはできないんだ。

 

 学校は中高一貫の女子校だった。

 陸上に明け暮れた6年間。

 短距離走では都内でもそれなりの成績を収めることができたが、勉強の方は振るわず、目標にしていた大学には手が届かなかった。

 両親には1年だけ浪人を許可してもらっている。

 だから、明日からは受験勉強三昧だ。

 

 桜の花びらの舞い散る中、父親が「今日くらいはお祝いに、ちょっと奮発しよう」と言い出した。

 もちろん、一も二もなく賛成した。

 連れて行かれたのは、都内でも割と有名なイタリア料理店だった。

「予約してたの?」と訊くと、父はちょっとだけはにかんで「まぁ、リンの晴れ舞台だしね」と答えてくれた。

「格好つけちゃって」と母も笑った。

 

 幸せだった。

 

 それにしても今日は泣きすぎた。

 おかげでちょっと頭痛がする。ハンカチを濡らして目を冷やそう。

 そんなことを考えて、化粧室に向かう。

 目を押さえながら化粧室の扉を開けて中に入り――後ろ手に扉を閉めて、先ほどの台詞になる。

 

 

 * * *

 

 

「何? これ……」

 

 そこは、どう見ても高級レストランの化粧室には見えなかった。

 照明のついてない、薄暗い木造の小屋の中だ。

 窓の外は……雪? 窓枠にも雪が積もっていて、しかし部屋の空気は温かい。

 無骨な木のテーブルと椅子があって、奥からはシュンシュンとお湯の沸くような音がする。

 今は、桜の舞い散る春のはずなんだけど。

 

「何? どういうこと?」

 

 化粧室のつもりで、スタッフルームにでも入ってしまったのだろうか。

 だとしたらすぐに出ないと。

 

「……失礼しました~……」

 

 そういって今入ってきたばかりのドアを開けると、そこも小屋の一室のようだった。

 ベッドや家具が備え付けられた寝室だった。

 サァッと肌寒い空気が流れ込んでくる。

 

「……はい?」

 

 何だこれ。夢でも見ているの?

 ドアを開けて、くぐり、後ろ手にドア閉めて、同じドアをまたすぐに開けたのだ。

 ドアを間違える要素なんて絶対にない。

 だからドアの向こうはレストランのはずだ。

 絶対に間違いないはずなんだ。

 

 不安が襲いかかる。

 何が起きてる?

 自分は今、どういう状況なの?

 

「パパ? ママ?」

 

 思わず両親を呼ぶ。

 意味がわからなかった。夢なら早く醒めて欲しい。

 逃げ出したいような衝動に駆られるが、どこへ逃げろというのか。

 それに、下手にウロウロすると戻れなくなるような気がして、あたしはただそこに立ちすくむ。

 

 どうしよう。何が起きてるの?

 夢だと思いたいが、あまりにリアルだ。

 足が震えだす。

 

「パパ! ママ……!」

 

 その時、小屋の奥から、人の声がした。

 低い男の声だ。

 

「*@#れ$%^&か?」

 

(!!!!)

 

 ビクリと震え、動けないまま立ちすくむ。

 

「だ^&*れか$%のか?」

 

 野太く掠れた低い声だった。

 どこかドイツ語っぽい響きの発音だが、

 

「誰だ」

 

 なぜか、初めて聞くその言語を、あたしは正確に理解していた。

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