第7話:春野日向には近寄れない

 春野が街でスカウトされたという話が広がり、休み時間のたびに春野の周りには人だかりができる。

 これじゃあ、この前の料理教室で手を握ってしまったことを謝るとか、とんでもなく不可能だ。

 俺はもう、春野に声をかけることなんか諦めた。


 まあ彼女も別に詫びをして欲しいわけじゃないだろうと思う。

 それよりも春野が望んでいるのは、実は彼女は料理が苦手で、料理教室の超初心者向け体験コースに参加しようとしたなんてことを、誰にも言わないでってことに違いない。


 だから俺は春野の姿を遠くから眺めて、『誰にも言わないから安心しろよ』と心の中で呟いた。


 まあ関わりが薄いとは言っても、これから一年間同じクラスで過ごすんだ。そのうち謝れる時も来るだろう。春野がアイドルデビューするために、この高校を辞めなければ、だけど。



 この日はこうして、まさに『春野デー』とでも言ったらいいのか。

 彼女が今まで以上に存在感を放ち、とても近寄ることなどできない雰囲気のまま、一日が終わってしまった。






 ──その翌日は、土曜日で学校は休みだった。


 もうあれから──つまり春野が突然体験料理教室に現れてから、一週間が経つ。

 まるで昨日のことのようにも思えるけれど、もう既に、ずっと以前の出来事のような気もする。

 いや、もしかしたらあれは現実ではなくて、夢の中の出来事だったのではないだろうか。


 そんな気までしてきた。


 やっぱり春野と俺では、住む世界が違うんだ。もう春野のことは忘れて、自分のことに集中しよう。


 毎週土曜日は料理講師のバイトをする日で、今日は夕方からまた体験教室があるから、それに入ることになっている。

 夕方に外出先から戻って自宅の居間に入ると、既に教室に出る準備を整えた母が居た。


「祐也。早く着替えて、教室の方に来てよ」

「ああ、わかった」

「そう言えば祐也。あれから春野さんとは話ができたの?」

「えっ? いや……できてない。あの子、学校で大人気でさ。いつも大勢に取り囲まれてて、なかなかゆっくり話す機会がないんだよなぁ」


 母は顎に手を当てて、ちょっと考え込むような仕草をした。


「ふーん……そうなの。また話す機会があったら、ちゃんと謝るんだよ」

「ああ、わかってるよ」

「じゃあ私は、先に教室に行っとくから。早く来なさいよ」

「ああ」


 俺は二階の自室で、いつものように洋食料理人のようなコックコートに着替えて、鏡に向かって髪を整髪料で整える。


「よしっ」


 これで母が言う清潔感はバッチリ……のはずだ。

 洗面所で手を洗ってから、料理教室に向かう。


 自宅から教室に通じる扉を開けると、教室内には既に今日の生徒さんが三人来ていた。


 その中に──


 なんとまた春野はるの日向ひなたの姿があった。


 前回と同じピンクで花柄のエプロンをつけ、三角巾を頭に巻いて春野はそこに立っている。

 なんでだ?


「えっ? あれっ? 春野……さん?」

「あっ、秋月君。今日はよろしくお願いいたします」


 春野は俺の髪型と服装をチラチラと眺めた後、満面の笑みでそう言って、ペコリと頭を下げた。


「は……春野。どうして?」

「この前は突然帰ってごめんね秋月君。あんなことして、気になってたの」

「あ……そうなの? 別に気にしなくていいのに」

「それにせっかく申し込んだんだから、ちゃんと習っとかないとね」

「そうそう! 前回ちゃんと料金も貰ってるしねー!」


 いきなり母が横から割って入ってきた。ニヤニヤと笑っていやがる。

 こいつ……今日春野が来ることを知ってて、俺に内緒にしていやがったな?


「実はね、秋月君」

「ん?」


 春野が突然、少し声をひそめて俺に顔を近づける。


 近くで見る春野は、大きな目の二重がくっきりとして、長いまつ毛も美しい。

 それにふわりと女の子特有の甘い香りが漂ったこともあって、ドキリと鼓動が跳ねた。

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