吹雪く氷の世界の怪物(上)

 ――そこは、いにしえの昔より伝わる、大陸北の果ての異界。

 永遠に終わらない冬に閉ざされた、呪われし大地。


 その地に枯れ果てた草木は、春の訪れを知らない。

 冷たきからだの獣たち。その飢えは決して満たされることが無い。


 凍りついた街の跡は、かつて滅びた王国を儚む墓標のように。

 年中止まない吹雪の音は、まるで鎮魂歌レクイエムごとく。


 それらは詩人たちが誇張した詩歌の一節だ。しかし、その内容はおおむね間違っていなかった。


 夜の闇に吹雪く世界。季節の恵み無き弱肉強食の王国。

 その南側の境界となっている枯れ木の森は、今宵こよいも荒れていた。


 その原因は、一頭のけものだ。

 まるでたてがみのあるオオカミのような姿。藍色の毛皮と鱗を持つ、限りなくドラゴンに近い獣。

 ねじれた四本のツノに、毒虫がごとくうねる長い尾。

 そして、その身体は冬に呪われた地であってさえも、毛皮の上からさらに霜が凍りつくほど冷たい。

 毛皮の下や鱗の隙間からは、すさまじい量の凍てつく魔力が青い光となってあふれ出る。彼の双眸そうぼうや口の中が蒼白い光を放って見えるのも無関係ではないはずだ。


 その姿は、まさに魔獣と呼ぶに相応ふさわしい異形の化け物――命をまっとうするに許された領域を軽く踏み越えていた。


 そして、彼の頭部を飾るは、輝く氷の王冠。

 もちろん本物の王冠などではなく、張り付いた氷の欠片カケラが偶然そんな形に見えるだけである。

 だが、もし吟遊詩人たちがその恐ろしくも猛々たけだけしい姿を見たならば、間違いなく彼を“冬の王”としょうしただろう。


 しかし、その背中にはいまだ抜けない聖銀ミスリルの武器が針山のように何本も突き刺さっている。

 その痛々しい姿は、王と呼ぶにはあまりにも哀し過ぎた。


 冬をべる魔獣。

 その正体は“死”を失った人間の末路。

 自分を憎み、他人を憎み、そして世界の全てを憎んで、冷たき獣の王へと身を落とした男の成れの果て。


 紅いバラを散らし、自己進化じこひていを繰り返した。

 救済の未来を拒絶し、真実の愛の代わりにチカラを求めた。


 心の一部をくして、なのに欲しかったものは手に入らなくて、大切なものもうしなって。

 ――そして今、冬の王は、その身をさいなむ虚無感と飢餓きが感に苦しんでいる。


 枯れ木の森を、気でも狂ったかのように駆け回る冬の王。

 何もかも、今さらながら気がついた。

 しかし、彼にはもう、どうしようもない。

 憤怒、憎悪、不安、恐怖、焦燥……それらも全て、えとかわきに支配される。


 それゆえに、狩りの時間だ。

 抑えられないえとかわきを塗り潰すため、冬の王の咆哮が暗い枯れ木の森に響く。


 本来的に魔獣は、その存在を維持するための食事を必要としない。

 しかし、相手の爪や牙がおのれの肉をえぐる痛みや戦いの高揚こうようは、やるせない虚無感をわずかながら忘れさせてくれた。

 そして、魔力で満たされた魔獣の血肉は、実体のない飢餓きが感に苦しむ冬の王の心をわずかながらに満たしたのである。


 だが、その興奮も至福も、獲物と殺し合って、その血肉をむさぼっている最中だけだ。

 戦いの熱が引いてしまえば、再び思考は孤独なえとかわきに取って代わられる。


 再び森に響く悲鳴。

 地に伏すは、あわれなる生贄のむくろ

 赤い鮮血が純白の世界を一部いろどったはずだが、夜の闇がそれをおおい隠す。


 結局、いくら食べても、いくら殺しても満たされない。

 もっと強い魔獣を、魔力を含む肉を殺してわなければならない――そんな妄執に取り憑かれた冬の王は、暴君へと成り果てる。


 凍りついた血にまみれた姿で、冬の王は枯れ木の森を彷徨さまよっていた。

 より強い獲物を求めて。より満たしてくれる相手を求めて。


 空腹の幻影を誤魔化すため、わざと痛みを覚えるように、傷付きながら獲物と殺し合う。

 不死の肉体によって損傷は修復されてしまうが、その上からさらに痛みの証を刻み付ける。


 その姿は皮肉にも、失ってしまった『死』を取り戻そうと、必死に足掻あがいているかのように見えた。


 * * *


 ……衝動に駆られて冬の城を飛び出してから、どれだけの時間が経過しただろう。

 食い荒らされたイノシシの死体に背を向けながら、俺はふと考える。


 少なくとも何度か昼が来ていたから、今宵は何日目かの夜になるはずだ。

 一週間ぐらい? それとも半月?

 一ヶ月は……流石に経っていないと思う。

 そもそもよく考えたら、この世界の月が満月になるのは何日周期なのだろうか?


 まあ、どれだけの月日が流れていようと、もはや何も関係ない。

 きっと俺は、これからの孤独な永遠を、ずっとこうして生きていくのだろうから。


 俺は毛皮にこびり付いた血のシャーベットを乱暴にがし落としながら、精霊たちの声に耳を傾け、次なる獲物を探し始めた。




 放浪の魔女が冬の城の玉座の間から居なくなり、取り残された俺を襲ったのは……胸の中が一部、空っぽになったような感覚だった。


 腹が減っているわけでもないのに、えているような感覚。

 のどかわいているわけでもないのに、かわいているような感覚。

 胸が虚無で詰まるような気分なのに、空っぽになってしまった場所に何かを詰め込まなければ、そのまま自分が壊れてしまいそうな不安感。


 皮肉にも、この感覚を俺は知っていた。

 むしろ、人間だった時は、ずっとこんな気分だった気がする。

 ただ幸か不幸か、地球では何かに追われるような毎日の暮らしで、心が麻痺まひして腐って死んでいた……要するに、まともに苦しむ余裕すらない生活のせいで、気が付けなかっただけだ。


 果たしてどっちが幸せなのだろうか。

 この虚無感と飢餓きが感に苦しみながら生きていくのと、それにすら気付けない奴隷として、使い潰され死んでいくのと。


 この絶望という名の毒に救いは無い。

 しかし、幸いにも魔獣となった今の俺には、その空白を埋め合わせる手段が存在した。


 基本的に、魔獣は食事を必要としない。それは俺とて例外ではない。

 それなのに魔獣は――特に肉食獣が元となった魔獣の多くは獲物をおそう。例えばこの森に住むオオカミたちだってそうだ。


 それは何故なぜか。

 ずっと疑問だったが……完全に魔獣になったおかげで、その理由が今なら分かる。


 狩りと捕食。

 それらは魔獣にとって本能の残滓ざんしであると同時に、最高のなのだ。


 誰かと殺し合っている間だけは、余計なことを考えなくて済む。

 魔力を多分に含む魔獣の肉は、中毒的な麻薬のような快楽を与えてくれる。


 刹那せつなの享楽だけが、俺に許された唯一のよろこび。

 やり場のない怒りと憎しみ、その他諸々もろもろの腐った汚物だけが、俺に残された感情。


 それに、どうせ俺は死なない強靭不死身の怪物なのだから、何をするのも自由だ。やっと俺は、自由を得たんだ……明らかに自暴自棄になっていることが、自分自身にすら理解できた。




 かつての俺は無力な人間だった。

 容姿は優れておらず、才能には恵まれず、財力は持てず、当然権力なんてものも無く。

 そんな俺が世の中の間違いを声高々に主張しようものなら……試したことは無いが、世間は俺に冷ややかな嘲笑を向けただろう。


 なぜなら俺は無力だったから。

 持たざる者の叫びを、世の中の連中は聞いてなんかくれない。

 弱者の言葉に価値はない。

 無力な虫ケラをぞんざいに扱っても、どうせ奴らに報復なんてできっこないし、何も怖がることはない。こんなの、当たり前の話だ。


 そして、もしこんな内心を吐露とろすれば、人々はきっとな絶望だと馬鹿にしたかもしれない。

 だが俺は、それならそれでよかった。

 是非ぜひともその素晴らしき現実とやらで、俺の薄っぺらで浅はかな絶望を否定してほしかった。


 綺麗事ばかり言いやがって、気に食わない。

 お前らだって、大して世の中に貢献していないくせに。俺を馬鹿にできるほど、立派な存在じゃないくせに。


 そもそも人間自体が下らない。今の俺からすれば、ただの貧弱なサルの延長だ。

 せいぜい勝手に殺し合って滅んでしまえ。


 どうせ奪い合い、しいたげ合う野蛮さこそが、人間の本性なんだから。


 ……それとも、やっぱり俺が間違っているのだろうか?


 たとえチカラが無くても、愛と信頼だけあれば、人間は支え合って生きていくことができるのだろうか?

 愛さえあれば、奪い合わずとも、誰もが幸せになれるのだろうか。


 なあ。もしそうならば、証明してくれ。

 俺の魂にこびり付いた、この未来に対する閉塞感と絶望を否定してくれよ。




 ――いったい俺は、どうすれば良かったんだ?




 いっそ、『答え』を魔女に教えてもらいたかった。

 だが、再び彼女が冬の城を訪れることはありえるのだろうか。

「……ありえないだろうな」

 俺は小さな声でひとりごちた。


 すでにバラは散った。

 物語はもう、今度こそ本当に、終わってしまったのである。


 とりあえず、あの大量に作らされたブラッドソーセージは無駄になってしまうのだろう。

 もう二度と戻らない日々の忘れ形見が、凍りついた胸にちくりと刺さった。



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