じょぼぼぼ、と薬缶から頭にかけられた水のおかげで、あたしは目を覚ました。


「……うーん、あたし、また気を失ってた?」


 氷点下近い気温で水なんてかぶったら死んでしまいそうだが、激しい運動のおかげで、その冷たさに心地よささえ感じる。

 目を開けると、ハイジの視線による「もう終わりか?」という無言の挑発。


「まだ……いけるわ」


 あたしは傍らの木刀を掴んで立ち上がる。

 そして、無手のハイジに対峙する。


 * * *


 この訓練は、あたしからハイジに依頼して始めたものだ。

 魔獣との戦い方を教わるにつれ……あたしは自分が「殺し方」しか知らないという事に気づいたからだ。


 曰く『はぐれ』は奴隷商や貴族に狙われやすいという。

 狙われるたびに、いちいち相手を矢で射殺すわけにもいかないだろう。

 ならば、身の守り方––––もっと言えば「殺さずに戦う方法」を知らなければならない。

 そう思ったのだ。


 しかし、なんとなく、ハイジがあたしを子供扱いしそうな気がしたので、あたしは「徹底的に容赦なく鍛えてくれ」と頼み込んだ。

 ペトラのところに居れば狙われづらいこと、女の体格だと、究極的には男に敵わないであろうことなど、いくつかの理由を述べてそれを断ろうとしたハイジだったが、あたしは諦めなかった。

 しつこくしつこく頼み続けた結果、折れてくれた。


 実際に訓練を始めてみれば、それは文字通り「徹底的に容赦ない」ものだった。

 やるなら徹底的にやる。それがハイジという男である。

 それはもう、これひょっとしてあたしが邪魔だから訓練にかこつけて殺そうとしてるんじゃないのと勘違いしたくなるくらいのハードモード。

 とはいえ、あたしはハイジのことを信頼している。

 間違っても、死んだり、後遺症が残るような怪我を負わすわけがないのだ。

 だから、あたしは徹底的に効率的に強くなるために、遠慮なく怪我をする道を選んだ。


 もう止めたいとか、逃げたいと思ったことはなかった。

 これはハイジにとっても意外だったようで、あたしは「どうせすぐ音を上げるだろう」と軽んじられていた事実に憤慨した。だから、たとえ死んでも食らいついてやる! とあたしは決心した。

 何度「あっこれ死んだ」と思ったかわからないが、同時に「まぁ大丈夫でしょ」と確信もしていた。


 そのうち、あたしは痛みを恐れることをやめた。


 * * *


 訓練中は、攻撃開始に合図などいらない。

 不意打ちだろうがなんだろうが、とにかくハイジに向かっていけばいい。

 ハイジは相変わらず容赦がない。気を抜いた攻撃をしかけようものなら、あっという間に放り投げられて、雪や土の上を転がることになる。

 泥だらけ、雪でずぶ濡れ、怪我なんて日常茶飯事だ。

 今みたいに、受け身を取れなくて脳震盪を起こすこともあるし、女だからと気を使って顔を怪我しないようにするなんて配慮も一切なし。

 一応は死んだり後遺症が残るようなことがないように気をつけてくれているようだが、はじめのうちは痛くて苦しくて、すぐに限界を迎えて、動けなくなったりしていた。

 というのに、もはやこの痛みは生活の一部になっている。

 慣れとは恐ろしい。もはやこの程度は「のどが渇いた」といった感覚と大して変わらない。

 どうせ、。それなら痛みにかまけている暇なんて無い。


 今日こそ、ハイジに一撃入れてやる!


(くらえっ!)


 倒れたときにこっそり握っていた土をハイジの顔に投げつけた。

 ハイジが顔をそむけることを期待しての攻撃だ。

 顔をそむければ、そむけた逆の側から攻撃してやろうと、走りながら観察するが、ハイジはすっと一歩後ろに下がるだけで、瞬きすらせずに土を避け、


「やああ!!!」


 想定と違う状況にヘタれてしまったあたしの木刀を掴んで、あたしごとヒョイと放り投げる。


(あ〜れ〜)


 すっ飛ばされつつも、ハイジを観察。

 着地点を見て、体制を整え、頭から落ちるところをくるりと反転。

 着地と同時にしゃがんで勢いを削り、衝撃をそのまま爆発的なスタートダッシュに変換。

 ハイジに向かって突進する。


「やぁぁああ!!」


 剣道で言うところの「突き」をハイジの眉間に向かって突き出す。

 これで、木刀の動きはハイジから見て「線」ではなく「点」になる。

 食らってくれればいいが、そう甘くはないだろう。

 予想通り、ハイジは迫りくる点を余裕で掴み、あたしを放り投げようとぐっと引っ張る。

 それを予想していたあたしはパッと木刀を手放し、ハイジの脇腹に拳を叩き込む……!


「ぎゃふんっ!」


 ハイジは木刀をもったまま、もう片方の手であたしを地面にはたき倒した。

 顔から土に突っ込み、鼻の奥にキンと鉄の匂いが広がる。


(負けるもんか)


 あたしはそのままくるりと前転し、ハイジの背後を取って、ハイジに向かおうとするが、


「うぐっ……!」


 方向転換しようとしたら、ハイジが奪った木刀をあたしの首筋にそっと添えていた。

 首筋に木刀を添えると、あたしはそれで一回死んだと見なされる。

 これで、剣の訓練をはじめてから四十回ほど死亡したことになる。

 皆勤賞である。


「……参りました」


 頭を下げる。

 ハイジは木刀をあたしに差し出すと、背を向けてそのままザクザクと歩き始める。

 あたしを待つ気など微塵もない。


(くそぅ、また負けた! 勝てるなんて端から思ってないけど、せめて一度くらい掠ったっていいでしょうに)


 ハイジは歩きながらシャツを脱ぎ、小屋の裏手へ向かっていく。

 その後姿は見事な逆三角形。

 まるで筋肉でできた鎧のようだ。


 ハイジの後ろ姿を眺めながら、あたしは息が整うまで仰向けに倒れ込み、体が冷えるのを待つ。


(体中が痛い。 擦り傷に打撲、右小指は……これひょっとして骨折してない? )


 ゼーハー言ってる息を、強制的にゆっくりした深呼吸に切り替える。

 ゆっくり思いっきり吸って、一気に吐き出すように繰り返すと、焼けた鉄みたいに熱くなっていた体が、雪と冷たい空気で一気に冷やされていくのがわかる。


(空が澄んでる……)

(あたしの吐く息、薬缶から立ち上る湯気みたいだな)


 そうしてしばらくすると急激に体温が下がって、肌寒くなる。


(そろそろ頃合いかな)

(ここからが……気持ちいいんだ!)


 パッと起き上がり、ハイジが向かった裏手へと向かう。

 歩きながらシャツを脱いで裸になると、傷だらけ、汗だくの体に、森の冷たい風が心地よい。


 向かう先は……サウナである!

 煙突からは、もうもうと煙が出ている。


 下も脱いで素っ裸になると、サウナの横に設置された水風呂から水を掬って、頭から数度かぶる。

 凍ってしまわないように湯を混ぜているとはいえ、ほとんどただの水である。それはもう悲鳴を上げたくなるくらい冷たい。

 一気に冷えた体を震わせながら、傍らにある棚の扉を開け、布を一枚取る。

 一応前を隠しつつ……サウナへ飛び込む!


 入ると、ガツンと熱気が襲ってくる。

 先に入っていたハイジがヴィヒタ(白樺の葉をまとめたもの)で体をバシバシ叩いているが、気にせず水をすくって焼けた石にかけて蒸気を上げて、一番熱い奥へ向かう。

 ハイジと並んであたしもヴィヒタを取り、パシパシと体を叩く。


 すると、体中の傷がみるみる逆再生されるように治っていく。

 痛かった小指や、ひねった足首も、どんどん治癒していく。

 その時のじわじわとした「治る感覚」が、あたしは好きだったりする。


 ハイジが立ち上がって、サウナから出ていく。

 前しか隠してないから、尻が丸出しだが、わざわざ覗き見たりはしない。

 サウナの外でザブザブと水風呂の音がして、しばらくするとまた入ってくる。

 そしてヴィヒタでバシバシ。


 サウナで一番熱い場所に陣取っていたあたしは、限界を感じて外に飛び出し、水風呂に飛び込む!


(ああああああ、冷たいーーーーっ!!!)

(気持ちいいーーーっ!!!)


 ついでに、あらかじめ用意しておいたマグに入った冷たい水をごくごくと補給。体が内側と外側から冷やされる。

 再度冷え切ったところでまたサウナに突入。

 これを数度繰り返すと、いつの間にか体は全快。

 それどころか、一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、体の調子は絶好調になるのだ。


(肌、ツヤッツヤ! こんなことなら日本に居た頃にもサウナに入るんだった)

(って、あっちの世界じゃ、こんな治癒効果はないんだけどさ)


 思えば、最初はサウナが好きではなかった。

 というか、初めてのサウナはちょっとしたトラウマである。

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