雪と炎に沈む王国(下)

 部屋に踏み込んできたヒグマほどもある巨大な魔獣は、全身に返り血を浴びている。

 その姿は枢機卿すうききょうの目に、自分の地位をおびやかす暴力の化身として映った。


 たてがみのあるオオカミのような、翼の無いドラゴンのようなその姿。背中に刺さった無数の剣が、妙な迫力を感じさせる。

 そしてあおく冷たく燃える双眸そうぼう……その中にある敵意を見る限り、少なくとも彼が人類のお友達にはなってくれることはないだろう。


 その身体を保護するは、廊下の明かりを反射して冷たく輝く鱗殻の鎧。それらは果たして凍りついた鱗なのか、あるいは氷そのものを鎧としているのか。

 特に頭部を装飾するそれは、きらめく氷でできた王冠のようにも見えた。


 明かりの無い王の寝室で、その身を滅ぼしに来た魔獣に恐怖する枢機卿すうききょう

 ――しかし一方で、魔獣のほうも目の前にいる男の姿に愕然がくぜんとしていた。


「おい……まさか、お前がここを占拠している、メアリス教国の責任者か?」

 魔獣はどこか落胆したように口を開き、うなり声の絡んだ低い声で、枢機卿すうききょうに問い掛けた。

 その口の中には剣のような牙が無数に並んでいる。それを見た枢機卿は、反射的に体をちぢこませた。

 魔獣が人語をしゃべったことに気が付くのは、それから数秒ほど遅れてからだった。


 しかし、言葉が通じると理解するや否や、無謀にも枢機卿は魔獣に食って掛かる。どうやら相手が圧倒的な暴力を有する事実を、都合よく忘れたらしい。

「きききき貴様、たかが魔獣けだもののクセに、無礼な口をきおって! 枢機卿たる吾輩に、そんな態度が許されると思っているのか!?」

 内心はともかく、威勢だけは良い枢機卿。

 そこに歴然と存在する力の差については、一切の考慮をしていない。彼が権力を笠に着るのは、もはやほとんど条件反射だった。


 魔獣がその気になれば、彼などあっという間に潰れたトマトのような姿なるのだが……それすら理解できないほどに、その男は愚かだったのである。

 おそらく、今まで彼に逆らえる者がほとんどいなかったのも、不幸の一つなのだろう。

 錯乱した枢機卿すうききょうは張りぼての権力で自分を大きく見せるのに必死だった。


 しかし、もはや人の世の属さない魔獣けものが権力になびくはずもない。

 魔獣は冷めた目で、その地位を振りかざす男を見下ろしていた。

「“すうききょう”とやらが何なのか知らないが……そうか。つまり、お前が責任者なんだな?」

「知らないだと!? ふざけたことを、吾輩は次期教皇だぞ!? 先祖代々の高貴なる血筋だ! 吾輩は、貴様のような魔獣けだものなんかとは格が違う上級聖民なのだ! 吾輩に手を出せば神罰が下るぞ!? 立ち去れ、即刻立ち去れ!!」

 首回りの贅肉ぜいにくを震わせるえ太った男は、まるで頭の悪い子供のようにその場でわめきながらじたばたする。

 彼は魔獣を目掛けて手当たり次第に物を投げつけたが、魔獣にとっては痛くもかゆくもない。

 しかし、その無様過ぎる姿は……なんと表現すべきか、殺意にたぎっていた魔獣を失望させるのに充分だった。


 目の前でわめく自称次期教皇。魔獣はまじまじと、彼を改めて観察してみる。

 本当のところ、その男は数居る中の一候補いちこうほにすぎず、しかも能力的に彼が次の教皇となる確率は限りなくゼロに近かったのだが……そんな事実を知らない魔獣は、このブタのように醜く肥え太った男こそがメアリス教国における屈指の権力者なのだと誤解した。


 ここで魔獣にとって一番の問題だったのは、その男から一切のチカラが感じられないことであった。

 どれだけ過大に評価をやり直しても、彼の持つ権力や財力に見合った武力や知力、あるいは魅力などが皆無だったのである。


 魔獣は納得がいかなかった。

 いくら権力や財力が本人の資質と無関係に与えられる場合があると言っても……流石にあまりにも、あんまりではないか?

 この世のことわりに反している。魔獣はそう感じた。

 と言うのも、心のどこかで魔獣は、悪の元凶には大物であってほしいと――才気あふれる巨悪であるべきだと信じていたからだ。


 しかし、実際に目の前に現れたのは、実体のない権力と財力に守られていただけの、見るにえない無能。

 それはチカラを得るため自己進化ひていを繰り返してきた魔獣にとって、あまりにも酷な現実であった。


 別に初めから、人間に戻るつもりは無かった。

 だが、それにしたって――。


(俺はを殺すために、わざわざこの国まで来たのか? こんな奴のために、ソフィアは悲しむことになって……俺は本物の怪物になったのか?)


 こんな下らない無能の私利私欲を満たすために、世界が絶望と闇におおわれていたなんて。

 それを知った瞬間、魔獣はどっと徒労感にも似た何かに襲われる。

 いっそのこと、本当に悪の大魔王でも居てくれれば……そのほうが魔獣にとってはまだ救いがあっただろう。


 これならまだ、あのパイプをふかせた中年大佐のほうが狡賢くて厄介だったし、大物に思えた。

 それどころか、戦場で踏みにじった兵士たちの命のほうが、まだ遥かに価値があった。


 なのに、彼らをほふり、血塗ちぬれた先で辿たどり着いたこの場所には、思想も、理想も、主義も、勇気も、理念も、矜持きょうじも、何一つとて存在しない。


 そんな薄っぺらな現実。

 この世界の真の姿に、ふざけるなと、魔獣は心の中で叫ぶ。


 はたして、犯された過去のために、奪われた未来のために、一体何をって、つぐなわせればいいのだろう?

 魔獣は目の前の男を恐ろしい形相でにらみつけた。


 この場で殺すことは簡単だ。

 しかし、こんな不快なだけの小物を、一度殺しただけで無理やり溜飲りゅういんを下げるのは面白くなかった。

 家族を失い、故郷を奪われたソフィアのことを思えば、たとえ骨のずいまで殺し尽くせたとしても、殺し足りない。


 枢機卿すうききょうが無様な姿を見せるほど、魔獣の中で憎悪の感情がふくれ上がり――同時にやるせない感情が、魔獣の心を支配した。




 ……いや、そもそも考えてみれば、こいつに一番うらみがあるのは俺ではなく、ソフィアやバフォメット族のはずだ。

 ならば復讐は、彼らの手にゆだねるのが本来あるべき姿ではないのだろうか?

 より相応しい罰を与える方法を思案するうち、魔獣はその考えに至った。


 早速その案を実現させようと、魔獣は枢機卿すうききょうの脂ぎった頭を鷲掴わしづかみにする。

「な、何をする!? 離せ! 吾輩は――!」

 耳障りな声を黙らせるため、魔獣はその頭を床に叩きつけた。

 ゴンッと、にぶい音が寝室に響く。死なないよう手加減しているとはいえ、その音は相当なものだった。


 枢機卿は不細工な顔で鼻血をダラダラと流す。その表情は苦悶くもんに満ちていた。

「あ、が、何を……!」

 反抗的な目をしていたので、もう一度、今度はもう少し強めに床に叩きつける。

 その痛みに枢機卿は、鼻の奥から豚のような悲鳴を上げてのた打ち回った。


「プギイイイイィィィィイイィィィ!!」


「……逆効果だったな。うるさいから、少し黙ってくれないか?」

 魔獣は床を転げまわる男のぶよぶよした足首をつかんで宙ぶらりんにかかげる。


 ぶらんぶらんともがく、ハゲたブタのような男。

 その姿はできの悪い人形みたいで、魔獣は思わずわらってしまいそうになった。


「き、貴様! わわ、吾輩を、一体どうするつもりだ?」

「知ったところで何も変わらないと思うが……今からお前を、バフォメット族に引き渡す。然るべき処分は、きっと彼らが下してくれるだろう」

 魔獣が冷たく言い放つと、枢機卿の顔はさっと青ざめた。


「……まあ、よほど恨みを買っていなければ、酷い目には合わないさ。せいぜい今までのおこないを振り返って、彼らの慈悲と寛容の心に期待しな」

 魔獣にそう言われると、枢機卿は必死な顔で、逃げようと無駄な足掻あがきをする。

 その様子を見る限り、やはり平和に済むことはなさそうだ……魔獣は愉悦ゆえつに頬肉を吊り上げながらそう思った。


 魔獣は部屋を出ると、バフォメット族たちの居る場所を目指して、罪人の男を引きずっていく。

 メアリス教国にしいたげられた者たちのもとへ……おそらく其処そこが彼の処刑場となる未来はけられないだろう。


「痛、いやだ……助け……」


 連行する道中で再び何か声が聞こえたが、魔獣は耳を貸さない。

 代わり枢機卿がしゃべるたび、まるで棒切れのように彼を振り回し、壁や奢侈しゃしな調度品にその顔面を叩きつけて強制的に黙らせる。

 枢機卿も最初のうちは泣きわめく余裕があったようだが……何度も何度も叩きつけられて、顔中が擦り傷とあざだらけになったころには一言も発しなくなっていた。


 彼の生涯で最大の不幸は、この場で魔獣に殺してもらえなかったことであろう。

 そして始まるは、因果応報のうたげ


 バフォメット族たちに引き渡されたあと、彼がどんな目にわされたか――それは特別語るまでもないことだった。


 * * *


 レヴィオールの王国は燃えていた。

 空は真っ暗なのに、城から見下ろした城下町は赤く輝いている。


 それはバフォメット族たちの怒りと怨嗟えんさ、そしてメアリス教国の罪の証。

 しかし心配する必要はない。燃えているのは、メアリス教徒の居住区だけなのだから。


 眼下に燃える町を見下ろしながら、魔獣は愉快そうにわらっていた。

 この氷のやいばが舞った吹雪の夜は、奇跡の起きた夜として、国の歴史に刻まれるだろう。


 戦火の渦がレヴィオール王国を支配する。

 さあ、殺せ。殺せ。殺せ。

 魔獣の咆哮めいれいが冬の世界に響き、彼の狂気が伝搬でんぱんする。


 異教徒てきと裏切り者にはたたりを、あがめる信徒には救済を。

 報復の炎は天まで焦がす。

 それら全てはソフィアのために。

 何もかもが自分の思い通りになっていて、魔獣の気分はくらく冷たい高揚をしていた。


 既にメアリス教国は兵士のほとんどを失っていた。もはやバフォメット族を抑える軍事力は存在しない。

 となれば、このタイミングで革命の炎が燃え上がるのは当然の帰結だろう。


 しかし、原因はそれだけでなかった。

 この革命をはからずも後押ししたのは、魔獣の存在そのものだ。


 多くの魔力を保有する高位の魔獣は、存在するだけでその感情のたかぶりが周囲の精霊や生物の魂に影響をおよぼす。

 そして、感情が込められた咆哮には、人々の心を縛る力すらあった。


 現代の治癒魔術師には“英雄症”として知られるこの現象。しかし、かつては別の名で呼ばれていたことも知られている。


 れは、いにしえより伝わる、原初の魔法のひとつ。

 ――精霊王の祝福コーヤ・バッ・コール、あるいは龍の言霊ドラゴン・ヴォイスと呼ばれ、その使い手は古代において、神と同一視されていた。




 超越者を気取りながら、冬の魔獣は雪と炎に沈む王国を見下ろす。

 その横顔に、かつて冬に呪われた地を飛び出したころの面影はもう残っていない。


 あの枢機卿すうききょうに会ってから、この世界の全ては魔獣にとって軽蔑する価値すらないゴミへと成り下がっていた。

 どうせ全てが無意味で下らない。そんな自暴自棄な感情に、彼の心は支配されていたのだ。

 そのせいで、今ではわずかに残っていた敬意や罪悪感すらも完全に消え失せてしまっている。


「……ああ、そうさ。これでいいんだ。俺にさからう者は皆、苦しんで死に絶えてしまえばいい!」


 ある意味これも、偉大過ぎる力を手に入れた代償なのだろうか。

 今の彼は、この世に災厄をもたらす“邪神”――そう呼ばれるに相応しい存在だった。



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