雪と炎に沈む王国(上)

 憤怒と憎悪と、仄暗ほのぐらよろこびにとらわれた魔獣。

 その咆哮よびごえに呼応して、轟々ごうごうと風が鳴る。ヒュウヒュウと無数の氷のやいばが大気を切り裂く。


 ネナトの町を襲う局地的な異常気象。

 かつて魔獣が“吹雪の結界”としょうしたそれは、今や町一つ……その気になれば国一つを丸呑みにすることすら可能だった。


 風に舞う氷の刃は、冷たい殺意にするどさを増す。

 もはや近づく者を威嚇いかくするための、臆病なヤマアラシの針ではないのだ。

 それらは執念深く獲物を追い立て、周囲の壁や石畳ごと巻きえにほふっていく――まるで、意志を持った猟犬のように。


 とはいえ、ある程度はきちんと相手を選別している。なにも無差別に虐殺ぎゃくさつをかましているわけではない。

 雪と氷に閉ざされれば、其処そこは全て彼の王国。

 世界を管理する側の立場となった冬の魔獣。

 つまり、信仰を受けるべき存在となった今の彼には、おのれの支配する王国に紛れ込んだ異教徒てきの気配が簡単に把握できた。


 滅ぼすべきは、片翼の女神をまつたみ

 あるいは信仰すべき精霊かみを乗り換えた、バフォメット族の裏切り者たち。

 冬の魔獣に問われれば、精霊たちが声なき声で、偽りの女神を信仰する愚かな人間どもの居場所をささやいてくれる。


 思案にふける魔獣がたたずんでいるのは、いくつもの通りが交差する円形の広場。

 かつていこいをもたらした噴水は凍りつき、代わりに雪と兵士のしかばねが折り重なって足元を埋め尽くす。

「……なるほどな。こういった使い方もできるのか」

 その中央で魔獣は天に腕を伸ばし、冷たい風の流れにれながら――例えるなら、生まれたての赤子が手足の動かし方を学ぶように、新たなる王は自身の在るべき姿を理解し始めていた。


 この雪と氷の世界において、全ての自然現象せいれいが彼の味方だ。

 冬の世界がの王の縄張りであり、冬そのものが彼自身でもある。

 すなわち、魔獣の意思は冬の意思だ。


 そして、冬は死の季節。

 狙われた獲物は、絶対にのがれられない。


 露骨に恣意しい的、そして無限に降り注ぐ、凍てついたつるぎの吹雪。

 その怒りは魔獣ふゆ精霊魔法しぜんげんしょうとして、メアリス教国の兵士たちに猛威もういを振るう。


 兵士たちの中には、少なからずそれをしのげる猛者もさも存在したが……そんな彼らの前には狂える魔獣が姿を現し、その爪と牙で直々じきじきに死の裁きを下していくだろう。


 レヴィオール王国における“戦争”は、すでに終わっていた。

 今現在行なわれているのは、冬の魔獣という強者おうじゃによる、メアリス教徒の粛清しゅくせいである。

 それは魔獣にとって、文字通りしらみつぶしのような作業で、今となってはただの憂さ晴らしだった。


 だが、いつまでも雑魚とたわむれている時間はない。

 もうすぐそこまでソフィアが連合軍を引き連れて来ているはずだ。それまでに終わらせて、この地を去らなければ……。


 ――ふと思い出す、記憶の中で一番幸せだった日々。


 心優しい少女の、いとしい笑顔。


 それは最後の花弁がせた、美しく残酷なまぼろし


 かつて魔獣は、ソフィアの未来を想って決別の道を選んだ。だからこそ、合わせる顔が無いと思っていた。

 それなのに、おのれの欲望に忠実になった魔獣は、ソフィアにもう一度いたいと願ってしまった。


「……そうだ、故郷を取り返したんだ。ソフィアはきっと、喜んでくれる!」


 返り血にまみれた魔獣は、良い事を思いついたとばかりに、口元をにやりとゆがめて牙をく。


 他人を思いやる心の大半を失って、残すはバラの花弁一枚分の欠片。それ以外の全てがドス黒い感情に汚染された胸の中。

 その中で唯一輝いている、最後の心のり所。

 魔獣がまばゆい光にき寄せられるのは、もはや自然の摂理だった。


「だが、このまま会っても片手落ちだな……せめて王都を、城を完璧に取り戻してからでないと」

 だって、ソフィアはこの国のお姫様なのだから。


 そのひとがりなプレゼント作戦は、今の魔獣にとって、とても素敵なアイデアに思えた。


 魔獣は鼻歌交じりで、彼女の故郷にしかばねの山を積み上げていく。

 まるで主人に気に入られたい飼いネコが、せっせとネズミの死骸しがいささげるように。


 そこに在ったのは、純粋な善意と好意だった。


 彼の思惑が実現されれば、間違いなく運命ひげき的な再会となるだろう。


 * * *


 時間の経過とともに、災厄の被害は拡大していく。

 凍てついたつるぎの吹雪は勢力を強めながら、徐々にレヴィオール全土へと広がっていった。


 場所は変わって、そこはネナトの町から僅かに北西、広大な湖の北側。

 かつてレヴィオールの王都とされていた町。


 戦う兵士たちの声は、もうすでに聞こえない。

 ただ静かに、終焉のシナリオをなぞるように、一つの国が雪と氷に沈んでいく。


 不幸なメアリス教徒たち。

 彼らがこの無慈悲な空模様から逃れるためには、丈夫な石造りの建物に引きもるしかなかった。

 さもなくば、女子供とて容赦なく、氷のやいばつんざかれる。


 これは、この地につかわされた枢機卿すうききょうであろうとも例外ではない。

(なにが……いったい何が起きている。どうしてこうなった!?)

 ブタのように肥えた枢機卿すうききょうは、一番頑丈そうな王の寝室でガタガタと無様に震えていた。


 その建造物はレヴィオール王国の元王城である。

 もっとも高貴な者が住んでいただけあって、この付近では間違いなく一番丈夫な建物だ。


 メアリス教国が占拠してからは要人の宿泊施設として利用されていた。そして、その中で最も良い部屋を割り当てられたのがこの枢機卿すうききょうであった。

 暗い部屋の中、明かりも灯さず、豪華なベッドの上でおびえるそのさま

 まさに、裸の王様である。


(クソ、クソッ! なんで由緒正しき枢機卿すうききょうたる吾輩がこんな目に……あの無能な兵士共は、大佐は何をしている!?)

 悪徳領主か、あるいは悪代官のような外見であるその男。彼は心中で理不尽な怒りに悪態をきまくっていた。


 しかし、ふざけた態度だが頼りになった中年大佐はもう居ない。

 彼はすでに、真っ二つに裂かれて死んでいたからだ。

 ついでに言えば、その事実を彼はまだ知らなかった。


 氷のやいばの侵入を防ぐため、高級な家具や調度品を惜しみなく使ってふさがせた窓。

 そこから外を垣間見ることはできないが、今この瞬間にも凶暴な冷たい殺意が叩きつけられる音が聞こてきた。


 そしてまた、バキッと破壊音がひびく。

 正体は窓を塞ぐ家具の木材が割れる音だ。外から飛来した氷の塊が突き刺さったのだろう。

 このままでは、塞いだ窓が突破されるのも時間の問題かもしれない。


 こんなものが、自然現象なわけがない。明らかに何者かが行使した魔術だ。

 ましてや天候操作ともなれば、行使したのは並の術者ではあるまい。

 そう言えば、何人もの魔女たちが連合国側に味方したとのうわさがあったが、まさか……!

 枢機卿すうききょうは闇の中に、自分を滅ぼしに来る魔女たち姿を幻視する。ちなみにその姿は、彼の勝手な想像でなかば化け物のような姿となっていた。


「クソッ! どいつもこいつも役立たずが! なぜよりにもよって吾輩が! 貧乏人どもめ、吾輩は上級聖民なのだぞ!? 死ぬなら貧乏人同士で勝手に死ね!!」


 生まれて初めて味わう、財力も権力も意味をなさない状況。今日までは安全圏から他人をおとしめてばかりだった彼の人生に、こんな危機はかつて無かった。


 それなのに一転して、何か恐ろしい人智を超えた存在に命を狙われる恐怖。

 その恐怖に耐え切れない枢機卿すうききょうは、支離滅裂な戯言たわごとを気持ち悪いうめき声でほざいていた。


 しかしそれも長くは続かない。

 突然ぞくりと、寒気がしたからだ。

 それは欲望と贅肉ぜいにくたるんだ枢機卿すうききょうですら感じられる圧倒的な気配だった。


 何かが近付いてくる。誰だ?

 枢機卿すうききょう震えながら必死で声を殺す。

 見張りの兵士ではない。人間の兵士が、こんな恐ろしい気配を振りまくはずがない!


 寒気が止まらない。

 体の震えが大きくなってくる。

 そして吐いた息も白くまり始める。錯覚ではない、本当に部屋の温度が下がり始めているのだ!


 どんどん冷えていく部屋の中。

 聞こえて来る、大きな生物の足音。

 その気配が近付くごとに徐々に部屋が凍りつき、扉と床の隙間から這うようにしもが伸びて来る。


 そしてついに、乱暴すぎるノックをって扉は破壊された。飛び散る木片と壁の欠片が枢機卿すうききょうに襲い掛かる。

 ばらかれた残骸を踏み潰しながら入って来たのは、冬の化身のような、雪と氷をまとう深い藍色の毛皮の魔獣だった。



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