第70話:秋月由美子はかく語りき
「春野さん。子供が取り返しのつかない失敗をしそうな時は、子供の意思に反してでも、親は全力で、命をかけてもそれを防ぐべきだと私は思っているんですよ」
日向のお母さんは無言でコクリと頷いた。
「でもそうじゃない時は、アドバイスはするけれど、本人の意思を尊重すべきだと思うんです。上手くいかないこともあるでしょうけど、それが子供の成長につながる」
母は気持ちを落ち着けるように一度深呼吸をして、話を続けた。
「この子達はまだまだ若くて
母は顔を日向に向けて、優しく穏やかな視線を送る。
「特に日向ちゃんはホントに真面目で努力家で、自分が何をすべきで、何をすべきじゃないか、きちんと考えている」
「ま、まあ、それは……」
日向のお母さんもチラッと日向を見た。本当は日向を信頼している。そう感じるお母さんの表情だ。
「今の学校に残ることで、日向ちゃんには取り返しのつかない失敗になるとお考えですか? 東京に転校しないことで、日向ちゃんはこの先不幸になりそうですか?」
「いえ……それは……ないと思います」
「じゃあ、日向ちゃんの決断を尊重してあげることはできませんか?」
日向のお母さんは、母の顔を見つめて、また無言になった。
「あ、そうだ春野さん。念のために言っておきますが、私は祐也のためにこんなことを言ってるのではありません。はっきり言って、今回のことで祐也が悲しい思いをしようが泣き叫ぼうが、それはどうでもいいんです。それも祐也の人生の勉強だから」
母は俺を向いて、ニヤリと笑ってる。なんだよそれは。俺はどうでもいいのかよ。まあでも、母の言うとおりだよな。俺のことよりも、日向の将来のことが大事だ。
「でも日向ちゃんが祐也を選んでくれて、ここに残りたいって言うなら、それを尊重してあげて欲しいと思うだけです。だから祐也には言いました」
母は、また日向の顔を真剣な表情で見つめる。
「日向ちゃんが後悔するような付き合い方だけは絶対にするなと」
「由美子先生……」
日向は母の顔をじっと見つめて、目にはほんのり涙を浮かべている。
「もしも祐也がそんなことをしたら……その時は私は祐也をボッコボコにぶちのめして、春野さんの目の前に差し出しますから!」
ボコボコにぶちのめすって……この母ならやりかねない。
──しかし、母が俺と日向を、尋常じゃないくらい信頼してくれているのがわかる。
そして俺のことはどうでもいいなんて言いながら、俺のことも日向のことも大切に思っていることがビンビン伝わる。
それにしても、本当なら俺が日向のお母さんを説得しなきゃいけないのに、母親に頼りきりで情けない。
母が大人の話をしてくれている中で、俺がやるべきことは──俺自身の誠意と熱意を日向のお母さんにしっかりと伝えることだ。
「ひな……いえ、春野さんのお母さん。ぼ、僕は……春野さんが東京に転校するなら、心からそれを応援するつもりでした。でも春野さんがここに残ってくれると言うなら、母が今言ったように、春野さんが絶対に後悔しないように、全力で努力します! だから……だから僕たちを信じて、見守ってもらえませんか!?」
俺の言葉に、日向は感極まった声を漏らした。
「ゆ……祐也君。ありがとう……」
「春野さんのお母さん。僕はまだまだ何もわかってない未熟者だけど、気持ちに嘘はありません!」
「お母さん! わかって! わかってよ!」
日向のお母さんはまた俺と日向を交互に見比べて、それから「ふぅーっ」と大きくため息をついた。
全然お話にならないと呆れられているのか? 信頼してもらえていないのか?
「あのね、祐也君。日向はね……」
お母さんは俺をまっすぐに見て、諭すような口調で話し始めた。
「外では絶対にそんな姿は見せないと思うけど……家では結構いい加減だし、部屋は散らかしっぱなしだし、不器用だし、案外甘えん坊でワガママを言ったりもするし……」
「ちょっ、お母さん! 何を言い出すの?」
──へっ?
いったいなんの話だ?
日向が急に焦った顔になって、あわあわしてお母さんの肩を揺すっている。
「そんな女の子なのに、それでもいいの?」
「えっ……?」
──はい。不器用なのと甘えん坊なのは知ってます。
部屋が汚ないのと、案外ワガママは知らなかったけど……たぶん大丈夫……だと思う。
「あ、はい。大丈夫です!」
「わかったわ。祐也君もお母さんも信頼できそうだし、今回は日向の判断を尊重します」
「えっ? ホントに? お母さん、ありがとう!」
日向は涙を浮かべて、お母さんの肩に抱きついた。
「春野さん、わかってくれてありがとう」
母もホッとした顔で、頭を下げる。
「春野さんのお母さん、ありがとうございます!!」
俺もテーブルに額がぶつかるくらい頭を下げた。認めてくれて、本当にありがたい。
「あっそうだ、春野さん! 私が焼いたマドレーヌが家の方にあるんですよ。一緒に食べましょう!」
母は急にそんなことを言い出して立ち上がった。俺の耳元に口を近づけて、小声でごによごにょと何かを言う。
「気が変わらない内に、地固めをしてくるわ」
──俺の母親ながら……由美子先生、怖ぇ。
「さあ、行きましょう! 母親同士、込み入った話もしましょうねー」
母はそう言いながら、ちょっと焦っている日向のお母さんの腕を掴んで、自宅の方へと行ってしまった。
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