蒼シカ肉のパイ包み焼き

 結局、俺は再度狩りに行く気が起きなくて、独りで魔力操作の特訓を続けていた。

 そうしているうちに日が暮れる。

 太陽が地平線の向こうに消えた頃、厨房の扉が開いた。


「魔獣様、夕飯の支度したくができましたよ」

 厨房の裏口から、エプロン姿のソフィア姫が姿を現した。


 ちなみに、装飾を外したソフィア姫の修道服は地味な紺色でロングのワンピースである。

 その上から白いフリルのエプロンをつけていると、まるでメイド服みたいだ。


 豊満なのに腰の細いシルエット。それをふわりと柔らかく包み込む、紺色と白いフリルのコントラスト。

 その可憐な姿に、不覚にもドキッとしてしまった。


 そう言えば、フリルのエプロンなんて、どこから調達したんだろうな。

 魔女が持ってきたのだろうか?


「あの、魔獣様……?」

 アッシュグレーの瞳が、おずおずと俺の顔を覗き込む。

 白く長い睫毛まつげが、悩ましげにまばたきした。


「……ああ、了解した。すぐに行こう」

 いけない。どうやら見蕩みとれ過ぎていたようだ。これ以上、ソフィア姫を待たせるわけにはいかない。

 俺は魔力操作の練習を切り上げた。


 自然と俺も夕食を食べる流れになっているが、ここにきて断るのも野暮やぼだろう。

 それに朝の掃除や朝食の件について、そして今からの夕食に対して、ソフィア姫に感謝の言葉を伝える機会が欲しかった。

 だから、この晩餐会は都合がよかったのだ。

 今の俺では仕事に対する報酬もままならないが……せめて善意に対しては、誠実な態度で報いなければならないと思っていた。




 裏口から食堂に入ると、仮面ゴーレムたちが食事の皿を運んでいた。

「今宵の晩餐ばんさんは期待してよいぞ」

 魔女が得意気に言った。


 どうも今日の食事は魔女とソフィア姫の二人で作ったらしい。

 魔女も一緒に作ったというのが、少し意外だった。

 まあ、昨日は散々だったからな。逆にあれ以下というのは、なかなかありえないだろう。


「そうか。じゃあ、期待させてもらうさ」

 俺は仮面ゴーレムたちによって皿や食器が並べられた席に着いた。


 それにしても……女の子の手作りか。

 朝食もそうだったが、ソフィア姫みたいな可愛い子にご飯を作ってもらえるなんて、いつの間にか俺も、いい御身分となったものである。

 美少女の手料理なんて、人間だった頃はついぞ食べられる機会はなかったのに……そう考えると、なかなかに皮肉なものだ。


 魔女とソフィア姫はすでに着席している。

 エプロンを脱いだソフィア姫は修道女らしく、食前の祈りを捧げていた。


 不意に俺のグラスに注がれる淡い赤色の液体。

 振り返れば仮面ゴーレムが濃緑色のボトルから酒を注いでいた。

「ドロシー様が持ってきて下さった葡萄酒だそうです」

 ソフィア姫が説明してくれた……いや、通訳してくれたのか?

「へ、へえ。そうなのか……」

 多少は慣れたが、いつの間にか横に居られるとびっくりするな。

 なにより外見が不気味だし。

 仮面ゴーレムは三人分の葡萄酒を注ぎ終わると、ウェイターを気取っているのか、一丁前にお辞儀して下がっていった。


 今晩のメニューはポトフのような野菜スープに、バケットみたいなパン、そして何かのパイ包み焼きだった。

「そのパイ包みはの、ソフィーが作ったんじゃよ」

 魔女がこっそり教えてくれた。

 お姫様って家事は使用人任せで料理なんて全然できないイメージだったが、修道女として過ごしたソフィア姫は違うようだ。


 いや、でも、ディ○ニー作品の白雪姫だと、主人公のお姫様がイチゴのパイを焼いていたな。

 もしかすると、王族が料理できるのは、意外と普通なことなのかもしれない。


「そうなのか。では、早速いただくとしよう」

 キツネ色に焼けた表面にナイフを入れると、サクッと小気味良い音がした。

 割れた中からふわっと広がるバターの良い香りが鼻孔をくすぐる。


 パイ生地の層の間には、程よい焼き加減の色をしたジューシーな挽肉がたっぷりと入っていた。

 それには魔力も豊富に含まれていて、正体が蒼シカの肉であることが分かる。


 あまりにも美味しそうだ。

 俺の身体は食事を必要としないはずなのに、つい食欲が湧く。

 食べたい。五感が本能的な衝動に訴えかけてくる。

 パイなんてコンビニの菓子パンくらいでしか食べたことがなかったが、本格的なものはここまで音や香りが素晴らしい料理になるのか。


 さて、見た目で楽しむのはここまでだ。いよいよ実食である。

 ナイフで一口大に切り取って口に入れた。


 すると、美味しさがサクッ、ふわっ、ジュワッと口の中に広がった。

 食感がサクサクッとして、香りがふわぁっとして、旨味がジュワァッである。


 語彙ごい力がなさ過ぎてたいへんなことになっているが、とにかく美味しいのである。

 もはや美味しいの一言だ。


 ……分かっていたことだが、俺にはグルメ漫画の審査員のような、味を品評したり感動を伝える才能はないらしい。


「どうやら、気に入ったようじゃのう」

 知らず知らずのうちにがっついていた俺。魔女は微笑ましいものを見るような目をしながら言った。

「……ああ、美味い」

 俺は変にひねくれたことは口にせず、素直に感想を言った。


「お口に合って、よかったです」

 ソフィア姫が嬉しそうに、にっこりと笑う。

 白い毛の生えた彼女の耳が、心なしか前側へ倒れているように見えた。


 こう言うと大げさかもしれないが、決してお世辞ではない。

 実際、この蒼シカ肉のパイ包みは、俺が今まで食べてきたものの中でも最高に美味かった。




 とても満足のいく晩餐だった。食べ終わった皿を、仮面ゴーレムたちが下げていく。

 ……伝えるなら今だな。

 食事を終えた今が、ちょうど良いタイミングだと思った。


 朝食の時、魔女と話した内容を俺は覚えていた。

 これだけ素敵な気分を味わわせてもらったのだから、俺は礼を言わなければならない。

「あー、少しいいか?」

 俺はソフィア姫に呼びかけた。

 面と向かって言うのは気恥ずかしかったが、彼女の善意に報いるために、なによりもまず礼を言わなければいけないと思っていた。


「ソフィア姫よ……美味い食事、ありがとう……朝のことも含めて、感謝する」

 彼女は一瞬驚いたような表情をした後、すぐ嬉しそうな笑顔を見せた。


 俺のコミュニケーション能力は業務や事務的なことの伝達に特化している。

 むしろ逆に、俺が取れるコミュニケーションなんて、淡々とした報告・連絡・相談だけだ。しかも、それだって完璧なわけではない。

 事務的な連絡でさえこれなのだ。ましてや女の子を喜ばせるような小粋なトークなど、一切できる気がしない。

 つまり、なんと言うか……こんな思いを伝えるのには慣れていなかった。


 目に見える成果と対価を交換し合う、ドライな関係ならずっと楽だったのに。人間関係について不器用な俺は、たった一言の感謝を伝えるために、意外と勇気が必要だった。

 そうでなくても元の世界だと、女性に声をかけようものなら……それだけで、セクハラ呼ばわりからの通報案件だからな。世知辛い。


 さて、これで俺の気持ちは伝わっただろうか。

 これは純粋な感謝の気持ち。上下関係や利益の伴う無機質な挨拶ではなく、本当の気持ちを伝えるための言葉。

 変な表現だが、俺には自信がなかった。

 相変わらずソフィア姫はニコニコと幸せそうな笑みを浮かべている。

「……どうした?」

 俺は不安になって尋ねた。

 ソフィア姫は笑みを浮かべたまま答えた。

「いえ、お粗末様です」

 その表情は、とても魅力的だった。


 ……これで、いいんだよな?

 ソフィア姫の笑顔を信じるならば、俺の感謝の気持ちは、ちゃんと伝わったはずだ。

 とはいえ、もちろんお礼を言っただけで終わらせるつもりなどさらさらない。

 俺は何か形ある物か行動でも、善意を返したいと思っていた。

「そうだ。もし俺に何かできることがあったら、遠慮なく言ってくれ。それが礼になるなら、なんだってしよう」

 俺がソフィア姫に尋ねると、彼女は少し考えてから口を開いた。


「……では、魔獣様。ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」

「おう。なんだ?」

 ソフィア姫ははにかむような仕草を見せた。

「できれば、わたしのことはソフィーって呼んでもらえないでしょうか……あ、いえ、ソフィアでもいのですけれど……ずっと修道女シスターとして過ごしてきたので、お姫様扱いされると、どうしても違和感があって……」

 照れながらそうお願いするソフィア姫は、とてもいじらしかった。


「……そうか、その程度で良いなら、お安い御用だ――ならば俺だって、別に様付けで呼ばれるほど大した存在ではない。もう少し気軽に呼んでくれて構わない」

 俺がソフィア姫を呼び捨てしているのに、ソフィア姫に俺を様付けで呼ばせるわけにはいかないからな。

 ……いや待て? でも魔獣って呼ぶのもおかしな話だな……?

 適当な名前でも考えるべきだろうか。

「では、これからは魔獣さんと呼ばせて頂きます。これからも、よろしくお願いしますね?」

 ソフィア姫は微笑んだ。


 え? それでいいのか?

 通訳魔法で日本語翻訳されると、「人間さん」と呼ばれているような違和感がある。


 だが、そういえば、美女と野獣の映画でも、作中で主人公は『ビースト』と呼ばれていたな。

 それと同じような感覚なのだろうか。


「……まあ、いっか、それで。こちらこそ、今後ともヨロシク」

 俺はそう呼ばれることを了承した。

 ソフィア姫……いや、ソフィアとの絆が深まった気がする……。


 とはいえ、ソフィアが俺にくれたものと俺がソフィアにしてあげたことの間では、明らかにバランスが取れていなかった。

 浅はかで、心が狭く、貧しい俺。

 心の底から善意が信じられなくなってしまった俺はつい、貸し借りとか報酬とか対価とか、そんなことばかり意識してしまう。


 だが、急に変わるのは無理だから。今はまだこれでいい。

 気になるならば、魔女の言う通り、何か別の形で返せればいいのだ。

 いつか本当に、なんらかの形でソフィアに報いられればいいなと思った。




「ところで……儂は?」

 俺たちの成り行きを静かに黙って見守っていた魔女が口を開いた。

「ん? どうしたんだ、魔女?」

「だから、儂にもなにか言うことがあるじゃろう?」

「そうですよ。ドロシー様も、お手伝いしてくださったのですから」

 ソフィアも魔女を援護した。


 魔女は得意気な顔で、無い胸を張っている。

 まるで、褒められるのを待っている子供のようだ。もしかしたら、「まるで」ではなく実際にそうなのかもしれない。

 ……いったい何歳児のつもりだ、この魔女ロリババアは?


「なんか……そのドヤ顔見てると、言いたくなくなるなあ」

 俺は軽い意地悪を言った。

 本当は少しだけ感謝していたが、ここであっさりそれを明かすのはしゃくだった。


「まあ、せっかくだし。一応は、感謝しておいてやる」

「なんじゃ、その言い草は――!!」

 魔女は怒った。怒ったのだが、心の機敏に疎い俺でも、彼女が本気では怒っていないことが分かった。


 そんなじゃれ合いを見て、ソフィアは笑っていた。

 魔女も怒るフリを続けていたが、隠すつもりもないのだろう、顔は完全に笑っていた。

 そして、そんな空気の中、俺もまた、いつの間にか笑っていた。


 * * *


 誰かと一緒に過ごすのは、とても疲れることだ。

 誰かを思いやることも、逆に上辺だけで気遣われることもわずらわしい。

 いつの間にか俺は、そんなことばかり思うようになっていた。


 だが、こんな楽しい気分になれるなら、誰かと一緒に過ごす時間も悪くないと思えてくる。

 未だ誰かと食事を共にするのは慣れないが。

 でも、もう少しだけ、こんな日々が続くのも悪くないと思っていた。


 こうして、冬に閉ざされた城の平穏な一日は終わっていった。




 ――俺は未来のことなんて、何も考えていなかった。

 少し考えれば、こんな日々が長続きするわけがないと、簡単に失われるものだと理解できたはずなのに。

 それなのに俺は、この温かさに居心地の良さを覚えてしまったのだ。


 紅いバラが散る。

 その花弁が、また一枚。

 審判の日は静かに、だが確実に近づいている。


 無力な人間としてみじめに死ぬのか、恐ろしい魔獣として孤独に生きるのか。

 運命は二つに一つ。


 力なき正義では何も成しえない。優しさだけの愛では何も得られない。

 星のかたる未来を、この時の俺はまだ知らない。


 でも本当は、星の導きなんて関係なく、とっくに俺は知っているはずだった。


 元からこの物語に、ハッピーエンドなんか有り得ないことを。



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