夜も更けて

 夜もけて、俺はひとり自分の寝室に戻っていた。


 冒険者たちは明日の朝、ヘーリオス王国に向けて旅立つらしい。

 もちろん、ソフィアをともなってだ。それが俺と彼女の、今生の別れとなるだろう。


 自然と目に入るは安置されたガラスのケース。

 覆いかぶさっていた布きれを退けると、その中で咲き誇る一輪の紅いバラ。

 そのバラは暗い部屋の中で、淡い光を放っている。

 ただし、その花弁の数は目に見えて散っていた。

「……結構減っているな」

 今朝見た時はまだだいぶ残っていたように見えたが……俺の記憶違いでなければ何枚かは一気に散っている。

 その残された花弁の枚数は、片手で数えられる程度だった。


 この調子ならバラの花弁が全て散る日はそう遠くないだろう。

 そしてそれは、俺が完全なる不死を手に入れることを意味する。


 この冬に閉ざされた世界で過ごす、永遠の命。

 初めから俺が望んでいたもの。

 だから、この結末は、喜ぶべきものなのだ。


 自分以外誰もいない世界。

 この魔獣の肉体は、飢えることも、こごえることもなく。ゆえに強要されることもなく。

 もう誰にも、利用されず、奪われず、搾取されず、自分のためだけに生きていける――そんな、理想的な永遠。

 なのに、手に入る直前になって、それが味気ないものであるように思えてしまった。


 元々眠らなくても大丈夫だが、今日は特に寝る気になれない。

 窓の外を見ても、暗い景色。

 眠れない俺は静かに、ガラスのケースに閉ざされた紅いバラを眺めていた。




 ――ふと、ドアの向こうに他人の気配があることに気が付く。

 誰だ? 仮面ゴーレムか? 何かトラブルでもあったのだろうか?

 その気配の主は、廊下を歩いて近づいてくる。

 そして、俺の部屋の前で足を止めた。


 ドアの向こうに留まる気配。しかし、ノックの音はしない。

 なんだか知らないが、迷っているようだ。

「……どうした? 何か用か?」

 煮え切らない気配に、しびれを切らした俺は声を掛ける。

 すると、ドア越しに少女の声が聞こえてきた。

「あっ、魔獣さん……まだ、起きていらっしゃいますか?」

 ソフィアの声だ。

 こんな夜更けにめずらしい。いったい何の用だろうか?

「起きているぞ。何かあったか?」

 扉越しに俺は返答した。

「ああ、よかった。もし迷惑でなければ、お部屋にお邪魔しても、よろしいでしょうか?」

「……こんな夜遅くにか? あの冒険者たちに、明日は早いと聞いているが」

 言外で早く寝なさいと忠告する。

 しかし、ソフィアは頑なに立ち去る様子を見せない。

「どうしても眠れなくて……ほんの少しだけでいいのです。お話できませんか?」

 ソフィアは懇願こんがんするように言った。

 ……今ソフィアの顔を見てしまうと未練みれんが生じてしまいそうだが、彼女の意思は尊重したい。

 俺は再度バラに布をかぶせて隠したあと、ドアを開いてケープを羽織った寝間着姿の彼女を部屋に招き入れた。

「とりあえず、入れ。廊下は冷えるだろう」

「ありがとうございます」

 ソフィアは礼を言うと、そっと静かに部屋の中に入って来た。


 困ったことに、俺の部屋は廊下と変わらないくらいに寒かった。

 俺が寝床としている部屋に暖炉は無い。

 俺はソフィアを人間用のベッドの上に座らせ、毛布を貸し与える。そして俺はその隣……ベッドの上には乗れないので、床の上に座った。ついでに、近くにいた仮面ゴーレムには何か温かい飲み物を持ってくるよう頼んだ。


 ほのかなランタンの明かりの中、俺とソフィアは二人きり。

 静かな時間が流れる。

「……静かですね」

 ソフィアがぽつりと言った。

「ああ、そうだな」

 俺は答えた。

 もう少し気の利いたことが言えればよかったが……今の俺にはこれが精一杯だった。


 仮面ゴーレムが持ってきた二人分のホットミルク。そのマグカップからは、温かそうな湯気が昇っていた。

 これで少しはましになればいいのだが。

「寒くないか?」

 俺が問い掛けると、ホットミルクを飲みながら、ソフィアはこくんとうなずいた。




 窓の外から差し込む、優しい月明かり。

 雪雲の隙間から顔をのぞかせる。


 月明かりを反射するソフィアの白い髪は、しっとりと艶やかに、そして女の子特有の甘い香りを放つ。

 アッシュグレーの瞳がうれいを帯びているのは、俺との別れを惜しんでくれているからなのだろうか。

 ただ座っているだけなのに、上品で、おしとやかで、そして柔らかそうで、どこかはかなくて。


 大きく巻いたヤギのツノと、美しい少女の横顔。

 神聖さと魔性が織りなす、アンバランスな美しさ。


 見慣れていなければ、俺は何時いつまでも彼女の姿に見惚みとれていたことだろう。


「それで……何か話したいことがあったのではないか?」

 俺が尋ねると、ソフィアは俺のほうへ振り向いた。

「用事は、特にないのです。でも、今夜が最後ですから……」

「……そうか」

 そして再び訪れる沈黙。

 しかし、こうして一緒に居られるだけで、その時間がとても貴重なものに思えた。


 それならばせめて、いつも通り振る舞おう。

 そう思った俺は話す内容を考える。

「そうだ。そう言えば、今日はあの魔術師に新しい物語を聞いたのだった」

「新しいお話ですか?」

「ああ、確か題名タイトルは……『季節の王様たち』だったな。ソフィアは知っているか?」

 ソフィアは少し、困ったように微笑んだ。

「はい、すみません……そのお話なら、知っています」

「おっと、マイナーな話だと聞いていたが、知っていたのか」

 さっそく、話のネタがなくなってしまったな。


 さて、どうやって話を続けようか。そう考えていると、ソフィアが尋ねてくる。

「魔獣さんは、どうしてそのお話を?」

「いや、あの魔術師のジーノとやらが言うにはな、俺が『冬の王』なのかもしれないのだと」

「魔獣さんが、冬の王……?」

 可愛らしく、首を傾げるソフィア。

「冬に呪われた地の、冬の城。そこに住む魔獣の王――冬の王様と呼ばれるのに相応しいのだそうだ。まあ、有り得ない話じゃないかもな」

「……魔獣さんが冬の王だなんて、そんなことは、絶対にありえません」

 俺が冗談めかして言うと、ソフィアは、はっきりと断言した。


「それは、どういうことだ? ソフィアは何か知っているのか?」

 ソフィアは静かに、首を横に振る。

「いいえ。でも、その童謡では、春の女王は心優しくあたたかで、夏の王は情熱的、そして秋の女王は豊かな心だとうたわれています。だから、冬の王は、きっと、冷たい心の持ち主のはず。魔獣さんも、そうは思いませんか?」


 春は暖かいから、春の女王の心も温かい。

 夏は暑いから、夏の王の心も情熱的。

 秋は実りの季節だから、秋の女王の心も豊かである。

 そして冬は寒いから――冬の王は心も冷たい。


 どれも勝手なイメージだが、なんとなく合っている気がする。

「なるほど。理屈は通っている気がするな」

「ならば、魔獣さんが、冬の王様になることは、絶対に無いと思います。だって、魔獣さんは優しくて……心は冷たくなんかありませんから!」

 ソフィアは俺に信頼を寄せた笑みを浮かべながら言った。

 その信頼は、俺に向けられるには少々眩しすぎるように思えたが、ソフィアからの想いなら、いくらでも受け止めたかった。


 はたして、ソフィアの俺に対するその信頼は、どこから来ているのだろう?

 しかし、俺は思い出す。

 そもそも、俺がこの城に連れてこられた理由は――。


「……俺は、ちっとも優しくなんかないさ。強いて言えば、優柔不断なだけだ」

 周囲の人間に流されることを、優しいとは言わない。

 強いて言えば、“都合の”良い人だ。


 そしてれて、いい加減疲れて、心を閉ざしたのがかつての俺だった。

 魔獣でない本当の俺なんて、浅ましくて醜い、ありふれた人間の一人にすぎない。


「いいえ。魔獣さんは、とても優しいお方です。行く当てのないわたしを、この冬の城に受け入れて下さいました」

「あれは……ただの成り行きだよ」

 初めから魔女に押し付けて、あわよくば追い出すつもりだった。

 なんだ。やっぱり、優しさなんてカケラもないじゃないか。


「他にも、わたしのツノを癒すため、ヒュドラを倒すと言ってくださいました」

「あれは……あれこそ本当に口で言っただけじゃないか」

 結局俺は、何もしていない。


「ディオン司祭を救うため、メアリス教国に立ち向かおうとしてくださいました」

「それも、俺はこの冬に呪われた地から出られず、何もできなかった」

 最終的にディオン司祭を助けてくれたのは放浪の魔女だ。

 もう全部あの魔女でいいんじゃないか?


「……でも、あの時は、本当に嬉しかったのですよ?」

 ソフィアは卑屈で自虐的な俺に、いつくしむような優しい笑みを向けた。


「それだけではありません。わたしがさびしくないように、なるべく一緒に居てくれました。素敵なお話を聞かせてくれました。素敵な場所に連れて行ってくれました。素敵な世界を見せてくれました……」

 ソフィアはそっと俺のたてがみを撫でる。

 そのか細い指は、たてがみ越しでも確かに感じられるほど、優しくて、温かかった。


「わたし、ずっと考えていたのです。魔獣さんが、この冬の世界に閉じ込められた理由を」

「俺が、閉じ込められた理由?」

「……お気付きになっていますか? 魔獣さんの体、初めて会った時より大きくなっています」

 知っている。

 だって、ある程度は俺の意思で変化させたのだ。

 何度も進化を繰り返したこの魔獣の肉体。

 かつての弱い自分を否定し続けて、ようやく形になってきた。

 そして皮肉にも、今や俺の身体は大きくなりすぎて、ソフィアが腰掛けるベッドの上に乗ることすらできない。

「わたしは思ったのです。もしも、わたしがこの城を訪れることがなければ、今も魔獣さんは、この冬に閉ざされた静かな秘境で、自由気ままに過ごしていたのではないかと」

 それは否定できなかった。

 この冬の城に閉じ込められた当初は、俺もそう思っていたのだから。

「でも私がここに来てしまったから、魔獣さんは外の世界の闇に触れて、それと戦うための力を手に入れて……わたしのせいで、わたしがここに来なければ、何もかもが平和だったのではないかって」

「……そうかもしれないな」

 俺は静かに肯定した。


「確かに初めは、ソフィアのことを鬱陶しいと思っていた。俺の静かな時間を返せとも思っていた」

 俺は、当時を思い出しながら告白する。

 懐かしい。今となっては、どうしてそんなことを考えていたのか分からない。

「ええっ!? そんなことを思っていらしたのですか?」

 その内容に、ソフィアはややショックを受けたような声を出す。

 しかし、その表情すらも今は、愛おしいと思える自分がいたことに気が付いた。

「だが、最近思うようになったのだ。この冬の世界にひとりきりなのは、さびしいと……今はソフィアと出会えて、よかったと思っている」

 俺が語り終えると、ソフィアは押し黙ってしまった。


 ……もしかして、余計なひと言で彼女を傷付けてしまったのではないだろうか?

 そう心配していると、ソフィアがそっと口を開く。

「魔獣さんは、わたしが居れば、嬉しいですか?」

 その可憐な唇は、言葉を紡いだ。


「……そこまで言ってはいないが、まあ、な。否定はしないさ」

 俺は照れ臭い気持ちを抑えて、遠まわしに肯定した。


「でも、わたしは、明日の朝にはこのお城を出て行きます。魔獣さんは、わたしが居なくても……平気ですか?」


 引き止めたい誘惑が俺を襲うが、ぐっとこらえる。

「……今までずっと一人だった。元に戻るだけさ。何も心配は要らない」


 俺のその言葉を聞いて、ソフィアはうつむいた。

「魔獣さんは、強いですね。わたしは……本当のことを言うと、外の世界に戻ることが恐ろしいのです」

 ソフィアが弱音をいた。

 彼女が人前でそんな姿を見せるのは、俺が知る限り初めてのことだった。


「ソフィア……?」

 少女が初めて見せた弱さ。

 彼女のただならない様子に、俺は心配する。

「どんなに幸せな日々でも、外の世界では強者の気まぐれによってうしなわれてしまいます。いくら表向きは綺麗に取りつくろった世界でも、気付かぬうちに這い寄る底なしの欲望と悪意は、容赦なく小さな幸せも奪っていくのです」

 俺を撫でるソフィアの細い指が、ぎゅっとたてがみを握る。

 二度も故郷を、全てを奪われた彼女の言葉には重みがあった。


「でも、王家の血を引くものとして、たみが失ったものを取り戻さないと……わたしは弱いのに、そんな重圧が、苦しいくらいに突き刺さって、息苦しくなって、おぼれてしまいそうになりました」

 ソフィアは内心を吐露とろし続ける。

 その苦しみは、俺にも伝わってきた。


「でも、そんなある日、魔獣さんは、わたしのために立ち上がってくださいました。ディオン司祭を助けに行こうと言ってくださった、あの日のことです」

 少女の独白は続く。

 俺はただ、黙って聞いていた。 


「魔獣さんが得られるものは、何ひとつ無いはずなのに。あの黒騎士に殺されるかもしれないのに……永遠の命を、わたしのために賭けてくださいました。あの無償の善意に、わたしの心は救われました」

 ……そうか。

 あの間抜けな茶番を、ソフィアはそんなふうに思ってくれていたのか。

 黒騎士に切り刻まれて、黒い炎に焼かれた俺。それを治療した彼女だからこそ、思うところがあったのかもしれない。

 場違いだが、なんだか少し報われたような気がする。


「だから、わたしもそれに、応えたいと思います。貴方が望むなら、全てを捧げる覚悟もあります」

 その言葉にぎょっとして振り向くと、涙をめたソフィアの顔が、真剣な眼差しで俺を見ていた。


 ソフィアの身体がゆっくりと近づいてくる。

 まるで愛しい人にしなだれ掛かるように、すがりつくように。

 彼女の体温が、鼓動が、じかに感じられる。


「こんなことを考えていてはいけないと分かっているのです。でも、これからのことを思うと、どうしても不安が、恐怖が、止めどなくあふれて――」


 その声音は、弱々しくも、はっきりとしていて。


「――魔獣さん。わたしはもう、外の世界で生きるのが怖い……魔獣さんのいない世界が、怖いのです」


 そして、ソフィアはとうとう、決して口にしてはいけない言葉を言ってしまった。



「もしも、わたしが望んだら……魔獣さんは、わたしを、このお城に閉じ込めてくれますか?」



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