(どうしよう!?)


 狼たちはあたしの存在に気づいているらしく、周りをウロウロとあるきまわっている。

 わかっている。もうどうしようもないだろう。

 わたしにはもう体力がないし、そもそも狼となんて戦えるはずがない。


 神様、何の宗教の神様かわかんないけど、これまで祈ったこともないけれど、どうか助けて。

 パパ、ママ……!


「助けて……!」


 思わず、声を出してしまった。

 オオカミたちには気づいているだろうから、声を出しても結果に変わりはないかもしれないが、それでも声を上げるのはまずい気がした。

 それでも、耐えきれず声が出た。


「助けて……! 誰か、誰か助けてーー!!!」


 その時、小さく「ヒューッ」という音と、「バスッ」「ビィン」という何かを弾くような音。同時に「ギャンッ!」という獣の悲鳴。


 何? 何が起きてるの?

 音は一度ではなく、二度、三度と聞こえてくる。

 そのたびに獣の悲鳴が聞こえ、五度目の悲鳴で、あたりはしんと静まり返った。


 恐る恐る、藪から顔を出す。


(うっ……!)


 とても強い獣臭。

 動物園の臭いをもっと強烈にしたような臭いに混じって、鉄臭い匂いがする。

 とても不快な臭いだった。

 周りには、矢らしきもので貫かれた狼が5体倒れていた。

 どれも一撃で首筋を打たれて即死したらしい。

 これって、とてつもない腕前なのではないだろうか。


 呆然と狼達を眺めていると、違和感があった。


(……えっ、何これ……)


 狼だと思った獣達には、額に角が生えていた。

 こんな生き物居ただろうか?

 いや、いるわけがない。

 そのくらいはわかる。イヌ科の生物には角はないはずだ。


(もしかして)


 ここは、外国ですらない?

 もしかすると、ここはあたしの知っている世界じゃない……?


 角狼の口には釘が並んだような鋭い牙がびっしりと並んでいる。

 この顎で噛みつかれたらどれほど痛かったろう。

 想像して、恐怖でどっと冷や汗が出る。

 もし、あの矢で狼達が殺されていなければ、今頃は……。


(一体誰が……)


 あたりを見回すと、はるか遠くに人影があった。


(あの人が助けてくれた……?)

(……!!)


 それは「あの男」だった。

 遠くで、こちらに向かって弓を構えている。

 足がすくむ。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。……逃げる? 一体どこへ?


 そのとき脳裏に浮かんだのは、走って逃げようとするあたしを矢で射る男。


(や、やだ……! 嫌だ!)

(怖い……!)


 凍死するならばまだいいのかもしれない。

 いや、良くはない――良くはないが、それでも狼に食い殺されたり、男のおもちゃにされるくらいなら、静かに凍りついて死ぬほうがマシだ。

 それでも、目の前に転がる狼たちの「死」を、わたしは実感してしまっている。

 狼たちは苦しんだだろうか? 悲鳴は上がっていたが、ほとんど即死だったはずだ。

 それでも、自分が矢で射られることを想像すると、足がすくんで動けなかった。


 逃げたら、あの矢で殺される。

 何の根拠もないが、あたしはそう確信してしまい、逃げることができなかった。


 男は慌てる様子もなく、ザクザクと歩いて近づいてくる。

 もう弓を構えておらず、その足取りには、よく鍛えられた人間独特の安定感があった。

 男を初めて見たときには熊を思い浮かべたが、こうして雪の中で見ると豹や虎が近い。

 獰猛な肉食獣の気配に当てられて、あたしは一歩も動けない。

 雪に足を取られてフラフラしていた自分がこの男から逃げるなんて、端から無理だったのだ。

 男から目を離せず、立ちすくむ。

 対して、男はこちらのことを一切見もしない。

 まるで、あたしのことが見えていないかのようだった。


 男は目の前までやってくると、死んだオオカミたちから矢を回収する。

 獣の臭いと血の匂いが一層強くなる。

 矢を回収し終わると、男はこちらを一瞥もしないまま、皮カバンのようなものを放り投げてきた。

 いきなりのことで、思わず受け取る。


(何……?)


 こちらの困惑を気にすることなく、男は腰から刃物を抜くと、狼の死骸に突き立てた。


「ヒッ……?!」


 残酷な光景に思わず悲鳴を上げるが、男は気にした様子もなく、狼の毛皮を剥ぎ取り始める。

 なんて切れ味のいいナイフだろうか。狼の分厚い皮膚が、ほとんど抵抗もなく切り裂かれていく。

 恐ろしく手際が良い。

 辺りにひどい匂いが立ち込める。

 すでに死んでいるからか、血が吹き出すようなことはなかったが、ダラダラと流れる赤い血が雪を染めていく。

 雪に包まれた青白い世界に、血の色だけが異様に鮮やかだ。


(‥…うっ)


 吐き気を我慢しながら呆然と見ている前で、男はあっという間に狼の皮を剥ぎ取り終わる。

 残された脂肪の膜に覆われた狼の剥き身からは、湯気が立ち上っている。

 皮手袋をはめた男の手は血で汚れており、近くの雪を掴んでゴシゴシとこすり取る。


 辺りには、濃厚な死の気配が満ちている。

 そうこうしているうちに、男は手際よく毛皮を丸め、麻ひものようなものでまとめ、背中に背負って、さっさと歩き始める。


(待っ……!)


 思わず追いかけそうになる。

 こんなところに置いていかれたくない。しかし、男についていくのも恐ろしかった。

 それに、男に投げ渡された袋が腕の中にある。

 恐る恐る中を見てみると、毛皮でできた上着、干した肉らしきものやドライフルーツなどの食料。

 革袋の中には何やら液体がはいっている。

 さらに。


(お金? と、地図……?)


 コインのようなものが数枚と、丸めた紙が入っていた。

 紙は、パッと見て、それがこの場所の地図であることがわかる。

 例の小屋らしき印があって、わたしが逃げてきた一本道も書かれている。

 そして、矢印。

 矢印の横には何か文字が書かれている。


(あれ? なぜだろう、なんて書いてあるかわかるような気がする)


 文字は、楔形文字のような見覚えのないものだ。

 それなのに、何故かなんとなく意味がわかる気がした。

 ちょうど、ラテン語圏の文章を見て、英語に似た箇所を探して、全体の意味を推理するような感覚が近い。

 必死で読み解く。


(一日? ここから丸一日歩いたところに、駅がある?)


 慌てて男の歩いていった方向を見た。

 薄っすらとだが、遠くに男の背中がまだ見える。


(これって……あの男が用意してくれた……? あたしのために……?)


 男は、ずっと怒ったような顔をしていた。

 しかし、小屋の奥の部屋に逃げ込んだときも、何もせずに離れていった。

 今回も、あの男が来なければ間違いなく自分は死んでいた。

 それをあの男は、いつもどおりの狩りをするかのようにオオカミたちを殺して……。


(偶然であるわけがない。この荷物は、間違いなくあたしのために用意されたものだ)


 つまり。


(助けてくれたんだ……!)


 その時の感情を、どう表現すればいいのだろう。

 男に対する感情は、恐怖がほとんどを占めている。

 狼を殺す手際を見た後だからだろう。

 しかし、同時にこうして命を救おうとしてくれたことに対して、ありがたい気持ちと、申し訳ない気持ちが溢れ出す。


「ま……待って!」


 思わず男を呼び止めようと声を上げる。

 しかし、もう男の姿は見えない。


「待って!」


 あの態度から見るに、あの男はあたしのことが気に入らないようだ。

 一瞥すらしない。

 あまりにも徹底した無視のせいで、あたしはまるで自分が幽霊にでもなってしまったような気分だった。

 この荷物はあの男の精一杯の好意なのだろう。

 わざわざ、駅で使うためであろう、お金まで渡されてしまったが、もう一度狼に襲われれば間違いなく命はない。


(ここからまる一日歩くなんて、無理だ)


 毛皮の上着を羽織る。

 多少はマシにはなったものの、冷気は容赦なくあたしの体温を奪う。

 これではそう長くない未来、あたしは凍死するに違いない。


 男は自分に対する害意はないように見えた。――希望的観測だが。

 それなら、いっそ。


(男に付いて行ったほうが、生存確率は上がるのではないだろうか)


 極限状態の中、あたしは男を利用することを考える。

 ただ、それだけではなく――。


(見た目で判断して、悲鳴を上げて、あんなに怖がったりして……自分はなんて失礼なことをしてしまったのだろうか)


 もちろん、あの状況で出会った男に警戒しないようでは、女として終わっている。

 それでもあの男はあの男なりに、こちらを怖がらせないように気を使ってくれたのかもしれない。

 自分の態度を思い返して、あれは仕方がないだろうと思う反面、男に対して申し訳ない気持ちになる。

 だから、打算よりも、せめて一言きちんとお礼を言ってから立ち去るべきだ、と思った。


 平和ボケと思われるかもしれないが、もしあの男が自分を手篭めにするつもりなら、簡単にやってのけただろうことを考えれば、危険は少ないのではないか。

 打算。希望的観測。罪悪感。死への恐怖。

 いろいろな感情ががごちゃまぜになって、もう訳がわからない。

 わからないが、


「待って!」


 冷えて動きが鈍い身体を引きずって、あたしは足跡をたどって男を追いかけることにした。

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