第8話:春野日向は楽しそうに笑う
「実はね、秋月君」
「ん?」
春野が突然、少し声をひそめて俺に顔を近づける。彼女は無意識かもしれないけれど、こんな突然に顔を近づけるなんて反則技だ。
──あ、いや。いったいなんのルールに対する反則なのかは、わからないが。
顔は近いし、可愛いし。甘い香りが鼻を刺激して、ドックンと鼓動が跳ね上がる。
「実は……秋月先生から、電話を貰ったの」
「母さんから?」
「うん。せっかくお金も払ってるし、料理はホント楽しいから、ぜひ来てもらえないかって」
「そ……そうなんだ」
「それに、秋月君のこともね。息子が失礼なことをしてごめんなさい。でも祐也は、ホントはいいヤツだからって」
「えっ? 母さんがそんなことを?」
「うん。秋月君のお母さんって、楽しくて優しくて、息子を大切に思ってて……ホントに素敵な人よね」
「あ、ああ。ありがとう。バカ親だけどな」
春野はちょっと目を伏せて、楽しそうにうふふと笑った。子離れができない母親をおかしく思ったんだろうか。
「あ、そうだ春野」
「うん?」
春野は二重の綺麗な目を細めて、コクンと小首を
まるで天使様がこの料理教室に降臨してきたような錯覚を抱かせる可憐さだ。やっぱ可愛い。
前回この教室で見かけた焦った感じは完全に無くて、いつも教室で見かける、明るくて凛とした態度。
「あ、いや……こちらこそ、前回は急に手を握ったりして悪かった。今後は気をつけるよ」
今後も春野と関わり合うことが、どれくらいあるのかはわからないけど。
「あの時も言ったけど、別にそれを嫌に思ったわけじゃないから。秋月君の方こそ、気にしないで」
「あ……うん。わかった。ありがとう」
春野は優しく微笑んで、そう言ってくれた。
「さあ春野さん。体験教室を始めるわよー」
突然後ろから、母が声をかけてきた。春野は母を向いて、にこりと笑顔で答える。
「はいっ」
「でも祐也の同級生が、こんなに可愛いお嬢さんで私も嬉しいわぁー」
「あっ、いえっ、ありがとうございます」
「じゃあ、こっちに来てくれるかなー」
母の声に促されて、春野は他の生徒さん二人と共に講師用キッチンの前まで移動した。
それにしてもやっぱ春野って、自分が可愛いってことを自覚しているんだな。可愛いって言われて、否定ゼロでにこやかにお礼を言っていたし。
ところで前回春野が急に帰ったのはなぜなのか? それはクラスメイトである俺が偶然ここにいたからだろう。
何でも完璧にこなす自分が、超初心者コースに参加しているなんて無様な姿を、同じクラスの者に見られたくないと春野は思った。
──きっとそんなとこだろう。
でも、ウチの母に誘われたとは言え、じゃあなぜ、また春野はここに来たんだろうか。
前回とは何か心境の変化があったのか……? どうせ前にバレたんだし、まあいっかと思ったとか。
うーん……いくら考えてもわからない。
まあ俺がうじうじ考えていても仕方がない。
春野は結局受講してくれるんだから、俺も精一杯教えるだけだ。
そして──
体験教室が始まった。
調理台の前に立つ生徒さん達に向けて、母がクリップボードに挟んだ説明文書を読みながら、今日の流れを説明した。
生徒さんも各自に渡された文書を手に持って読みながら、母の説明を受けている。
春野も説明文に視線を落としたり、時折顔を上げて母の顔を見ながら、熱心に説明を聞いている。
まつ毛が長くて、鼻筋がすっと通っている春野の横顔は、何とも言えず綺麗だ。
(あ、マズい。生徒さんはみんな平等だ。春野ばっかり眺めてたら、他の生徒さんが気を悪くするよな)
あとの二人は真面目そうな見た目の二十歳の学生さんで、友達同士で来ているそうだ。
今日は騒がしそうな人がいなくて良かった。
「はい! ひと通りの流れの説明は以上です! 何かご質問は?」
母が今日のメニュー『豚の生姜焼き』の作り方を、ざっと説明し終えた。
生徒さん達は何を質問したらいいかもよくわからないみたいで、全員が黙ったまんま、誰からも質問は出ない。
「じゃあ、早速始めましょうか。まずは下ごしらえをします。お肉、野菜、それにご飯と味噌汁に分けて、三人でそれぞれ分担してもらいますねー」
母は三人の顔をぐるっと見回した。
大学生の二人は自信がないみたいで、母から視線を逸らして下を向いてる。
春野は自信があるのかないのかわからないけど、いつも学校で見せるような穏やかな笑顔を浮かべて母を見ている。
「じゃあ田中さんはお肉、鈴木さんは野菜、春野さんはご飯と味噌汁ね」
母がにっこり笑って担当を指名すると、春野は「わかりました」と、笑顔ではあるけれど淡々と答えた。
「春野さん。今日は時間も限られてるし体験コースだから、味噌汁は
「あ、そうなんですね。わかりました!」
「はい。正式コースに来てくれたら、本格的な出汁の取り方を教えますからねー」
春野の声が、さっきよりも明るく力強いものに変化した。
どうやらさっきは、笑顔で返事をしていたものの、本当は少し自信がなかったのかもしれない。
「じゃあ春野さんは、まずはお米を洗ってくれるかな?」
「は、はい」
春野は調理台の上に置いてある、五人分のお米が入ったビニール袋を片手で持ち上げて、キョロキョロと辺りを見回した。
春野の顔は、確かに今も笑顔だ。
だけど少し笑顔が引きつっている。
春野のやつ、戸惑っているな。
たかが米を洗うだけなのに……
仕方ない。
助け舟を出してやることにするか。
「春野。ここにあるボウルを使って洗うんだ。炊飯器のお釜で洗っちゃダメだぞ。釜が痛んでしまうから」
「そ……そんなこと、わかってるから!」
春野はちょっと唇を尖らせて、むくれたような声を出した。
こんな春野の姿を初めて見た気がする。
いつも笑顔と冷静さを絶やさない春野なのに。
何気ないふりでいつものように笑顔を見せてはいるけれど、やっぱ本当はあまり自信がないんじゃないのか?
でも、むくれた顔も可愛いのは流石だ。
まあ俺も春野ばかりに構ってちゃダメだし、お米を炊飯器にセットするまで、放っておこう。
それより他の二人を見てあげないと。
そう思って、豚肉を袋から取り出した田中さんに目を向けた。
しかし──
なんだかふと気になって、シンクで米を洗おうとする春野を見た。すると、とんでもない光景が目に飛び込んできた。
「おいおいおーい! 春野っ!! 洗剤を入れるなぁーっ!」
「えっ?」
お米を入れたボウルに、春野は今まさに洗剤を投入しようとしている。
俺は咄嗟に手を伸ばし、洗剤のボトルを傾けている春野の手首をギュッと握り締めた。
──間一髪セーフだった。
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