第68話:秋月祐也は母と語る

 日向を見送って家に戻り、2階の自室で講師用の服から室内着に着替えた。リビングに降りて行くと、母がソファに深く座ってテレビを観ている。


「おかえり」

「あ、ああ。ただいま」


 冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。日向とあんなことがあったから、喉がカラカラだ。


 一気に麦茶を喉に流し込み、乾きを癒す。このままリビングに居ると母から何かを言われそうだから、早々に自室に避難しようとした時──


「ねぇ祐也」


 突然母が振り返って、声をかけてきた。なんだかヤバい空気を感じる。


「なに?」

「『日向ーっ! ホントは日向と離れたくないんだー! 俺は、ずっと日向と一緒にいたいんだよーっ!!』……うーん、熱いねぇ」

「ばっ、バカやろう! 聞こえてたのか?」

「うん。何してるんだろうと思って、玄関ドアを開けて覗いたからねぇ。うふふ」

「……ってことは、その後も……?」

「うん、その前も後も見てたよ。熱い抱擁もね」

「くっ……」


 ──母親にあんなとこを見られるなんて、あまりに恥ずかしすぎるっ!


「じゃあ部屋に戻るよ!」

「チョイ待ち、祐也!」

「はぁっ? なにか用か?」


 せっかく自分の部屋に逃げ込もうと思ったのに、母に呼び止められた。


「まあ、こんなことをあえて言わなくても、あんたならわかってると思うけど……日向ちゃんに、やっぱりアイドルを目指しとけば良かったなんて、後悔させないようにしなきゃだめよ」

「あ、ああ。わかってる……」

「それなら、良し!」


 母はあっけらかんと、付き立てた親指をぐっと出してきた。相変わらずウチの母は能天気だ。


「あ、あのさ……母さん」

「なに?」

「俺なんかが日向の人生に、影響を与えてしまってホントにいいんだろうか……?」

「ふーん……悩んどるのかね、キミは? うーん、青春だねぇ!」

「ふざけるなよ母さん。俺はホントにそれでいいのか、まだ少し迷っているんだ……」

「そっか」


 母は目を細めて、俺を温かな目で見ている。


「あのね祐也。相手の人生に影響を与えない恋愛なんてないのよ。恋愛なんてそんなもんよ。それを恐れてちゃ、恋愛なんかできない」

「そ……そんなもん……なのか?」

「うん、そうよ。でもね祐也。人を好きになることを恐れる必要はない。人を好きになる、人から好きになってもらうって、素晴らしいことだもの」

「あ、ああ」


 確かに、人を好きになるって素晴らしい。今まで女の子を好きになったことがなかった俺だけど、日向を好きになって、それは実感する。


「でも、だからこそ、真剣に、真面目に恋愛しなさい。いいかな?」

「ああ。わかる。わかるよ。だけど本当に、他の人の人生に影響を与えるなんて……俺なんかが、そんなことをしていいのかな?」

「いい、祐也? 他人に与える影響に責任を持つようになることが、大人になるってことよ」


 母にしては珍しく、もの凄く真面目な顔で、俺の目をじっと見つめている。


「社会人になればお客様とか同僚。結婚すればその相手。子供ができれば子供。関わりの深さによって、与える影響や責任の大きさは変わるけど、自分以外の人の人生に与える影響に責任を持つ。それが大人なの」


 自分以外の人の人生に与える影響に、責任を持つのが大人……か。なんとなくだけど、わかる気はする。 


「だから祐也。大人になることを恐れないでね。今はまだそのための勉強期間だから、失敗は恐れなくていい。ただホントに日向ちゃんのことを思って、真面目に誠実に彼女にぶつかっていけばいい。私はそう思うけどね」

「あ、ありがとう……母さん」


 俺が真剣に礼を言ったのに、なぜか母は急に眉間に皺を寄せて、怒った顔になった。いったいどうしたんだ?


「だーかーらー由美子先生って呼べって言ってるでしょ!」

「はぁっ!? 今は誰も生徒さんがいないのにっ!? ああ、せっかく珍しく母さんがいい話をしてるなぁって感心してたのに!」

「なに言ってるの? 私はいつだって、いい話しかしないわよっ!」

「そんなことないだろ!?」

「そんなことあるわよっ!!」


 母はきっと、悲壮になりすぎるなって言う代わりに、冗談で場を和ませようとしているのだろう。そんな母の心遣いが伝わってくる。


 ──わかったよ、由美子先生。

 日向は東京行きの話を断わると言った。それなら俺は……もう逃げたりしないで、真面目に誠実に、日向にぶつかっていくことにする。


 そんなふうに、素直に思った。



◆◇◆◇◆


 翌日の日曜日。俺は自宅で母と二人で、昼食を食べていた。その時、ピンポーンと玄関のインターホンが鳴った。


「あ、俺が出るよ」


 立ち上がってリビングにあるモニターホンを見ると、パーマヘアで、美人だけど少し厳しい顔つきの女性の姿が映っている。母と同い年くらいに見えるけど、いったい誰なんだろう?

 そう思ってモニターをもう一度よく見ると、その女性の後ろにうつむいた若い女の子が立っているのが目に入った。


 少しうつむいてるせいで顔ははっきりとは見えないけど、あれは明らかに日向だ。

 ──ということは、モニターホンのカメラの前に立つこの女性は……


 日向のお母さん……だろうか?

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