第67話:春野日向は……★

 俺の頭の中で、想像上の日向が突然真顔でこう言った。


『祐也君。私ね、東京に転校することに決めたよ』


 その瞬間、汗ばむような気温なのに、なぜか俺の手足がブルブルと震え出して、止まらなくなった。


 ──俺は、日向を失うのが怖い。


 今さら遅いことはわかっている。もしも日向が東京行きを決断したなら、今さら反対なんてできない。


 だけど……


 頭では、日向の決断に俺なんかが影響を与えるべきではないと考えている。しかし心の奥から、俺の本音が溢れてくる。


 ──日向と離れたくない。

 ──日向を失いたくない。


「くっそーっ!! 俺は……俺は……」


 心の奥から本音がどんどん溢れ出すのが止まらない。止めようとしているのに止まらない。


「日向ーっ! ホントは日向と離れたくないんだー! 俺は、ずっと日向と一緒にいたいんだよーっ!!」


 俺は日向が去って行った道路の角を見つめながら、思わず大声で叫んだ。ぜいぜいと息が切れる。


 日向がいない所なら、本音を叫んでも、アイツの判断に影響を与えることはない。


 ──だから、いいだろ?


 せめてこれくらいのこと──日向のいない所で本音をぶちまけることくらいは許してくれ。


 はぁはぁと荒い息をしながら、俺は日向が立ち去ったブロック塀の角を見つめていた。


 すると──




 その角から、栗色の髪をしたとんでもなく可愛らしい美少女が、ピョンと飛び出して来た。


 その美少女はまっすぐに立って、俺を見つめている。


 ──日向だ。

 なんでまだ日向がここにいるんだ?


 訳がわからず俺が彼女をぼんやりと見つめていると、日向は急にこっちに向かって走り出した。


「日向……なんで?」

「祐也君……祐也君……」


 日向は顔をくしゃくしゃにして、走って近づいてくる。目から溢れた大粒の涙が頬を伝って後ろに流れている。


「祐也君のホントの気持ちが聞きたかったの!」


 日向はそう叫びながら、ドンと俺の胸に飛び込んできた。そして日向の両腕が俺の背中をギュッと抱きしめる。

 日向の温かい体温が胸とお腹に伝わってくる。


「祐也君。やっぱり私、東京に転校するのはやめる。アイドルにチャレンジするなら、卒業してからでも遅くない」


 日向は俺に抱きついて顔を俺の胸にうずめたままそう呟いた。


「なんでだよ日向。なんで大事な判断をするのに、俺なんかの気持ちが関係するんだよ。もっと日向自身がやりたいことを優先させるべきだ」

「いいの。卒業するまで今の高校にいることが、私がやりたいことだから……」

「ホントにそうなのか? なんでだよ?」


 日向は俺の胸から顔を上げて、俺の顔をじっと見つめる。そしてすっと口を俺の耳元に寄せて囁いた。


「んもう。鈍感バカ祐也……」


 バカ祐也って……言われた。

 そう言えば、前に母がバカ祐也って呼んでもいいとか言ってたな……


 そんなどうでもいいことが頭に浮かんだ時、日向がまた耳元で囁く。日向の吐息のような声が俺の耳を刺激する。


「私は……もうとっくに、祐也君に首ったけなんだよ………祐也君が大好きだよ」


 ──はぁっ?

 ええっ?

 なんだって?


「祐也君が私と離れたくないって想ってくれるなら、私も祐也君と離れたくない」

「えっ? あっ……いや……」


 頭が混乱して、何を言えばいいのかわからない。俺が戸惑っていると、日向は俺の胸からすっと離れて、一、二歩下がった。


 そして俺をまっすぐに見つめる。


「さっき祐也君が言ったことは……本音?」

「あっ……ああ」


 日向が本音を話してくれたんだ。これはもう、俺も本音を伝えるしかない。俺の気持ちが日向の決断に影響を与えるべきじゃないなんて、言ってる場合じゃないんだ。


「本音だ。本音中の本音だ。俺は日向と離れたくない。だけど日向が俺をどう思っているのか自信がなくて、怖くて、今まで言い出せなかった」

「祐也君……ありがとう」


 日向はまだ涙の跡が残る顔に、ニコリと笑顔を浮かべた。


「祐也君は、私に会いたいって……いつまでもそばにいたいって、想ってくれる?」

「お、おう。想う。いつまでもそばにいたい」

「そっか……じゃあそれは、恋だね」

「へっ?」


 日向は目の前に人差し指を立てて、少し意地悪な顔でニヤッとした。


「だって祐也君の国語辞典に、そう書いてあったもん。恋って文字にぐるぐる印を書いてある国語辞典」

「あ……やっぱりあの時、気がついてたのか……」

「うん」


 日向は楽しげに「うふふ」と笑う。


「そ、そうだな……間違いなく恋だ。俺は春野日向に恋してる。春野日向が大好きだ」


 日向は目を丸くして驚いた顔をした後、その可愛らしい顔をくしゃくしゃにして、嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


 俺の言葉に日向も喜んでくれている。良かった……


 ──しかし俺は今、勢いに任せてとんでもないことを言ったな。これが噂に聞く、告白ってやつか。

 そう思った途端、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。


「と、ところで日向。なんでまだそこにいたんだ?」


 俺がブロック塀の角を指差すと、日向は少し照れ臭そうな表情を浮かべた。


「もしかしたら、祐也君が追いかけてきてくれるかもって……でも祐也君が家の中に入っちゃったら、諦めて帰ろうと思ってた」


 そうなんだ。俺がずっとここに立ち尽くしていたから、日向は帰らずに、息を潜めて待ち続けてくれたんだ。


 俺はそんな日向が愛おしくて愛おしくてたまらない。


「俺も……もしかしたら日向が戻ってきてくれるかもと思ったら、ここから動けなかった」

「私たち、おんなじようなことを考えていたんだね……」

「そうだな……」

「うん……」


 日向は頬を赤らめて、コクンと頷いた。


「でも日向。東京行きはやめるって、そんな大事なことを、ホントにここで決めていいのか?」

「うん。祐也君が私と離れたくないって想ってくれるなら、東京に転校はしない。それは初めから決めてたことだから」


 日向は心から納得していることを表すように、満面の笑みを浮かべた。


「そっか……」

「今夜お母さんと、きちんと話をするよ」

「うん、そうだな。わかったよ」


 そんな会話を交わした後、日向は今度は笑顔で何度も手を振りながら帰っていった。



 ホントに日向はそれでいいのだろうか、という気持ちはまだどこかに残ってはいる。

 けれども日向の本当に嬉しそうな笑顔を見ていると、これでいいのかもなと思えた。

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