第一章 黒の魔獣と花嫁候補

運命の相手

 時は、ほんの少しさかのぼる。

 魔の森と呼ばれる危険な森。そのさらに奥の、冬に呪われた雪景色。

 そこは人間が滅多に迷い込むことのない隔離された聖域である――しかし、今宵こよいに限っては少々特別であった。


 雪の積もる枯れ木の森を抜け出して、一つの影が走っていく。

 その全体的に華奢きゃしゃで、同時に柔らかいことが想像できる体つきから、人影の正体が少女であるとわかる。だが、その素顔は目深にかぶったフードによって隠されていた。


 厚手のローブの下に着ているのは修道服のようだ。

 そのすそは長く、決して走るのに適した造りではない。現に少女は、季節外れの雪に足を取られて、何度も転びそうになっていた。


 しかし、それでも彼女は必死で走り続ける。

 息を切らせて駆ける少女。冬に閉ざされた世界の、さらに奥へといざなわれていく。


 ――まるで、それが定められた運命であるかのように。


 * * *


 息が、苦しい。

 冷たく乾いた空気のせいで、のどけてしまいそうに痛い。


 でも、足を止めるわけにはいかない。

 皆のためにも、まだ死ぬわけにはいかない。


 少女が走っている理由。

 それは今まさに、彼女が追われているからであった。


 彼女を追っているのは、この地にかけられた冬の呪いに適応した魔獣の群れ――魔獣化したオオカミの群れである。

 すでに生命のことわりから外れた存在と変わり果てたオオカミたち。

 彼らは生きるために「捕食する」という行為を必要としていなかったが……その満たされることのない飢えを満たすため、本能的に少女を追いかけていた。


「――水の球よスフィアェラ・アクァエ!」


 少女は使えるつたない魔術を駆使することで、辛うじてオオカミたちの猛攻から難を逃れ続ける。

 現に今も、彼女の放った水の玉は一頭のオオカミをおぼれさせた。


 だが、魔獣となり高い知能を得たオオカミたちは非常に狡猾こうかつだ。

 そうくるならばと、オオカミたちもさらに高度な連携で着実に獲物を追い詰めていく。


 徐々じょじょに、そして確実に、逃げ場が無くなっていく恐怖。

 目に見えて迫る終焉。絶望しそうになる少女。

 彼女の修道服はオオカミたちの爪と牙により何ヶ所も引き裂かれ、そのすそはすでにボロボロに破れていた。


 とっくに日も沈んで、宵闇よいやみおそい来る雪が、容赦なく彼女の体力と視界を奪う。

 魔術で生み出された唯一の灯りも、これほど激しい吹雪の中では進むべき先を照らし出すことはできない。


 ガシャンッ。

 何か固いものにぶつかる少女。


「キャッ!?」


 予期してなかった衝撃と金属音に、思わず悲鳴が漏れる。


 その突然目の前に現れた人工物の正体は、立ちはだかる鉄柵だった。

 残念なことに柵の隙間は細く、彼女が通れそうにない。


「そんな……!」


 しかし、戸惑っている暇はなかった。背後からは、迫ってくるオオカミたちの声が。


 少女はすぐさま柵沿さくぞいに逃げた。だが、このままだと追いつかれるのは、もはや時間の問題だろう。

 少女の脳裏に“死”という言葉がよぎった。


 ――ところが、運命は少女を見捨てなかった。


 彼女が必死で逃げた先には、偶然にも半開き状態の鉄柵扉があったのだ。

 その存在に気が付いた少女は、残りわずかな体力を振りしぼってその中に転がり込む。そして、できる限り急いでかんぬきを閉めた。


 金属特有の重厚な音を立て、扉が閉ざされる。

 凍りついた鉄柵はあまりにも冷たく、指がくっついてしまった。


 無理やり引き離すと、指先の皮膚が僅かに千切ちぎられてしまうが……今はそんな些細ささいなこと、気にする余裕はない。

 少女は手を放すと、倒れこむように鉄柵扉から距離を取った。


 扉が閉ざされた後も、格子の隙間からオオカミたちの牙や爪が襲いかかってくる。

 あわよくば柵越しにでも、美味しそうな少女に喰らいつくつもりなのだろう。


 しかし、爪も牙も少女から離れたところでむなしく空を切った。

 もはや柵の向こうの獲物には届かない。

 その様子を見て少女は安堵あんどする。


「助かった……? あ……」


 安心したせいか、意思に反して少女の体から力が抜けていく。まるで、自分が限界だったことを思い出したかのように。

 少女はなんとか立ち上がろうと踏ん張ってみたものの、とびらから数歩後ずさったところで再び尻もちをついてしまった。


 いったん雪の上に倒れこんでしまうと、疲れ切った足に力が入らない。

 しばらく休まないと、立ち上がることすらできなさそうだ。

 それほどまでに、少女は疲弊ひへいしていた。


 鉄柵の向こうでは、諦めきれないオオカミたちが遠巻きにうなり声をあげている。

 その様子を目にして、動けない少女は生きた心地がしなかった。


 もしオオカミたちが何かしらの手段で柵を越えて来たら……彼女の命は一巻の終わりである。


 しかし、今の彼女にできるのは、オオカミたちが自分を諦めてくれるように祈りを捧げることだけだった。


「これ以上は、もうダメ……お願い……!」

 少女は目深なフードの奥で、固く目をつぶった。


 ……そのまま、しばらくの時間が経過した。

 いつまで経っても、オオカミたちが鉄柵を越えてくる気配はない。

 少女は薄く目を開けて、オオカミたちの様子をうかがい見る。


 すると、どうだろう。


 彼女の祈りが届いたのか、オオカミたちはきびすを返して夜の闇の中に消えていくところだった。


 さっきまでの彼らのしつこさを考えれば、それはあまりにもあっけない結末だった。


「ハァ……ハァ…………諦めて、くれた……の?」


 その言葉に答える存在は、当然ながら誰もいない。

 聞こえてくるのは少女自身の息づかいと、ヒュウヒュウと夜の雪原を撫でる風の淋しい音だけだ。


 しかし、今の少女にはその静寂せいじゃくこそが一番ありがたかった。




 さて、ひとまずは助かったようだ。だが、ここはいったいどこなのだろうか。

 息を整えながら少女は辺りを見回す。


 逃げ込んだ場所は、枯れ果てているが、どうやら庭園のようだ。

 左右に延々と伸びる鉄柵から察するに、おそらくここは、どこかしらの敷地内なのだろう。少女はそう判断した。


 ふと、周囲が急に明るくなった。

 月の明かりだ。

 気付けば、あれだけ激しかった吹雪が、いつの間にかずいぶんと穏やかになっている。


 少女が振り返ると、雲の隙間から覗いた白銀の月。

 そして、月影に照らされる、白亜の城がそびえ立っていた。


 ――其処そこは、危険とされる魔の森のさらに奥。

 当然のごとく、彼女はこの場所を訪れたことなんてない。


 しかし、この白亜の城について、少女には心当たりがあった。


「もしかして、ここが、冬のお城……?」


 ――降り積もる雪を目にした時、初雪にしてはあまりにも早すぎると思っていた。

 でもまさか……冬に呪われた地が、冬の城が実在するなんて!

 実際にその神秘的な光景を目の当たりにしているにもかかわらず、少女にはまだ信じられなかった。


 それは子供に聞かせる童話の中の存在だったはずだ。


 魔の森の奥にある、冬に呪われた地。

 永遠に終わることのない冬に閉じ込められた白亜の城。

 あの城に住んでいるのは美しい氷の女王とも、恐ろしいドラゴンであるとも言い伝えられている。


 しかし少女は、何よりその美しい有様に目を奪われた。


「なんて、綺麗な……」


 彼女はしばしの間、ただ茫然ぼうぜんとその美しい城を眺めていた。




 ――再び月が雲に隠れ、少女はハッと我に返る。

 少女は気を取り直すと、疲れ切った体に鞭を入れてなんとか立ち上がった。


 一日中追われ、走り続けた彼女の体力はもう限界だ。

 少し怖いが、今夜はあそこに泊めてもらおう……手厚い歓迎を受けられるとは思っていないが、雪風をしのげる分、この場所に留まるよりいくらかはましなはずだ。


(あのお城、誰か住んでいるのかな……どうか、邪悪なドラゴンではありませんように)


 誰も住んでいない廃墟はいきょなら、それでかまわない。

 しかし、もしあそこに住んでいる何者かが居るのならば……少女はその相手が話の通じる存在であることを祈った。


 少女は修道服についた雪を払う。

 そして足取りをよろめかせながら、彼女は冬の城に向かって行ったのだった。


 ……しかし、修道服の少女は知らなかった。


 実は魔獣であるオオカミたちがその気になれば、鉄柵など簡単に跳び越えられたという事実を。

 にもかかわらず、オオカミたちが美味しそうな獲物を諦めたのには理由があった。


 オオカミたちは恐れていたのだ。

 柵の向こうを縄張りとする、冬に呪われた地のあるじたる存在を。


 ――最近冬の城に住みついた、漆黒の魔獣を。


 * * *


 その扉は少女が体重をかけると、意外にも簡単に開いた。

 凍りついて動かせない……なんて事態も考えていたが、それは取り越し苦労だったらしい。


 少女は開いた扉の隙間からそっとエントランスをのぞいてみる。

 見た限り人が住んでいる気配はない。

 こんなところに人が居るはずがないので、それはある意味当然ではあった。

 だが……むしろずっと放っておかれた割には、ひどく荒れているようにも見えない。


 少女は恐る恐る足を踏み入れてみる。


「し、失礼します。だれか、いらっしゃいませんかー……?」


 ……物音一つしない。

 やはり、誰もいないようだ。


 さらに数歩、奥へと足を踏み入れてみる。

 だいぶほこりが積もっていたが、廃墟の割には十分綺麗だと言えるだろう。

 ここならば問題なく雪や風をしのげそうだ。


 少女はほっと息をついた。


(よかった。ここなら安心して休めそう。オオカミも、なぜかここには入って来ていないみたい)


 彼女は己の幸運を喜んだ――その瞬間だった。



 ドスン。



 少女の目の前に、何か黒くて大きなものが落ちてきた。


 ホコリが舞う。影が動く。

 その影は真紅の双眸そうぼうを少女に向けた。


「……へ?」


 不意を食らった少女の口からは、間の抜けた声が漏れる。

 少女の目の前に降り立った影の正体は、漆黒の毛皮をもつ魔獣であった。


 黒き魔獣は、地獄にとどろくような恐ろしい声で言った。


「まさか、勝手に入ってくるとは……まあいいか。えーっと、お嬢さん? ここには何の用で来たんだ?」


 ……よく聞けば魔獣の言葉は意外と友好的で丁寧なものであった。

 だが、その見た目と声の恐ろしさに気が動転した少女の頭の中は、恐怖でいっぱいに溢れ返る。


「あ……ああっ……!?」


 少女の頭の中が真っ白になる。

 腰は抜けて、力なくその場に座り込んだ。


 決して抗うことのできない圧倒的な生物せいぶつとしての格の差。少女はその重圧に圧倒される。


 ああ。きっとオオカミたちが早々に獲物を諦めたのは、この魔獣の縄張りに入ってしまうことを恐れたからなのだろう。

 少女は今さらながら理解した。

 冬の城に住んでいたのは、この冬に呪われた地をべる魔獣の王だったのだ。


 その姿を一言で表せば、クマほどある巨大なオオカミか、あるいは翼のないドラゴンか、またあるいは……死を具現化した怪物だ。


 夜の闇をまとったような漆黒の毛皮。


 獅子のような立派なたてがみたずさえ、引き締まった四肢は鋭い爪を備えている。


 禍々まがまがしくじれた四本のツノに、頑強な鎧みたいな鱗殻。


 規則的に刺の生えた長い尾は、まるで毒虫のようにうねっている。


 そして、頭部には少女を見据える血のように真っ赤な瞳。


 その姿は恐ろしく、心身ともに疲弊ひへいした少女の心は簡単にへし折られてしまった。


 疲労と恐怖でパニックにおちいる少女。足がもつれてうまく立ち上がれない。

「い、いや、お願い。来ないで……」

 少女は背後の扉に必死ですがりつく。

 涙をこぼしながら扉を開こうとするが、無情にも閉ざされた扉はびくとも動かなかった。


「……えーっと、すまない。驚かせてしまったみたいだな」


 魔獣が口を開いた。

 口の中には剣のような牙が無数に並んでいた。


「安心してくれ。別に取って喰いやしない」


 魔獣は牙をきながら言った。


 ちなみに本人は少女を安心させるため、友好的な笑顔を浮かべたつもりらしい。

 しかし、少女には、この魔獣の言葉が獲物を騙すための甘言にしか聞こえなかった。

 その内心ではきっと、自ら住家すみかに迷い込んだ間抜けな獲物に舌なめずりをしているのだ。


 少女は無残に喰い殺される自分の姿を幻視した。

 恐怖のあまり股の間から生温かい液体が漏れだす。その液体は修道服の中を汚した。 


「いや、そんな……誰か、助けて……!」


 少女の尻の下に淡い黄色の水たまりが広がっていく。

 まだ温かい液体からは湯気が立ち上り、魔獣を困惑させた。


「お願いです、食べないで……ごめんなさい、許して…………」


 とうとう少女は手で顔をおおって泣き始める。

 どうやら、尿と一緒に心の張りつめていたものが漏れ出してしまったようだ。


 恐ろしい魔獣を前にして無防備な命乞いの姿を晒すのは、むしろ自殺行為な気もするが……そんなこと、抵抗する気力も失ってしまった少女にとっては、もはや関係なかった。




 冬の城のエントランスに、少女のすすり泣く声が響いている。

 泣いているのはもちろん、修道服を着た少女。

 一方で魔獣は泣き止まない少女を前に、困った様子でオロオロしていた。


 何を隠そう、この状況で一番困っていたのは他の誰でもない、この魔獣だったのである。


「いや、だから、食べないって言っているだろ。そんなに怖いか? ほら、コワクナイヨ~。モフモフダヨ~」

 魔獣は魔獣なりに思いつく限りの方法で、必死に少女をあやした。


 しかし、少女が泣きやむことはない。

 魔獣も女性の扱いに特別慣れているわけではなかったので、これ以上は完全にお手上げだ。


「ああもう、いい加減に泣き止んでくれよ。クソッ、これだから嫌だったんだよ、面倒くせえなぁ……」


 魔獣が不機嫌につぶやいた――その時であった。




「なーに怖がらせとるんじゃこのドアホォォーー!!」




 叫び声が聞こえたと思うと、突然現れた人影がその魔獣に蹴りをかました。

 それは、あまりにも見事なドロップキックであった。


 人影の正体は萌木色のドレスを着た魔女である。

 実は心配のあまり、彼女は魔獣の様子を見守るためこっそり付いて来ていたのだ。


 いざとなったらタイミングを見計らって介入するつもりであったのだが、いざ現場に来てみれば……想像していた以上に酷い状況だ。


 本来なら傍観者たるべき魔女。そう易々と関わるべきではない。

 しかし、この状況を魔女は見るにえられなくなり、ついエントランスへおどり出てしまったのだ。


 素晴らしい蹴りを決めた魔女は華麗な着地を決めると、愛用の樫の杖で魔獣の頭をポカポカとなぐりつけ始める。


「女の子に恥をかかせおって! もっと紳士的に扱わんか! この! この!!」

「痛っ、痛い!! ちょっ、マジ、止めろ……」


 いきなり目の前で始まった少女と魔獣のたわむれ。

 修道服の少女は泣くことも忘れ、その茶番を唖然あぜんとした様子で眺めていた。



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