Heidi 3
ハイジは目を覚ますと、酷い頭痛に顔をしかめた。
そう言えば緑色の嫌な匂いのする薬を嗅がされた記憶がある。それは怪我をした兵士の痛みを和らげるための麻酔だったが、ハイジにその知識はない。
あれほど騒然としていたのに、今は随分静かだった。どうやらすでに儀礼戦は終了したらしい。そういえば事前に「儀礼戦は数時間で終わることもある」と聞いた気がする。
勝ったのだろうか、負けたのだろうか。あるいは決着はついておらず、儀礼戦が終わっただけなのだろうか。
ハイジは頭の痛さを無視して体を起こした。ここは快適過ぎる。自分のような殺人鬼がこのような場所に居て言いはずがない。
––––
そのことを思い出したハイジは、急激な吐き気を抑えきれずに、胃の中を全てぶちまけた。ベッドを汚してしまった。胃の中にはほとんど何も残っていなかった。
ゲホゲホと咳き込みながら、ベッドから這い出した。
真っ直ぐ歩くのも難しいくらいにフラフラしている。
自分が人を殺したという事実が重かった。
あれほどハーゲンベックに与する人間たちが憎かったはずの自分が、今は人の命を奪ってしまったことに愕然としている。
手にはまだ殺したときの手応えが残っていた。レイピアで皮膚を突き破った時の衝撃、柔らかい内蔵を切り裂きながら進む刃物の感触、背中の筋肉を突き破り貫通したときの手応え、ほとんど抵抗なく切り裂けた首筋と、あとは頭から大量に浴びた熱い血しぶき。全てが生々しく思い出され、ハイジはその場にうずくまり、何度も吐いた。吐いたが胃の中が空なので、喉を傷つけるだけだった。
(
ハイジは重い足を引きずって天幕から外に出たが、そこには見覚えのある少年が座っていた。
ヘルマンニだった。
「お、ハイジ起きたのか」
「ヘルマンニ……」
何故こいつがここにいる。
今は誰とも話がしたくなかったので、ハイジは無視することにして、人気の少ないところへ向かうことにした。
「ちょちょちょ、どこ行くんだよ!」
「……関係ないだろ」
「お前、どうしたんだよ、怪我はないんだろ? せっかく
「……うるさい」
「聞いたぜ? 星2、しかもどちらも二つ名持ちだってよ! たぶん、報奨金が出るぜ!」
「……要らない」
「要らないってこたぁねぇだろうよ」
ヘルマンニがまとわりついてくるが、今のハイジにそれを押し返すだけの力はない。
あまりにうるさいので、無視して歩き続けることにした。
しかし、一人になるどころか、ここでもう一人が増えた。
長身で、トカゲみたいに冷たい顔をした年上の少年だった。
「ヘルマンニ、そいつか、言ってた星2ってのは。なんだ、細っこいやつだな……本当に星2なのか?」
「嘘じゃねぇよ、ラハテラ軍曹が目の前で見たってよ」
(また増えた)
ハイジは増えた少年とヘルマンニを無視することにした。
戦争がどういう結果になったのかは知らないが、どのみち今日の戦いは終わりだろう。また馬車に乗って街へ戻ることになるのかもしれないが、そんな気にはなれなかった。
それくらいなら、一人で歩き、力尽きれば適当な魔獣に喰い殺されたほうがマシだ。
「ヨーコ、ラハテラさんにハイジが起きたって言ってきてよ」
「ああん? チッ、面倒くせえな……」
ヨーコと呼ばれた少年は、悪態をつきながら走り去っていく。
どうせならヘルマンニも消えてくれればいいと思ったが、無視すると決めていたので、口には出さなかった。
重い足を引きずりながらズルズルと歩いているが、ヘルマンニは行き先を聞くこともなく、飄々とした態度で着いてくる。何の用があるのかわからないが放って置いてほしい。
「どこへ行く?」
後ろから聞き覚えのある野太い声が聞こえた。
間違いなく、ラハテラ軍曹と呼ばれていたあのおせっかいだ。
無視して歩こうとしたが、ヘルマンニに頭をぶん殴られた。
「おいっ! バカ! 軍曹様だぞ! 解ってんのか!?」
「……関係ない」
「関係ないわけあるか!!」
ヘルマンニが焦っているが、ラハテラ軍曹は特に気にした様子もなくスタスタと歩み寄ってきて、ハイジの肩に手を置いた。
「ハイジ。どこへ行く?」
「……帰ります」
「どこへ」
「……わかりません」
この時、ラハテラ軍曹はこのハイジという少年が死にたがっていることを確信した。死にたがりは厄介な病気だ。生きる意味を自分で見つけさせない限り、こいつはずっと自分の命を軽く扱い続けるだろう。
ここは戦場だ。この世で最も人の命が軽い場所だ。だから、少年兵の一人や二人死んだところで、何の問題もない––––しかし、すでにラハテラは決めてしまっている。
「ハイジ。お前、もっと敵を倒したくないか?」
「……」
そう言われて、ハイジは答えに困った。
あんなにも殺したかった敵を、偶々とはいえ二人も殺すことができた。しかし、あんなものはただの運だ。実力じゃない。次はない。ならば、次の戦で死ぬのも、今死ぬのも同じような気がする。
「何があったのかは聞かん。ハーベンベックは敵が多いからな。それで、気は晴れたのか?」
ラハテラの言葉を聞いて、ハイジはグラグラする頭で、なぜハーゲンベックを殺したかったのかを思い出す。
一年前のあの時。
ハーゲンベックの男たちのしたことを––––––––
「うわぁああぁぁぁああぁぁぁ!!!!!」
「「!!!!!」」
ハイジがいきなり絶叫を始め、ラハテラとヘルマンニは飛び上がった。
「殺すッ!! 殺す殺す殺すッ!!! ハーゲンベックの人間はひとり残らず死ね! 全員死ね! 男も女も子供も年寄りも全部死ね! ああああああぁぁぁあああッ!!!!」
「やめろ!」
ラハテラがハイジの胸ぐらを掴んだ。
「貴様、自分が何を言ってるのか解ってるのか? ハーゲンベックに何をされたかは知らん。だが、この戦にもハーゲンベックの人間がいくらでもいる! そこにいるヘルマンニもそうだっ!」
「はぁーい、ハーゲンベックはエイヒム出身のヘルマンニでぇーす」
「ヘルマンニ! ふざけとる場合か!」
「はっ! 申し訳ありません軍曹殿! ただ、そいつなんか訳ありっぽいんで、その辺にしといてやってくれませんかねぇ」
「……相変わらず掴み所がない奴だな……」
ヘルマンニの態度に毒気を抜かれたラハテラがハイジを突き放すと、ハイジはひっくり返って、ゲホゲホと咳き込んだ。
「ヘルマンニ。こいつを預ける。すでにアゼム殿には鳩を飛ばしてある。お前も協力して、何としてもこいつをモノにしろ」
「承知しました、軍曹どの! まぁ、師匠ならどのみち絶対ほっとかないっす、こいつ」
「そして、ハイジ」
ラハテラは転がされて憮然としているハイジに向かって、言い聞かせる口調で話しかけた。
「よく聞け、ハイジ。お前には才能がある」
「……才能……?」
「戦う者なら喉から手が出るほど欲しい特別な才能だ。つまり––––
「……意味がわからない」
「そういう奴がたまに現れる。お前は簡単には死なない。死ねない。死神に断られるからな。戦士にはうってつけだ」
「……僕には、生き延びる価値なんてないんだ……」
「そう思うか? では、お前以外の人間が、何故戦うか考えてみたことはあるか?」
「……」
「俺達は、ハーゲンベックを打倒し、これ以上お前みたいなのが現れずに済む世の中にするために戦ってる。ハーゲンベックの治世は糞だ。男は奴隷に等しく、女は慰み者。街は浮浪者と孤児で溢れかえり、餓死者も珍しくない。だがお前は何だ? ハーゲンベックに恨みがあるだけで、それを変えたいとは思っていない」
「そうだ、僕はハーゲンベックがなくなればそれでいい……それが無理なら、生きている価値がない」
「本当にそうか? ハーゲンベックにも無辜の民はいる。罪もない人々を殺して、お前は気が済むのか? 第二第三のお前を、お前が作り出すだけだぞ」
「……」
ハイジの頭は今もぼんやりしていて、ラハテラの言葉は頭に入ってきていない。
反論することも難しかったが、ラハテラが自分のために怒っているのだということだけはなんとなく解った。
「だから、お前は強くなれ。もっとたくさん一人でも多く敵を倒してから死ね。価値のない命なら、ハーゲンベック打倒のために投げ出せ!」
「……僕の命を、ハーゲンベック打倒のために使う……」
それは、ハイジにとってはどこか魅力的なことに思える言葉だった。
少なくとも、今ここで魔獣に食い殺されるよりは、良いことのように思えた。
自分に、これ以上人を殺せるのだろうか。あんなに憎かった敵を、たった二人殺しただけでこの有様なのだ。憎しみの大きさは、人を殺す抵抗感を亡くしてくれるわけではなかった。自分の心は、思っていたよりもずっとずっと弱い。
自分のような弱虫でも、誰かのためならば戦えるのだろうか。
しかし、迷うハイジにヘルマンニが言った。
「大丈夫、師匠が付いてる。俺と、ヨーコも」
差し出された手に、ハイジは渋々つかまった。
この時、ハイジは死にたがりから、戦う者へと生まれ変わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます