雪と炎に沈む王国(下)
部屋に踏み込んできたヒグマほどもある巨大な魔獣は、全身に返り血を浴びている。
その姿は
そして
その身体を保護するは、廊下の明かりを反射して冷たく輝く鱗殻の鎧。それらは果たして凍りついた鱗なのか、あるいは氷そのものを鎧としているのか。
特に頭部を装飾するそれは、
明かりの無い王の寝室で、その身を滅ぼしに来た魔獣に恐怖する
――しかし一方で、魔獣のほうも目の前にいる男の姿に
「おい……まさか、お前がここを占拠している、メアリス教国の責任者か?」
魔獣はどこか落胆したように口を開き、
その口の中には剣のような牙が無数に並んでいる。それを見た枢機卿は、反射的に体を
魔獣が人語を
しかし、言葉が通じると理解するや否や、無謀にも枢機卿は魔獣に食って掛かる。どうやら相手が圧倒的な暴力を有する事実を、都合よく忘れたらしい。
「きききき貴様、たかが
内心はともかく、威勢だけは良い枢機卿。
そこに歴然と存在する力の差については、一切の考慮をしていない。彼が権力を笠に着るのは、もはやほとんど条件反射だった。
魔獣がその気になれば、彼などあっという間に潰れたトマトのような姿なるのだが……それすら理解できないほどに、その男は愚かだったのである。
おそらく、今まで彼に逆らえる者がほとんどいなかったのも、不幸の一つなのだろう。
錯乱した
しかし、もはや人の世の属さない
魔獣は冷めた目で、その地位を振りかざす男を見下ろしていた。
「“すうききょう”とやらが何なのか知らないが……そうか。つまり、お前が責任者なんだな?」
「知らないだと!? ふざけたことを、吾輩は次期教皇だぞ!? 先祖代々の高貴なる血筋だ! 吾輩は、貴様のような
首回りの
彼は魔獣を目掛けて手当たり次第に物を投げつけたが、魔獣にとっては痛くも
しかし、その無様過ぎる姿は……なんと表現すべきか、殺意に
目の前で
本当のところ、その男は数居る中の
ここで魔獣にとって一番の問題だったのは、その男から一切の
どれだけ過大に評価をやり直しても、彼の持つ権力や財力に見合った武力や知力、あるいは魅力などが皆無だったのである。
魔獣は納得がいかなかった。
いくら権力や財力が本人の資質と無関係に与えられる場合があると言っても……流石に
この世の
と言うのも、心のどこかで魔獣は、悪の元凶には大物であってほしいと――才気
しかし、実際に目の前に現れたのは、実体のない権力と財力に守られていただけの、見るに
それは
別に初めから、人間に戻るつもりは無かった。
だが、それにしたって――。
(俺は
こんな下らない無能の私利私欲を満たすために、世界が絶望と闇に
それを知った瞬間、魔獣はどっと徒労感にも似た何かに襲われる。
いっそのこと、本当に悪の大魔王でも居てくれれば……そのほうが魔獣にとってはまだ救いがあっただろう。
これならまだ、あのパイプをふかせた中年大佐のほうが狡賢くて厄介だったし、大物に思えた。
それどころか、戦場で踏み
なのに、彼らを
そんな薄っぺらな現実。
この世界の真の姿に、ふざけるなと、魔獣は心の中で叫ぶ。
はたして、犯された過去のために、奪われた未来のために、一体何を
魔獣は目の前の男を恐ろしい形相で
この場で殺すことは簡単だ。
しかし、こんな不快なだけの小物を、一度殺しただけで無理やり
家族を失い、故郷を奪われたソフィアのことを思えば、たとえ骨の
……いや、そもそも考えてみれば、こいつに一番
ならば復讐は、彼らの手に
より相応しい罰を与える方法を思案するうち、魔獣はその考えに至った。
早速その案を実現させようと、魔獣は
「な、何をする!? 離せ! 吾輩は――!」
耳障りな声を黙らせるため、魔獣はその頭を床に叩きつけた。
ゴンッと、
枢機卿は不細工な顔で鼻血をダラダラと流す。その表情は
「あ、が、何を……!」
反抗的な目をしていたので、もう一度、今度はもう少し強めに床に叩きつける。
その痛みに枢機卿は、鼻の奥から豚のような悲鳴を上げてのた打ち回った。
「プギイイイイィィィィイイィィィ!!」
「……逆効果だったな。うるさいから、少し黙ってくれないか?」
魔獣は床を転げまわる男のぶよぶよした足首を
ぶらんぶらんともがく、ハゲたブタのような男。
その姿はできの悪い人形みたいで、魔獣は思わず
「き、貴様! わわ、吾輩を、一体どうするつもりだ?」
「知ったところで何も変わらないと思うが……今からお前を、バフォメット族に引き渡す。然るべき処分は、きっと彼らが下してくれるだろう」
魔獣が冷たく言い放つと、枢機卿の顔はさっと青ざめた。
「……まあ、よほど恨みを買っていなければ、酷い目には合わないさ。せいぜい今までの
魔獣にそう言われると、枢機卿は必死な顔で、逃げようと無駄な
その様子を見る限り、やはり平和に済むことはなさそうだ……魔獣は
魔獣は部屋を出ると、バフォメット族たちの居る場所を目指して、罪人の男を引きずっていく。
メアリス教国に
「痛、いやだ……助け……」
連行する道中で再び何か声が聞こえたが、魔獣は耳を貸さない。
代わり枢機卿が
枢機卿も最初のうちは泣き
彼の生涯で最大の不幸は、この場で魔獣に殺してもらえなかったことであろう。
そして始まるは、因果応報の
バフォメット族たちに引き渡されたあと、彼がどんな目に
* * *
レヴィオールの王国は燃えていた。
空は真っ暗なのに、城から見下ろした城下町は赤く輝いている。
それはバフォメット族たちの怒りと
しかし心配する必要はない。燃えているのは、メアリス教徒の居住区だけなのだから。
眼下に燃える町を見下ろしながら、魔獣は愉快そうに
この氷の
戦火の渦がレヴィオール王国を支配する。
さあ、殺せ。殺せ。殺せ。
魔獣の
報復の炎は天まで焦がす。
それら全てはソフィアのために。
何もかもが自分の思い通りになっていて、魔獣の気分は
既にメアリス教国は兵士のほとんどを失っていた。もはやバフォメット族を抑える軍事力は存在しない。
となれば、このタイミングで革命の炎が燃え上がるのは当然の帰結だろう。
しかし、原因はそれだけでなかった。
この革命を
多くの魔力を保有する高位の魔獣は、存在するだけでその感情の
そして、感情が込められた咆哮には、人々の心を縛る力すらあった。
現代の治癒魔術師には“英雄症”として知られるこの現象。しかし、かつては別の名で呼ばれていたことも知られている。
――
超越者を気取りながら、冬の魔獣は雪と炎に沈む王国を見下ろす。
その横顔に、かつて冬に呪われた地を飛び出したころの面影はもう残っていない。
あの
どうせ全てが無意味で下らない。そんな自暴自棄な感情に、彼の心は支配されていたのだ。
そのせいで、今では
「……ああ、そうさ。これでいいんだ。俺に
ある意味これも、偉大過ぎる力を手に入れた代償なのだろうか。
今の彼は、この世に災厄をもたらす“邪神”――そう呼ばれるに相応しい存在だった。
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