第二章 亡国の姫君と冬に閉ざされた平穏

幕間 亡国の姫君

 ――懐かしい夢を見ました。

 優しいお父様が居て、綺麗なお母様が居て。そして、素敵な皆が居て――ただ、幸せだった……そんなころの夢です。


 厳しくも美しい自然に囲まれた山岳の国、レヴィオール王国。

 氷河に削られた険しい山々と、蒼く澄んだ湖に囲まれた、小さくも美しい国。

 わたしはその国の王女として生まれ、何一つ不自由なく暮らしていました。


 幼いながらもわたしは、あの国に生まれたことを誇らしく思っていました……そのことは、今でも覚えています。

 バルコニーから城下の景色を望めば、美しい街並みが広がり、皆が意気揚々と働いている姿が見えました。


 町の人々は誰もが活気と笑顔で溢れていて、わたしはそんな皆が大好きでした。

 素敵な人たちが集まった、素敵な国。それが、わたしの故郷でした。


 ですがあの日、たった一夜にしてそれらは全て壊れて消えてしまったのです。


 * * *


 八年前のあの日。

 わたしがまだ九歳だったころ。

 ちょうど今と同じく、収穫祭が近づいた季節の夜のことでした。

 わたしがこの日の出来事を忘れることは、これからも絶対にないでしょう。


 突然、まるで間近に雷が落ちたような光と轟音が響いて、わたしは真夜中なのに目を覚ましました。

 慌てて外を見ると、わたしが大好きだった景色が炎の海に沈んでいます。

 何が起こったのか、どうしてこうなったのか、幼かった当時のわたしには理解できませんでした。

 ただ一つ、わたしの大好きだったものが壊されている……そのことだけが、かろうじて理解できました。


 呆然とするわたしの頬を、ただ涙が流れ落ちます。

 その時のわたしは、目の前の光景がただただ恐ろしくて、同時にひどい喪失感に見舞われました。


 しかし、そんなわたしの心中など無視するように、残酷な炎はあらゆるものを飲み込みながら瞬く間に広がっていきます。

 真っ暗な夜空を、さらに焦がすように燃え盛る炎。それはわたしの目の前で、何もかもを焼き尽くしていきました。


 しかし、当時のわたしにできたことなんて何もありません。

 ただ、皆に言われるがまま、どこか遠くに逃げる準備をしました。


 その間もずっとわたしは、今が現実でないような、目が覚めたら全部ウソになっている様な、そんな祈りにも似ためまいをもよおす浮遊感の中に居ました。


 全部後になって知ったことですが、わたしたちの国を襲った悲劇は、メアリス教国の侵略でした。

 そして、あの町が炎に沈んでいく光景は、彼ら新しく開発した戦略魔術の実験も兼ねていたそうです。

 つまり彼らは、わたしたちの痛みも知らないまま、もののついでで、残酷なまでに効率よく、わたしたちの日常を奪っていったのでした。

 彼らの心無い所業を思うと、今でもわたしはやるせない気持ちになるのです。


 お父様が最期にどうなったのかは分かりません。

 わたしが最後に見たのは、ほんの少しでも皆が逃げる時間を稼ぐため、先陣を切って魔法障壁を展開するお父様の勇姿でした。

 あの日の後ろ姿を思い出すたび、わたしは最期まで一緒に居られなかったことが、無性に悲しくなるのです。


 お母様が最期にどうなったのかは分かりません。

 わたしがお母様と最後に交わした言葉は「いきなさい。決して振り返ってはいけません」でした。

 もうこの国は終わりだと、二人は分かっていたのでしょう。

 お母様はお父様と運命を共にしたのです。


 男の人たちが最期にどうなったのかは分かりません。

 わたしが最後に聞いたのは、勇敢にメアリス教国と戦う英雄たちの怒号と、黒い炎の中に消えていく彼らの声でした。

 わたしが知っているのは、あの人たちが逃げる女性と子供たちを守るため、最後まで戦うことを選んだということだけです。


 暗い暗い山道を、わたしたちは振り返ることなく逃げました。

 ……嘘です。本当はお母様の言いつけを破って、わたしは何回も振り返ってしまいました。


 一緒に逃げた皆がどうなったかは分かりません。

 最後に知ったのは、自分がどれだけ愛されていたかということでした。


 逃げる道中、足手まといになりたくないと、まずは怪我人と老人たちが殿しんがりを務めました。

「ご安心ください、姫様。確かに儂らは老いぼれですが、山の中なら我らに利がありますぞ!」

 お爺さんたちはわたしたちに微笑みかけて、粗末な武器を手に取りました。


 次は子供たちを逃がすため、女の人たちが自らおとりとなりました。

「貴方は強い子なのだから、ちゃんと皆を守りなさい」

 母親たちは自分の子供にそう言い残し、一人、また一人といなくなりました。


 最後は女の子たちを逃がすため、男の子たちが立ち向かいました。

「お前ら、絶対に姫様を逃がせよな!」

 それだけ言って男の子たちは、闇の中に消えて行きました。


 それでも最後は追いつかれて、一番上のお姉さんたちが散り散りに逃げるよう言いました。

「みんな、固まっちゃダメ。別々の方向に逃げて!」

 なのに、お姉さんたちは逃げようとせず、拙い魔術で戦う覚悟を決めていました。


 皆は頑張って逃げたけど、悲しいことに子供の足には限界があって、結局ほとんど捕まってしまいました。

 わたしも逃げ切ることができなくて、他の子たちと同じように手を縛られて、首にはひもをくくりつけられました。


 * * *


 捕まってしまった子供たちは、炎の消えた瓦礫がれきの町に連れ戻されます。

 そして広場に子供たちは並べられ、今度は一人一人が順番に天幕の中へ連れていかれました。


 その中で何をされているのか、直接見ることはできません。

 でも、叫び声は広場に響きます。

 敵国の騎士に連れて行かれた子供たちが、痛みと苦痛で悲鳴を上げます。

 その壊れたような叫びを聞いて、みんなみんな怯えていました。特に小さい子供たちは、恐怖のあまり泣きだしました。


 そんな中、とうとうわたしの番が来て、他の子たちと同じように、騎士に連れて行かれます。

 連れていかれた先でわたしが見たのは、大きなはさみと真っ赤な焼きごてでした。


 わたしは二人の騎士に頭を押さえつけられました。大の男二人がかりの力で固定されて、少しも動かすことができません。

 大きくて刃の分厚い鋏が、わたしに近づいてきます。そのはさみはよく見ると、血にれて錆びているように見えました。


 わたしは抵抗することもできず、ただただ涙を流しながら恐怖に震えます。

 そしてその刃がわたしの頭に当てられて――。


 ――バヂンッ。


 激痛と共に、何かがへし切られる音が頭の中に響きました。


 わたしはあまりの痛さに声にならない悲鳴を上げました。無我夢中で身をもがきました。ですが、幼い女子の力ではどうすることもできません。

 容赦なく、もう一度激痛が走ります。


 ――バヂンッ。


 わたしの頭の上で、大鋏おおばさみがまた何かをい千切りました。

 そして台の上にゴトリと、そのが転がされました。転がったのは、バフォメット族の頭に生えるツノでした。

 それは、ようやく生え揃ってきた、わたし自身の小さなツノでした。


 わたしは痛くて泣きました。

 たくさんたくさん血が出てきました。

 その流れる血を止めたのは、真っ赤に燃えた焼きごてでした。


 離れていても伝わってくる、焼けた鉄の熱さ。

 近づいてくる焼き鏝から、わたしは必死で逃げようとしましたが、やっぱり子供の力では、押さえつけてくる騎士たちの腕をどうすることもできません。


 ジュウッと恐ろしい音がして、肉の焼ける臭いがしました。

 わたしは熱くて、痛くて、叫んで、叫んで、叫んで――そして気を失いました。


 この痛みは、わたしの心にも深い傷を残しました。

 八年たった今になっても、鋏の切る音が恐ろしくて仕方がありません。真っ赤に燃える鉄が恐ろしくて仕方ありません。

 そして、切り落とされたわたしのツノは……未だに生えてくることがありません。


 その後、わたしは他の皆と引き離されて、目が覚めたら暗い部屋の中に居ました。


 * * *


 わたしが繋がれていたのは、牢屋みたいな場所でした。

 暗くて、寒くて、冷たくて、頭がズキズキと痛んだのを覚えています。

 周りには誰も居ません。窓のないその部屋は、どうやら地下のようでした。


 ふと、わたしは近づいてくる足音に気が付きました。恐怖に身がすくみます。

 しかし、聞こえてくるのは鎧の音ではありません。コツコツと石畳を打つのはヒヅメの音です。そして鉄格子の向こうに現れたのは鎧を着た騎士ではなく、わたしと同じバフォメット族の女性でした。

「こんばんは。ソフィアちゃん」

 その女性はささやくような声で、まるで散歩で出会ったときのような挨拶をしました。


 彼女は見た限り若いお姉さんで、とても美人でした。

 でも、動くたびにシャラシャラと鎖のような音がして、とても不思議な雰囲気をした人でした。

 そのお姉さんには、どこかお母様に似た雰囲気がありましたが、わたしは彼女のことを知りません。

 でもその女の人はわたしのことを、とてもよく知っているようでした。


 お姉さんが檻に触れると、ガチャリと音がして、戸が勝手に開きました。

 彼女はわたしに優しく微笑みかけます。


「さあ……早く、逃げましょう。大丈夫、怖がらないで」


 このお姉さんが信用できることは、すぐに分かりました。

 だからわたしは、その知らないお姉さんの手を取ったのです。


 ――お姉さんに連れられて牢屋の外へ出ると、外はまだ夜でした。

 その光景は異様でした。見張りの騎士もそうでない騎士も、誰も彼もがその場で眠っていたのです。

「静かに……ね。眠りは浅いから、うるさくすると、起きちゃうかも」

 わたしは音を立てないように、慌てて息を止めました。そして、足音を殺しながら、お姉さんと一緒に町の外へ抜け出しました。


 町の外に出るとお姉さんは言いました。

「連合国側への国境は、とても厳重に、見張られているわ。貴女の小さな足では、きっと抜けられない……だからね。東に向かうの。月と太陽が昇る方角を、目指しなさい」

 わたしは首を横に振りました。みんなを助けないと。わたしはそうお姉さんに訴えました。

「それは、無理よ……だって、貴女は無力だもの。また、捕まりに行くつもりなの? あらがチカラが無いって、悲しいことよね……」

 お姉さんの言ったことは、もっともでした。

 でも、不思議な力を持つお姉さんならなんとかできると思ったわたしは、精一杯の駄々をこねました。

 しかし、お姉さんは言いました。

「ごめんなさい。それはできないの……私も、辛いのは一緒よ。分かって?」

 そう語る彼女の悲しげな声を聞いて、わたしは黙ってうつむきました。


 不思議なお姉さんは言葉を続けます。

「私達だけじゃ、何もできないわ。だから、今はお逃げなさい。向かった先に、一人の老人がいるから……その人なら、きっと、貴女を助けてくれるはず」

 お姉さんはいっしょに行かないの? そう、わたしは尋ねました。

「私は、一緒には行けないの……ここで、お別れ」

 お姉さんは静かに首を横に振って言いました。

 でもわたしは心細くて、一緒に行きたいと、また我が儘を言いました。

「ごめんなさいね。私にできるのは、これが精一杯……本当は、貴女と会ってもいけないから……これ以上は、きっと気づかれてしまうわ……」

 お姉さんはわたしの頭を撫でながら、どこか淋しげな声で言いました。


「今はね、辛いかもしれない。けれど、最後には全部が上手くいくように、こっそりおまじないをかけておいたから……だから、ね? 絶対に、くじけたら、駄目よ?」

 そう言うとお姉さんはどこから取り出したのか、わたしの手首に鎖のブレスレットを巻きました。

「それは餞別せんべつ。認識阻害のまじないが、かかっているわ。これからを生きる貴女が、少しでも楽になるように……叶うなら、次に会う時は、綺麗に成長した貴女と……」

 その言葉は最後まで紡がれることなく、お姉さんはわたしに背を向けます。


「未来を、信じなさい。いつの日かきっと、またこの国の人たちが、笑顔で過ごせる日が訪れるわ……」

 どこからともなく、声だけが聞こえました。

「辛くても笑顔で、元気に明るく振る舞えば、未来はきっとひらけるから……諦めちゃ、駄目よ?」


 そしてお姉さんはまるで幻のように、わたしの目の前から消えてしまいました。

 ――今思えば、あのお方は魔女様だったのかもしれません。


 わたしは心の中で、お姉さんにお礼を言いました。

 心細くて泣きたい気持ちになりましたが、泣き声を上げたら気付かれるかもしれません。だからその時のわたしは、必死で泣くのを我慢しました。

 そしてお姉さんの言ったとおり、未来を信じて、東に向かって走り始めました。




 ――わたしは全てを置き去りにして逃げ続けました。


 その後、皆がどうなってしまったのか、わたしには分かりません。

 太陽が昇って、また沈んで、それでもまだ逃げ続けました。


 また一晩中逃げて、独りぼっちになった森の中、とうとうわたしは我慢できなくなって、心細くて泣きました。

 魔女様の言いつけを破ることを、心のどこかで申し訳なく思いながら、それでもやっぱり泣きました。

 幼いながら、あの幸せだった日々は、もう二度と戻らないと理解できました。


 お腹が空いて泣きました。

 体中が傷だらけで、それが痛くて泣きました。

 お父様やお母様、それからみんなに会いたくて泣きました。


 そして走り疲れて泣き疲れて限界が来たわたしは、大樹の根元で倒れるように眠りにつきました。


 * * *


 ……目が覚めると、そこは見覚えのない部屋でした。

 まだ薄暗い外は、真冬のような白銀の世界。中は見覚えのない豪華な部屋。わたしが寝泊まりしている教会の質素な部屋とは大違いです。


(……そうだ。昨日は冬のお城に辿り着いて……それから魔獣様に泊めてもらったのでしたっけ)

 わたしは昨夜のことを思い出しました。


 暖炉のほうを見ると、暖炉の前を白い人影が陣取っていました。

 定期的に暖炉をかき回したり蒔をくべたり、仮面のゴーレムさんたちが一晩中火のお世話をしてくれていたようです。


 わたしはお礼を言いました。

 しかし、ゴーレムさんはいったん仮面の張り付いた顔をこちらに向けただけで、無言のまま作業に戻りました。


 ……どうやら、コミュニケーションは失敗のようです。

 黙々と働くゴーレムさんに、わたしは苦笑しました。


 状況が把握できて心に余裕ができると、どうしても気になってしまうのが、ここに来る以前にお世話になっていた人たちのことです。

(ディオン司祭は……町の皆は無事でしょうか……)

 八年の間、故郷から逃げた先でわたしは、メアリス教の修道女シスターのふりをして過ごしてきました。


 ディオン司祭はメアリス教の司祭でありながら、バフォメット族であるわたしをかくまってくださった人物です。

 彼はメアリス教の中でも亜人との共存を主張する派閥の人物で、わたし以外にも多くの方々が彼に救われています。

 ですがそれ故に、彼は現教皇派の神官たちから目の敵にされていました。


 味方になってくれる人たちは多いですが、それ以上に敵の多い方です。

 もしかしたら今回を期に、ディオン司祭が危害を受けるのでは……。


 不安がわたしの心に影を落とします。しかしわたしはすぐに気を取り直しました。

(くよくよしてちゃダメです。あの黒い騎士の狙いは、わたしだけのはず。他の皆さんにはきっと手を出していません。だから大丈夫です!)

 わたしは自分に言い聞かせます。

 今朝はずいぶんと懐かしい夢を見ました。あの日のお姉さん――バフォメット族の魔女様にいただいた言葉は、今でもわたしの心の支えとなっています。


 わたしがすべきことは、わたしを逃がしてくれた皆さんの思いを無駄にしないことです。

 レヴィオール王国の王族であるわたしが生きていることこそが、ディオン司祭たちの切り札となるのですから。

 だから、くじけている暇はありません。

 皆さんの無事を信じて、わたしはわたしができることをします。


「……よし、今日も一日、がんばりましょう!」


 あの魔女様の言葉を信じて、自分の未来を信じて。わたしは今日も生きていくのです。


「まずは、朝食の用意と……お掃除もやり直したほうがよさそうですね」

 まだ全体的に埃っぽい部屋の中を見回しながら本日の予定を決めました。

 冬のお城でお世話になっているのだから、せめてこのぐらいのお手伝いはしたほうが良いでしょうからね。


 さっそくわたしはいつもの修道服に着替えて、ゴーレムさんたちにお掃除の道具を用意してもらいました。



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