第57話:春野日向は名前を書く

 俺が焙煎し終わった後、続いて日向の番になった。俺がしたのと同じように、日向が蓋付きのフライパンにコーヒー豆を入れて炙り始めた。

 俺が煎った豆は小皿に入れて、横に置いて冷ましてある。


 日向はしばらく豆をコンロの火で炙って、フライパンを覗き込むようにして色を確認する。


「私は浅煎りだから、これくらいでいいかな?」

「あ、そうだな。いいんじゃないか」


 たまたま俺たちの横を通りがかったインストラクターもフライパンの豆を覗き込んで「いいと思いますよー」と言ってくれた。


 日向は何の問題も失敗もなく、綺麗にコーヒー豆の焙煎を終えた。豆を冷ました後に、小さなビニール袋にそれぞれ入れるようにインストラクターが指示をする。

 そしてシール状になってる小さな紙を渡されて、そこに今日の日付と名前を書くようにインストラクターが説明した。


「私が先に書いていい?」


 ペンが一本しかないから、日向は遠慮がちに聞いてきた。俺が「うん、いいよ」と答えると、日向は早速マジックペンを握って、調理台に向かって今日の日付と名前を記入する。


 ──ん? なぜか『ひなた』と平仮名で書いている。


「ついでに祐也君の分も書いてあげよっか?」


 名前を書き終えた日向は顔を上げて俺に訊いてきたから、「うん」と答えた。

 すると日向は、俺の名前まで『ゆうや』と平仮名で書いている。


「できたっ! 完成ー! はい。コレ祐也君のシール」

「お、おう。ありがとう」


 日向は紙の裏の剥離紙を剥がして、コーヒー豆を入れた小さなビニール袋の表に貼っている。俺も同じようにシールを貼った。


 俺の分と日向の分。二人分のコーヒー豆入り袋を並べて調理台の上に置いた。


「へへへ。いい感じ!」


 日向は調理台の上に並んだコーヒー豆を、とても嬉しそうに目を細めて眺めている。


「あのさ、日向。なんで平仮名?」

「えっ? あっ……しまった! 実は私、自分の名前を平仮名で『ひ・な・た』って書くのが好きなの。なんか可愛いでしょ?」

「あ、ああ。そうだな」


 コーヒー豆の袋に書かれた『ひなた』っていう字は確かに可愛い。


「それでついつい祐也君の分も、平仮名で書いちゃった。ごめんね。小学生みたいで嫌?」


 そんなふうに聞かれても、まさか嫌だとは言いにくい。まあ実際にはどっちでもいいし、確かに日向が言うように可愛く見えないこともない。


「あ、いやいや。これで大丈夫だ。俺の名前も、平仮名だと案外可愛いし」

「そうだね」


 日向はそう言いながら、改めて二人の豆を眺める。


「うん、そうだね! 祐也君の分も、平仮名で可愛い感じがする。それになんだかお揃いみたいでいいね!」


 コーヒー豆の袋に書かれた『ひなた』の文字と『ゆうや』の文字。確かにお揃いのような感じがする。まるでカップルの持ち物のようだ。

 それを見つめる日向の顔には、満面の笑みが浮かんでいる。

 いや、もうこれ以上ないくらい、ニッコニコの笑顔。すごく可愛い。


「はい、それでは焙煎体験は終了でーす。焙煎した豆は、各自お持ち帰りくださーい」


 インストラクターがそう言ったので、日向は「えっ?」と驚いたような顔をした。


「ここでコーヒーを飲むのじゃないんですか?」

「ええ。その豆は持ち帰ってもらって、おウチで飲んでください。コーヒー豆は焙煎直後よりも、3,4日から一週間くらい熟成した方が美味しくなりますよ」

「あ、そうなんですか……」


 日向はかなりがっかりした様子だ。自分が焙煎したコーヒーを、今すぐ飲めると思って楽しみにしていたようだ。


「そうなんだよ日向。また今度、家で飲みなよ」

「だってウチにはコーヒー豆を挽く道具なんかないし……」

「あ、じゃあ日向の豆も、ウチに置いとくよ。ウチならコーヒーミルもあるし、料理教室が終わった後で一緒に飲もう。今すぐコーヒーを飲めないのは残念だけど、またの楽しみにしとこうよ」

「あ、そうだね。うん、それがいい! ありがとう祐也君」


 日向は嬉しそうに微笑んだ。日向が悲しそうな顔をすると、なんだか俺まで悲しくなりそうだから、笑顔になってくれて良かった。

 それに『ひなた』って書かれたモノがウチに置いてあるなんて……なんだか嬉しい気がする。


「じゃあコーヒー博物館を見に行こうか」

「うん」


 教室を出ようと歩き始めると、他のお客さんである大学生らしきカップルの女性が、俺の横を歩く日向に声を掛けてきた。


「君たち高校生?」

「あ、はい。そうです」

「そっか。初々しくていいねー」

「あ……はい」

「それにしても彼女、めちゃくちゃ可愛いね。びっくりするくらい可愛い」

「えっ? あ、ありがとうございます。お姉さんこそ、凄く美人で……」


 その女性はパーマを掛けたロングヘアで、すらっと背が高くてお洒落な感じの美人だ。

 そんな美人のお姉さんにびっくりするくらい可愛いって言われて、さすがに日向もかなり照れ臭そうにしている。


「でも君達、お似合いのカップルだね」

「えっ?」

「じゃあね。バイバイ!」


 お姉さんはきょとんとする日向にそう言い残して、彼氏と一緒に足早に歩いて行った。

 

 ──日向とお似合いのカップル?

 俺が? え? 違うよな……?


 俺は思わず、周りをキョロキョロと見回した。


「どうしたの祐也君?」

「え? あ、いや……あのお姉さんがお似合いのカップルなんて言うから、誰か他に男の人が近くにいるのかと思って」

「いえ、それは祐也君のことでしょ?」

「はっ? やっぱり……俺?」

「祐也君しかいないでしょ。……ふふふ、変な祐也君」

「えっ……?」


 俺とお似合いのカップルなんて言われて、日向は否定しないのか?

 いやそれどころか、ふふふって楽しそうに笑ってるし。


 どうリアクションしていいのかよくわからなくて、俺はしばらく固まっていた。

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