愛とエゴの境界

 メアリス教国の蛮行。

 現実にそれを目の当たりにして、俺の胸中には自分でも戸惑うほどの激しい感情が渦巻いていた。


 激しい憤怒ふんぬと憎悪。そして、憐憫れんびんと悲しみ。

 自分が傷付けられたわけじゃないのに、自分のこと以上に苦しく感じる。

 ソフィアの大切な故郷をけがした奴らを、メアリス教に関わる全ての者たちを血祭りに上げたい衝動に駆られた。


 ソフィアに出会う以前の俺だったら、もっと冷静に心を落ち着けることができたと思う。

 なぜなら、人間だったころの俺には、大切な人も、守りたい人も、幸せになってほしい人も居なかった。

 だから俺は、どこまでもドライでいられた。


 例えば、散々テレビのニュースや広告で見せられてきた、戦禍に巻き込まれた女性や、貧しさにあえぐ不幸な子供たちの姿。

 あるいは、凶悪な殺人鬼にもてあそばれた被害者少女の末路。

 それらを見せられたところで、俺にとってはとことん他人事だったし、世界のどこで、誰が、どんな酷い目にっていようと、俺に被害が無ければ関係ないとさえ思っていた。


 端的に言えば、興味が持てなかったのだ。

 きっとあの頃の俺がこの光景を見ても、悲しいニュースか、世界史の教科書を見ているような気分にしかならなかっただろう。

 後になって思えば、その冷めた心は、俺の精神を守るための鎧でもあった。

 あるいは単に、日々のブラック労働で疲れ果てて、自分以外のことに構ってる余裕が無かっただけとも言えるがな。


 しかし、今の俺は違った。

 今の俺には、ソフィアという幸せになってほしい人ができた。

 ソフィアのことが大切に思えるようになる。すると当たり前だが、ソフィアの向こうにも、彼女にとって大切な人たちが、もっとたくさん居た。

 そして、その人たちと俺に直接の面識が無くても、こうして傷付けられた姿をたりにすれば怒りを覚える――それほどまでに、ソフィアと、彼女がもつ繋がりの存在は、俺にとって重要になっていた。

 ソフィアにとって大切な人たちと思うだけで、俺にとっても救うべき存在に思えるのだ。


 メアリス教国側の事情は一切考慮してない、身勝手で独善的な感情。

 その自覚はあった。


 一方で、俺の中の理性的で冷酷な部分はこうささやく。

 こんなのは人類史上ではありふれた悲劇だと。あるいは、人間が家畜のウシやブタにやっていることと同じだと。

 そう極端すぎる言い訳で自分の心を誤魔化しながら、メアリス教の罪悪を諦め顔で受け入れる。


 こんな俺が、奴らを許せないなどと、偉そうなことを言う資格はあるのだろうか?

 果たして、俺がソフィアと出会って手に入れたこの感情は、俺なりの不細工な愛情なのか、それともただのエゴなのか。

 それは、俺にも分からない。


 唯一分かるのは、この場で俺が感情のままに暴れても、彼女たちを怖がらせてしまうだけであるということだ。

 危うく魂に刻まれた狂戦士状態バーサク・モードのスイッチが入りそうなところで、俺は怒りの衝動をぐっとこらえた。




 俺が必死で怒りを抑え込みながらたたずんでいると、背後の牢から俺を呼ぶような声がした。

 その女性の声は、もはや言語として機能していない、うめくような声だった。

 振り返ると、さっきの少女たちよりは年上に見える妙齢の女性が、助けを求めるように鉄格子の隙間から手を伸ばしていた。


 その牢に居た他の女性たちは、侵入してきた魔獣に声を掛けるという同居人の危険極まりない行為を止めることもない。ただ関わりたくない、目をつけられたくないとばかりに部屋の隅で固まっている。

 近づいてみると、呻き声を上げるその女性は嬉々として、その伸ばした手で俺のほおに触れながらたてがみを撫でた。


 間近で見た彼女の姿には、痛々しい暴力の跡が残っていた。

 全身に目立つ血のにじ青痣あおあざと、煙草を押し付けられた火傷の跡。その中には明らかに昨日今日増えたであろう真新しいあざもあった。

 殴られ過ぎたせいか、明後日あさっての方向で固定された片目は白く濁っている。すでに失明し、光を失っているようだ。

 半開きの口から覗く歯は所々抜けており、血の垂れた跡が残る鼻の形も折れて歪んでいるように見える。


 そんな姿になっても、顔立ちが整って見えるあたり、彼女がもともと美人であったことは疑いようがない。

 むしろ、全体的に残る美しかったころの名残が、ますますここでの暮らしの過酷さを物語っていた。


 目の前にいる恐ろしい魔獣に、彼女はいったい何を望んでいるのか。

 そのはしが裂けて乾いた血がこびり付くくちびるからは、相変わらずうめくような声が発せられる。

 精神がおかしくなっているのか、薬物で脳の言語野が壊されているのか、あるいは単純に暴力でのどが潰されているのか。

 もしかすると、全部かもしれない。

 しかし、翻訳魔法は容赦なく俺に、彼女の真意を叩きつけた。




 ―― コ ロ シ テ。




 俺の捕食者然とした姿に希望を見出したのだろう。彼女は悲しげに笑った。

 一筋の涙が伝ったのは、彼女のほおか、それとも俺のほおだったか。

 そう懇願こんがんする彼女の下腹部も、例外なく丸みを帯びて膨らんでいた。


 あらゆる尊厳を踏みにじられてなお、救いの無いせいすがりつく者。

 この世界を見限って、死に救いを見出す者。

 果たしてどちらがなのだろうか。

 少なくとも俺は、死を懇願こんがんする彼女を、否定する気にはなれなかった。


『死は救済であり、慈悲である』

 どこかのホラー映画で、キャッチコピーとして使われていそうなその言葉。

 ある意味で、それは正論であるし、真理でもあるのだ。


 だが、今回の俺はこの国を、そして彼女たちを救いに来たつもりだった――これも俺のエゴだが、苦しくても、屈辱的でも、今はまだ、未来のために生きていてほしいと思った。

 だから俺は、彼女の悲しい願いを無言で拒否する。

 感情を抑えながら、俺は彼女の入れられた牢に背を向けた。

 離れゆく俺に対して、彼女は言葉にならない声を上げながら、必死に手を伸ばし続けていた。


 彼女たちを閉じ込める檻を壊すことは簡単だったが、俺はあえてそれをしなかった。

 牢屋を出たところで、彼女たちが無事に逃げ切れるとは思えなかったからである。

 足の腱を切られた彼女たちに、「立ち上がれ」だなんて無責任なことは言えない。

 ならば、今しばらく……取りあえずこれから起こる騒動が終わるまでは、檻の中に居たほうが安全だろうと、そう判断したのだ。


 ただ、安全であることが幸せであるとは限らない。

 彼女たちの運命は、彼女たちのあずかり知らぬところで決定する。


 俺だって人間だったころは、奪われ続ける立場だった。

 程度は違えど、そのやるせない理不尽さは、痛いほど経験している。


 チカラが無いとは、悲しいことだ――つくづく俺は、そう思った。




 それ以上、この施設には見るべきものは無かった。

 地上に戻ると、聞こえてきたのは鳴り響く警鐘。

 どうやら俺が潜入したことがばれたらしい。研究所の周囲に、続々と集まってくるメアリス教の兵士。

 所詮しょせん、気絶させて凍らせた兵士を並べただけの杜撰ずさんな工作だ。こうなるのは時間の問題だっただろう。

 結局当初の、軍部のトップをどうにかして戦意喪失させようという計画は、元の木阿弥もくあみとなってしまった。


 まあ、いいさ。

 むしろ都合が良かった。

 今の俺は気が立っている。思いっきり暴れたい気分だったのだ。


 大丈夫。俺は冷静だ。

 此処ここに居る奴だけが、メアリス教国の全てというわけではないことは分かっている。こいつらを皆殺しにしたところで、メアリス教国の方針が変わるとは限らない。

 それに、むやみやたらに被害を拡大すると、政治的な意味で後々面倒臭い事態になるだろう……ってことも忘れていない。

 あまり考慮する意味は無いだろうが、やみくもに一般メアリス教徒のヘイトを稼ぐ必要はないのだ。


 そう。今日はあくまでも、一頭の迷い込んだ魔獣が暴れるだけ。

 その日にたまたま連合国も攻めて来るだけ。

 きちんと手加減はするつもりさ。


 第一だいいち、ここで衝動に任せて破壊と殺戮さつりくの限りを尽くしてしまったら、俺はこいつらと同じレベルに堕ちてしまう。そうだろう?

 自惚うぬぼれているわけじゃないが……そうなったらきっと、ソフィアは悲しむはずだ。


 でも、不死身の魔獣が全力で暴れるのだから――多少不幸な“事故”があっても、仕方ないよな?

「……覚悟しやがれ、クソ野郎ども!」

 俺は立ちはだかる兵士の群れに立ち向かって、怒りの咆哮を上げた。



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