第61話:春野日向にも苦手はある

 さっきまで俺の腕にしがみついていた日向が離れて、俺の左腕は急に軽く、そして涼しくなった。

 それは……少し寂しい感じがするけど、ずっとしがみついていてもいいよなんて言うわけにはいかないし、仕方がない。


 それからまた俺たちは続きの展示を見て回り、全部を見終えてトリックアート館を出た。ふと日向の顔を見ると、すっかり笑顔が戻っている。


「あー、楽しかったねー」

「おう、そうだな。めっちゃ楽しかった。それにしても意外だったな。運動神経抜群の日向があんなにビビるなんて」

「高所恐怖症みたいで、高いところが苦手なの……運動で鍛えても関係ない感じかな、ははは」

「そっかぁ。やっぱり日向にも、苦手なものはあるんだな」

「それは……私だって苦手なものは色々あるよ……」

「え? 他にもあるの?」

「う、うん……虫とか」

「ああ、虫な。そりゃ女の子は苦手な子が多いな」

「まあね……えへへ」


 ふと足元を見ると、道路の隅に毛虫のように見える穂の草が落ちているのが目に入った。

 いたずら心がむらむらと沸き起こる。

 俺はかがんでそれを掴むと、日向の目の前に出した。


「ほら日向、毛虫」

「ひゃぁぁんん!」


 日向はびっくりした顔で飛び上がって、俺の腕にガバっとしがみついてきた。


「あはは、嘘だよ。単なる草だよ」

「へっ? 草……?」


 日向は泣きそうな顔で、俺の指先にある毛虫みたいな草をまじまじと見つめてる。


「んもうっ! 祐也君のいじわるぅっ!」

「あはは、ごめんごめん。ホントに日向が虫が苦手なのか、確かめたくなってさ」

「ふぇーん……ホントにびっくりしたんだからぁ……ひっく、ひっく」


 ──あ、やべ。ホントに泣かしちゃったぞ。どど、どうしよう。


 日向は俺の腕から離れて、両手で顔を覆って泣いている。


「ひっ、日向! ごめん! ホントにごめん! 泣くほど嫌いだなんて思ってもみなかったんだよ!」

「べーっ、ウソ泣きだよ。てへへ」

「へっ?」


 日向はぺろりと舌を出して、意地悪な顔をしている。

 うわ、今度は俺がやられたのかよ!


「へへへ。仕返し」

「くそっ、やられた!」

「でも虫はホントに苦手だから、もうしないでね……」

「あ、うん。わかった」


 ──それにしても、やっぱり日向も苦手なものがあるんだな。


 だけど料理とか高所恐怖症のこととか、日向が苦手なものがあれば、俺がフォローしてあげられたらいいなと思う。


「ああ、楽しかった! でも、もうそろそろ帰らなきゃいけない時間だね」

「そうだな。日向は6時くらいには家に帰らなきゃいけないんだもんな」

「うん……」


 日向は少し寂しそうな表情を浮かべている。まだまだ遊び足りないのだろうか?


「でも仕方ないね……帰りましょうか」

「そうだな」


 俺も、この楽しい時間がこれで終わりを告げるのかと思うと、少し寂しい気もする。だけど遅くなって日向のお母さんが怒るとまずいし、仕方がない。


 そう考えて、俺たちはK市の中央駅へと歩いて向かった。



***


 帰りの電車に乗ると、来る時よりも混んでいた。二人分空いている座席は、ボックス席の横並びにしかない。


 これから一時間余りも電車に乗るのだから、立ったままというのも困るしそこに座ることにした。お互いに遠慮して、座席の端の方に寄って、少しあいだを開けて腰かける。


「ああ、楽しかったねぇー」

「そうだな。俺も楽しかった」

「コーヒー博物館、中華街、餃子、異人館、トリックアート……」


 日向は宙に視線を向けて、今日行った場所を思い出しているようだ。俺の頭にも今日一日が甦る。確かに全部楽しかった。


 それはもちろん行く先々のイベントが楽しいというのもあるが、一緒にいる日向が本当に楽しそうにしていたのが大きいと思う。日向ってホントに楽しそうな笑顔をするから、こちらまで楽しさが倍増するのだ。


 俺と日向は帰りの電車の中で──今日の出来事なので思い出話というのも変だけど──楽しかった思い出話に花を咲かせた。


 30分くらいはそうやって二人で話をしていた。しかし横に座る日向がふと黙り込んだので見てみると、とても眠そうにしていることに気づいた。

 重そうな瞼が閉じてしまうのを、必死になって我慢している。ガタンゴトンと心地よい電車の揺れに、眠くなってしまったようだ。


 楽しくて気がつかなかったけど、そう言えば俺も疲労感がある。そりゃ、あれだけ歩き回ったんだ。日向も疲れているのだろう。

 頑張り屋の日向のことだから、もしかしたら今日一日遊びに出る分、昨日は遅くまで勉強をしていたのかもしれない。そう思って、声をかけずにそっとしておこうと考えた。


 横目で日向を見ていると、我慢し切れなかったのか、とうとう完全に目を閉じて、こっくりこっくりと頭を下げて居眠りを始めた。


 しばらくそんな日向の様子を眺めていたら、突然日向の身体がこちらに傾いてきて、コトンと頭が俺の肩に乗った。


 肩に日向の頭の重みを感じ、日向の髪から甘くてとてもいい香りが鼻に届く。この髪の香りを嗅ぐのは、今日二度目だ。しかし二度目だからと言って、慣れるわけでもない。また心臓が急にバクバクと踊り始める。


 ──どうしよう? 起こした方がいいかな?


 迷いながら日向の穏やかな寝顔を眺めていたら、ふと思い出した。


 ──そう言えば、日向の居眠りを目にするのはこれが二回目か。前は料理教室で休憩中に、参考書を膝に置いたまま寝ていたよな。


 あの時のことを思い出すと、なんだかほのぼのとした気分になる。


 それにしても……前回日向の居眠りを見た日から、まだ2ヶ月くらいしか経っていない。あの時はまだ日向のことを、なんでも器用にできるスーパーな美少女だとしか思っていなかった。


 あれからたった2ヶ月ではあるけれども、実は日向も色々と悩みを抱えていることとか、ものすごく努力家であることを知った。その上で見る今の日向の寝顔は、前回見た時とは違ったものに見える。


 ──日向。たまには息を抜いて、ゆっくり休めよ。


 穏やかに眠る日向の横顔に、慈しみというか労いというか、そんな感情が湧いてきて、そのまま寝かせておいてあげることにした。


「ふふ……ふふふっ……」


 日向の口からいきなり笑い声が出て、ドックンと鼓動が跳ねた。もしかしたら起きているのかと思ったけれど、どうやらそうではない様子だ。


 何か楽しい夢を見ているのかな。もしかして今日の出来事を見ているのかもしれない。


 ──もしもそうなら、日向が今日のK市での一日を、心から楽しんでくれていたという証と言えるかも……


 でも俺も、日向のおかげで凄く楽しい一日を過ごすことができた。


「日向、ありがとうな」


 起こさないように、日向に聞こえるか聞こえないかの小声でそう呟いた。


 俺の肩に頭を預けて、スースーと可愛らしく寝息を立てる日向の横顔を、俺はそんなことを思いながら、いつまでも飽きることなく眺めていた。

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