開幕

 死なないとは、永遠を生きるとは、いったいどのような気分なのだろうか。

 現実の世界でどうなのかは知らない。だが、フィクションの世界に限定すれば、不死の属性をもつキャラクターはいくらでも存在する。


 やはり、永遠の命とは人類の夢なのだろう。

 しかし、それらの物語をよくよく見てみれば……不死であることを肯定的に捉えている作品は、意外と少数派だ。

 むしろ永遠に続く人生を謳歌おうかするより、安らかな眠りを望む者のほうが多い印象すらあった。


 まあ、それらも結局、不死でない人間たちの想像にすぎない……そう言われてしまえばそれまでである。

 突き詰めれば作品上の不死なんて、物語を盛り上げるためのキャラ付けでしかないのだから。


 もっと言ってしまえば、定命じょうみょうの存在である俺たちが、本当の意味で不死について理解することなど、土台無理な話なのだ。


「どんな存在であろうとも、いつかは必ず、終焉を迎えるべきものなのじゃ」


 魔女は俺に警告した。

 永遠を生きる――それはどれほど苦しくても「死」という逃げ道は使えず、どれほど寂しくても誰かと共に生きることは許されない。

 一人きりで過ごす永遠を甘く見てはいけない。永遠を生きるのだって、それなりの素質が必要なのだ、と。


「滅びの宿命に逆らい、この世に長く在りすぎれば、いずれ在りし日のおのれを失うことになる。

 そうなったら悲惨じゃぞ? 辛うじて面影を残すだけの残骸と成り果てた者の末路を、儂は見たことがある……」


 それは、たとえ神霊やドラゴンであろうとも逃れられない運命だ。

 魔女はそう付け加えた。


 なるほど。

 確かに、俺はこの世のことわりなんて何も知らない。


 そもそも生とはなんなのか、死とはなんなのか。

 それすらも俺には理解できていない。


 無学な俺がかろうじて知っているのは、地球の宗教家が言っていた胡散臭うさんくさい生死観。あるいは、哲学者たちが語る、結局なんの答えにもなっていない答えだけだ。


 魔女の警告に俺は、一応納得しておくことにした。

 現実に、魔法という俺の知らない世界のことわりが存在するのだ。

 それを自由に扱える異世界の魔女は、少なくとも俺なんかより色んな事を知っているだろう。


 そんな彼女が、偉そうな態度で語る不死者の生死感。

 変に素人が考えるよりかは、ずっと真実に近いはずである。


 だが、あえて俺は――。


「でもまあ、それはそれとして……ぶっちゃけ死なないって、便利じゃないか?」


 あえて俺は、シリアスな空気をぶち壊し、真面目な雰囲気を台無しにしながら言ってやった。




「……お主、思っていたより馬鹿じゃの。創作とはいえ、不死者の苦悩を知っていてなお、そのような身の程知らずなことを……」


 バカだなんて、酷い言い草だなあ。

 魔女は身も蓋もないことを言う俺に呆れ、がっかりした様子だ。


 しかし、これも仕方がないことである。

 なぜなら俺は賢者ではない。

 愚者である俺は、目先の不死に全力で飛びつくのだ。


 確かに俺は、生きることの辛さを知っている。

 他人とパイを奪い合う世知辛さ、その残酷さだって経験している。

 永遠に死なないというのも、それはそれでしんどそうだ。


 でも、それはそれとして――人間、一度は不死にあこがれるものだよね?

 だって死を恐れるのもまた、まぎれもない生物の本能なのだから。


「……いや、そもそも不死を求める理由が『働かなくていいから』じゃったな……正直なところ、お主、不死そのものにはあまり執着しとらんじゃろ?」

「いーや、そんなことはないぞ」

 真面目な話、不死じゃなかったら今頃俺はオオカミの腹の中だったしな。


 恥ずかしげもなく言うが、俺はやっぱり

 ゆえに、死の危険を避けられるなら、不死は大歓迎である。


「とにかく、俺はもう人間に戻るつもりはない。これ以上は何を言っても無駄だ。さあ、さっさと消えてくれ」


 互いの主張は平行線だ。これ以上会話する意味はないだろう。

 だから俺は、もう話は終わりだといった態度を示しながら、魔女を冷たく追い払った。


 俺に追い払われた魔女は不快そうにムッとした表情をする。

 しかし彼女は立ち去る気配を見せなかった。どうやら、まだ俺の説得を諦めていないようだ。

 魔女は馴れ馴れしいネコ撫で声で俺に近づいてくる。


「なあ、お主、そんなに元の世界に帰りたくないのか? 本当は、あっちの世界に、心残りの一つや二つあるんじゃないかの?」


 ……本人にはそのつもりが無いのかもしれないが、パーソナルスペースが近すぎだ。

 確かに今の俺は魔獣である。傍から見れば大きな犬にじゃれている幼女みたいな絵面なのかもしれない。

 だが元の姿なら……下手すれば通報ものの案件だ。


「まったく、しつこいな。そんなものねェよ」

 俺は尻尾を使って乱暴に魔女を追い払いながら答えた。


 ついでに、今の俺は嗅覚も鋭くなっている。

 香水でない普通の石鹸せっけんの臭いでも、甘ったるくてキツいのだ。

 いやはや。どうしてそこまでして、俺に元の世界へ帰ってほしいのか。魔女がこんなにお節介を焼く理由が分からない。


「本当かのう? 本当に何一つないのか? ホレホレ、よーっく思い出してみるのじゃ」

「だから、そのうっとうしい喋り方を止めてくれ」

 なんと言われようと、元の世界には絶対に帰らないぞ。


 俺はもう、放っておいてほしいだけなんだ。

 結局のところ、俺がどうなろうと自己責任で、自業自得なのだから。


 誰も彼もがそう言っている。ならばもう、俺が魔獣になったのも自己責任でいいじゃないか。

 俺が人間に戻らなくたって、困る者はだれ一人いないだろ?


 なぜ放っておいてくれないんだ。

 もはや、俺が望むのはそれだけなのに。


 しかし魔女が俺のそんな心中を知るよしもなく、しつこく元の世界へ帰ることを勧めてくる。


「どうじゃ? そろそろ何か思い出したんじゃないかの?」

「……悪いが、なんど聞かれても答えは同じだ。あっちの世界に、心残りは一切ない」


 むしろ今が最高に快適で、俺は満足している。


「本当か? じゃがのう、ここはあまりにも寒すぎる。温かい人間の暮らしが懐かしい……お主もそうは思わんか?」

「それはまあ……否定は、できないかな。だが我慢できないほどじゃない」


 我慢できるってことは、必要ないってこと。

 つまり、それはだ。

 必要ない贅沢なら、俺は要らない。そんな余裕もない。今までずっと、俺はそうやって生きてきた。


せ我慢は毒じゃよ? 体にも、心にもな。それに、お主の故郷もなかなか良いところじゃ。ドラゴンはおらんし、神霊も滅多なことでは干渉してこないからのう」

「いいじゃないか、別にドラゴンが居たって」


 だって異世界だもの。

 てか、神様が何もしてくれないって、それはたしてアピールポイントなのか?


「神を自称するやからなんぞに頼ったところで、ロクな結果にならんさね。それに、お主の住んでいた国は、数多あまたの世界をめぐった儂から見ても、類を見ないほど平和だし安全じゃ……」

「近頃はそうでもないらしいがな。だいたい、死んだように働きながら生きるより、不死身の魔獣として自由に生きられる今のほうが、確実に平和だし、幸せだ」


 俺は彼女の下手糞な説得を、けんもほろろに跳ね返す。


「ムムム……そうじゃ! ならば気晴らしに温泉にでも行くのじゃ。お主に必要なのは癒しじゃて。人里を離れた旅館でのんびりするのも、なかなかに乙なものじゃよ?」

「ハッハッハ、それは皮肉か? ブラック企業のIT土方に、そんな金や時間があるとでも?」


 話にならないな。いろんな意味で。


 かたや、あっちの世界で最底辺にんげんとして生きる生活。

 かたや、不死の魔獣として生きる悠々自適ゆうゆうじてきなその日暮らし。

 仮に俺の色眼鏡を排して客観的に考察したところで、どちらがより幸せかなんて比べるまでもないだろう。


「いや、それ以前に、今さら帰ったところで無職じゃねーか。温泉旅行どころじゃねえよ。夢も希望もありゃしねえ……」

「お主……働きたいのか働きたくないのか、いったいどっちなのじゃ?」

 魔女があきれた様子で言った。


 もちろん。働かなくていいなら働かないさ。

 だが残念なことに、現代日本ではお金がないと生きていけないのである。現実とは、かくも厳しいのだ。


 いや、割と冗談ではなく、本気で現実ってやつは厳しい。

 あの三十年近く続く不景気。一部界隈では『失われた時代』なんて揶揄やゆされている。


 最近は多少ましになったとはいえ、こちとら一時期失踪していた、若くもない、無職童貞の元IT土方。

 こんな男がまともに社会復帰するのは、非常に困難だろう。


 生涯奴隷でも構わないなら話は別かもしれないが……俺は御免ごめんだ。

 そんな状況で元の世界に帰されるぐらいなら――いっそ、こちらの世界で野垂れ死にさせてくれたほうが、まだ慈悲がある。


「まあ、その不安は当然と言えば当然じゃな……しかし、その辺の心配は要らん。バラの花が散るまでに魔法が解ければ、お主が来たのと同じ時間に帰れる手筈てはずとなっておる……今までの様子を見る限り、お主は喜ばんじゃろうがな」

「そりゃそうだよ畜生め!!」


 思わず俺は叫んだ。


「魔法が解けたら即デスマーチ再開とか、もはや性質たちの悪い罰ゲームじゃねえか!! やっぱり俺は人間に戻らねえぞ!! 絶っ対だからな!!」


 無職は辛いが、コンティニューも地獄だ。

 もはや本気で人間に戻るメリットが見当たらない。


 てか、俺が連れてこられたとき、仕事はどんな状況だったっけ?

 思い出したくない記憶が脳裏を駆け巡る。


 据え置きの給与。人材派遣会社どれいしょうにんのピンハネ。サービス残業。終電すらない時間帯。決まらない仕様。とっくに過ぎ去った期限。秘伝のソースに蓄積されたバグ。身に覚えのない苦情。

 だいたい、白紙の仕様書を見て何をプログラミングしろっていうんだ! 責任者出てこい! あれ? いつの間にか俺になってた!?

 ううっ、頭が……!


「嫌だ、嫌だ……ブラック企業で働くのは、もう嫌なんだよ……」

「……分からんのう。そんなに嫌なら、なぜその会社に勤めていたのじゃ?」

 本当だよ。むしろ俺が知りたい。


「もうさ、そこまで俺を帰したいなら、いっそ魔獣のままで帰してくれればいいじゃん……俺は獣として山奥でひっそりと暮らすからさ……」

 ……思いつきで言ったが、これはなかなかナイスなアイデアじゃないか?


 魔女は俺を地球に帰せて嬉しい。俺は山奥でのんびり暮らせて嬉しい。

 これぞまさしくウィン‐ウィンの解決策だ。


 しかし、残念ながら魔女はそう思ってくれなかったらしい。

「それはダメじゃ。魔法を解かねばお主は帰れぬし、儂はただお主に帰ってほしいのではない。試練を乗り越えて、『真実の愛』を学んだすえに堂々と帰郷してほしいのじゃよ」

 俺のナイスなひらめきは一考の素振りもなく却下されてしまった。


「……だが現状のままだと、その試練とやらを乗り越えた先に待っているのが、絶望で確定なわけだが」

「そこは、ホレ、愛の力で頑張るのじゃ!」

「あんたは愛の力を過信しすぎだ!」


 彼女はもっと現実を見るべきだ。愛の力は決して万能じゃないのである。


 進展しない会話。俺はため息をく。

 そろそろ平行線な無駄話に付き合うのも疲れてきた。

 いい加減に不毛な議論を終わらせたくもあったので、俺はとうとう核心に触れることにした。


「そろそろ諦めてくれないか。なんで、あんたは、そこまで俺にこだわるんだ? 何か理由があるのか? 俺とあんたは……赤の他人だろ」


 たずねられた魔女は言葉を詰まらせた。


 しばらくの沈黙。そして魔女はゆっくりと、言葉を選ぶように口を開く。


「…………そうじゃな。いて理由を挙げるなら、老婆心かのう」

「へえ、老婆心、ねえ?」

 俺は胡乱うろんな目を向けた。

「もちろん別に理由はある。あるのじゃが……お主は知らんままのほうが良いじゃろうて」

「なんだよそれ。この魔法、まーだ何かあるのか?」


 不安をあおられて、俺は自分の体に変な兆候が出ていないか慌ててチェックする……今のところ、異常はないようだ。


「安心せい。普段通りに過ごしておれば、何も問題はない」

「そういう洒落にならないのは本気でめてくれ。怖くなるだろ。何かあるなら早目に言ってくれないか?」

「もし機会があれば教えてやるのじゃ。そんな機会、訪れんに越したことはないがのう……」


 だが自分に関わることである。このままじゃ気になって、夜しか眠れない。


 俺はこの後もなんとか聞き出そうとした。しかし、その話題に関して魔女は、何も教えてくれる気が無いらしい。

「何度聞かれようと教えられん。こっちにも都合があるのじゃ。お主は魔法を解いて人間に戻ることだけを考えておればいいんじゃて」

「だーかーらっ! 俺には戻る理由がないんだよっ!」


 どうやら話は平行線なうえに、無限ループな仕様だったようだ。

 結局俺は、たいへん無為な時間を過ごす羽目となった。


「とにかく、何があろうとお主は人間に戻らないといかん――これだけは、しっかりときもに命じておくのじゃ」


 結局、まとめると俺が得られた情報は最終的にこれだけであった。




「おっと……儂としたことが、いかんのう。肝心なことを忘れとった」

「クソッ。この野郎、露骨に話をらしやがって……」


 なんとも無理やりな話題変更だ。

 露骨すぎて隠す気すら感じられない……まあ、きっと隠すつもりなんてさらさらないのだろうが。

 彼女は抱えていたバラのケースをそっとテーブルに置いて、俺のほうに向き直る。


「……ハア。まあいいや。それで、肝心なことって?」


 観念して、再度ため息をく俺。

 人間の頃からそうだったが、こういった場面で、最終的に折れるのはいっつも俺のほうなんだよなあ……。


「今日お主の元を訪れたのは他でもない。大切なことを伝えるためだったのじゃ」


 魔女は先ほどまでの、どこか残念な様子と打って変わって、おごそかさすら感じさせる真面目な表情だった。

 俺はとりあえず耳をかたむける。


「ああ、そうじゃ。今のお主にとって本来、最も大切なこと……のはずだったんじゃがなあ……」

「なんだよ、はっきりしねえな」

「……まあ、言ってもよいか。なあに、そろそろお主の元にも運命の相手が訪れる。それだけの話じゃ」


 なんの脈絡もなく魔女の口から発せられたのは、本来知りえない未来の出来事だった。


「…………ハァ?」

 口から変な声が漏れる。

 しばらくのあいだ、俺の理解力が追いつくことはなかった。


「じゃから、そろそろ来るのじゃよ。お主の運命の相手が。お主にかけられた魔法によって導かれるのじゃ」

「いや、わけが分かんねえよ。てか、それも魔法のせいかよ」

 なんだ、その迷惑極まりないシステムは。

「真実の愛を知ろうにも、相手がおらんと話が始まらんじゃろうて……お主がどれだけ嫌がろうと、かけられた魔法を解く機会はちゃんと与えられるってことじゃ」

「おい、ふざけんな――」

 余計なお世話だ。

 そう言おうとした瞬間、俺の耳が何か音を捕らえた。


 人間なら絶対に聞き取れないほどのかすかな音。

 だが、獣になった俺の耳はつい反応してそちらに向いてしまう。


 これは……冬の森に住むオオカミたちの声だ。

 なんだよ、こんな時に限って。


 初日に散々暴れたせいか、この辺りの獣は俺を恐れている。なので、やつらがこの城に近付くことは滅多にない。


 にもかかわらず、聞こえてきたオオカミたちの遠吠えは城にかなり近かった。

 こんなにも近くで狩りがおこなわれているなんて、最近ではかなり珍しいことだ。


 魔女も、俺が何かを感じ取ったことに気が付いたらしい。

「ほほう。さては、ちょうど運命の相手が来おったな」

 そのにやにや笑いは俺を苛立いらだたせる。


 だが……不本意ながら、それが正解かもしれないと俺は思った。

 なぜなら金属音が――この城の鉄柵扉を利用して、狼たちを締め出す音が聞こえたからだ。


 この音が意味する事実。

 それは、追われていた獲物が人間である可能性だ。

 まさか野生の鹿が器用にかんぬきを閉めたなんてことはないはず。

 少なくとも、それなりに知性のある生物がこの冬の城を訪れたことは間違いないだろう。


「…………かもな」


 本当にタイミングがいいというか、ご都合主義というべきか。

 俺は魔女に疑惑の目を向けた。


「あんたが、ここに誘導したんじゃないのか?」

「まさか。言ったじゃろ? 運命の相手じゃと。どこの誰が導かれるかすらも、儂には分からん。いやしかし、どんな娘が来たか楽しみじゃの」


 魔女は上機嫌だ。

 今度はいたずらが成功した子供のように、彼女はケラケラ笑っていた。


「ほーれ、お主の花嫁じゃ。さっさと出迎えておやんなさい」

「……クソが。あとで覚えてやがれ!」


 本音を言えば無視したかったが、オオカミに襲われている人間を助けないのは……さすがに寝覚めが悪い。


 外はすでに暗い。

 おまけに雪も降っている。

 放っておいたら、その運命の相手とやらは間違いなく凍死するだろう。


 忘れてはいけない。

 俺が平気なだけで、ここは「冬に地」と呼ばれる程度には危険な場所なのだ。


 舌打ちしたあと、俺は部屋を出てエントランスへ向かった。


 * * *


 この城の内部構造は無駄に入り組んでいる。

 どうやら侵入者対策として、意図的に複雑に作られているらしい。

 そのため正規ルートとなる廊下はいちいち遠回りとなる上に、管理する者が居なくなった今となっては、まともな灯りすら存在しない。

 そんな悪路を、わざわざ通ろうとは思わないな。


 俺は魔獣の身体能力を活かしてショートカットを繰り返す。

 窓枠を跳び越え、屋根の上を駆け抜け、吹き抜けから跳び降り……。

 そして無駄に広いダンスホールを突っ切れば正面エントランスはすぐそこだ。


「まったく、なにが運命だ。バカバカしい」

 着地をしながら俺は悪態をついた。


 運命の相手? 真実の愛? 本当に下らない。

 こちとらこの歳まで非モテの童貞をつらぬいているのだ。

 あいにく、今さら婦女子に好いてもらえるなんて幻想は抱いていない。

 むしろ、そんな下らない理由で俺の小さな楽園が踏み荒らされることに、俺は苛立いらだちを抑えきれなかった。


 本当に、面倒臭いことになったものだ。

 突然降りかかった厄介事やっかいごと。今なら永遠に愚痴り続けられる気分である。

 だが、これ以上は我慢して、建設的なことを考えるよう努めた。


「……まあいいさ。来てしまったものは仕方がない。なるべく丁寧に対応して、できるだけ早くにお帰り頂くとしよう」

 俺は自分に言い聞かせた。


 どこの誰が来たのか知らないが、とりあえず美女と野獣フラグを回避しなければ話にならない。

 心安らかなスローライフのためにも、俺は必ず、魔獣として永遠の自由を手に入れるのだ!


 新たな決意を胸に抱いた俺は、見晴らしのよいダンスホールを抜け、エントランスに辿り着く。


 ここもまた、無駄に広い。

 夜の時間帯だと天窓から光も差し込まないので、今はただ真っ暗な空間が広がっている。


 夜目のく魔獣の目で見まわすと、下方に正面扉が見えた。

 しかも今まさに扉が開き、その隙間から一つの影が入り込んだところだ。


 ――あれか。

 あれが『運命の相手』か。


 勝手に入ってきやがって。急がなければ。いちいち階段を下りるのも面倒くさい。

 こうなったら、最後のショートカットである。


 俺はエントランスの中央をめがけ一気に飛び降りた。



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