第69話:春野日向の母

 日曜日に自宅で母と昼食を取っていたら、突然の来客があった。それは母くらいの年齢の綺麗な女性と日向らしき女の子だった。


 玄関に出て扉を開けると、目の前に立つその女性は固い顔つきで、怒ったような声を出した。


「あなたが祐也君?」

「あ、はい。そうですけど……」


 女性の後ろに立って、上目遣いに申し訳なさげな顔をしているのはやはり日向だ。

 いったいどうしたんだろう。でもお母さんの態度を見ると、いい話でないことは確かだ。


「私、春野日向の母です。今日はあなたとあなたのお母様にお話があって参りました」

「えっ……?」


 厳しい目で睨む女性の、抑えたような怒りを含んだ声に、俺はどう答えたらいいのか戸惑った。


「あらあら、日向ちゃんのお母様。わざわざ来てくださったんですね。こんな玄関先ではなんですから、あちらの料理教室の方にどうぞ」


 後ろから聞こえた声に振り向くと、笑顔の母が立っている。


「さあ、ご案内しますわ」

「いえ。さっき日向に、『ここが料理教室よ』って聞いたからわかります」


 日向のお母さんはよそよそしくそう言って、自宅の玄関前から料理教室の入り口の方に歩いて行く。俺と母は自宅から繋がっている扉から回って、教室に入った。




 料理教室の壁際に置かれた4人がけの打ち合わせテーブルに、日向とお母さんに並んで座ってもらい、俺は日向の向いに腰掛けた。


「どうぞ」

「お気遣いなく」


 日向のお母さんは、母が出した冷茶のグラスにチラリと目を向けて冷たく言い放つ。母も俺の隣に座って、頭を下げた。


「わざわざお越しいただきまして、ありがとうございます。暑かったでしょ?」

「秋月さん……でしたっけ?」


 母の気遣いの言葉を無視するように訊く日向のお母さんに、母は満面の笑みを浮かべる。

 さすが母だ。落ち着いて穏やかに対応をしている。


「はい。秋月由美子です。いつも日向ちゃんにはこの料理教室に通っていただき、ありがとうございます」

「その料理教室のことですけど、今日をもって日向が通うのは、辞めさせていただきます」


 ──なんだって?

 日向が料理教室を辞める?


 なんでいきなり、そんな話になっているんだ?


 日向のお母さんは淡々としているけれども、怒りを含んだような口調だ。日向が東京への転校をやめる話をして、やはりお母さんはそれを怒っているのだろうか。


「そうなんですか……今日はわざわざそれを仰りに?」

「ええ、そうです。こうして秋月先生と息子さんと顔を合わせて、ちゃんとお伝えしておかないと、また私が知らない間に日向がここに来るようなことがあっては困りますから」

「なにか……ありましたか?」

「なにかって……あなたの息子さんのせいで、ウチの娘の将来が狂ってしまいそうなんですよ? 先生はご存知ないんですか?」


 日向のお母さんは呆れ顔で母を睨んでいる。


 ──俺のせい。俺のせいで日向の将来が狂う。


 それは俺が一番恐れていたことだ。日向のお母さんが言うのもわかる。


「知ってます。知ってますけど……日向ちゃんはお母さんに、なんと仰ったんですか?」

「日向は、せっかくのいい話を……東京に転校する話を断ると」

「なぜですか?」

「それは……この祐也君と高校卒業まで一緒に居たいからって」

「それは、日向ちゃんが自分の将来も含めて、しっかりと考えたことではないのですか?」


 母は穏やかな笑顔を浮かべたまま、とても優しい口調でそう尋ねた。


「はぁ? あなた何を言ってるの? 日向はまだ高校生ですよ。愛だの恋だのに目が眩んで、正しい判断なんかできっこありません。あなたの所の祐也君のせいで、日向はせっかくのチャンスを逃してしまうんですよ!」


 お母さんのその言葉に、今まで黙って座っていた日向が声を上げた。


「お母さん! 祐也君を悪く言わないで。言ったでしょ? 祐也君はずっと、私が自分で決めるべきだって言って、東京に行くなとはひと言も言ってないもの。ここに残るのは、私が自分の意思で決めたことだから!」

「そうかもしれないけど……もし祐也君がいなければ、あなたは東京に行くことにしたんじゃないの?」

「そ、それは……そうだけど……」


 日向のお母さんは、ほれ見たことかというように、肩をすくめた。


「でも春野さん。芸能界なんて厳しい世界で上手くいくには、ご本人がそこで頑張ろうという気持ちが必要ではないですか?」

「そ、それはそうだけど……東京に行ったら、それはそれで日向は一生懸命やります! ねぇ、日向」


 お母さんに視線を向けられても、日向は口を真一文字に結んで、何も答えない。日向はお母さんに、精一杯の意思表示をしているようだ。


「春野さん。これは私の話ですけど、私は高校を卒業する時に、料理の道に進みたいって親に言ったんです。だけど私の両親は、もっと安定した良い仕事に就けるようにと、普通の大学にしか進学を認めてくれなかった」


 母は今まで俺が聞いたことのないような話をし始めた。


「だけど進学後も、どうしてもやる気が出なくて、私留年しちゃったんですよねぇ……それでもう一度親と話をして、2年で大学を辞めて、調理の専門学校に行かせてもらいました」

「それは秋月さん、あなたの話でしょ?」

「はい、私の話です。でもそういうことって、誰でも起こり得ると思うんですが……違いますか?」

「あ、いえ……それは……」

「春野さんは今までの人生で、すべて親の言うとおりにしてきたんですか?」

「うっ……いいえ。そんなことはないわ」

「じゃあ、なんでもかんでも親の言うとおりにしてたら良かったなぁ……なんて、過去を後悔してますか?」


 日向のお母さんは黙り込んで、母の顔をじっと見つめている。何かを思い浮かべながら、深く考えているようだ。

 そして思い切ったように、口を開いた。


「いいえ」


 母はニコリと笑顔を浮かべて、話を続けた。

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