第71話:春野日向の理想の男性

 母は日向のお母さんを誘って、自宅の方に行ってしまった。

 二人が居なくなった料理教室の中は、急に静かになった。テーブルに座ったまま取り残された日向と俺は、顔を見合わせて……そしてお互いにプッと吹き出した。


「やっぱり由美子先生って凄いね」

「あ、ああそうだな。自分の母親ながら、そう思うよ」

「祐也君もありがとう」

「いやいや。今回は由美子先生が一人で日向のお母さんを説得しただけだもんなぁ。俺なんて何もしてない」

「そんなことないよ。お母さんは、真面目で誠実な祐也君を見て安心したんだと思う」

「……えっ? そ、そんなことないだろ」

「ううん、そんなことあるよ。間違いない」

「そ……そうかな? なら、良かった」


 本当にそうなのかどうかはわからないけど、日向がそう言ってくれるのは嬉しい。


「でも俺なんて、ホントに日向とは不釣り合いだから、もっと日向に相応しい男になれるように頑張らないといけないな」

「私に相応しいって……? 私なんて何も偉くないよ。祐也君は充分素敵だし」

「いや。日向の理想の男性からしたら、俺は程遠いだろ?」

「私の理想の男性?」

「うん。日向の理想の男性ってどんな人?」

「私の理想の男性かぁ……えっとね。優しくってね……誠実でね……笑顔が可愛くてね……」


 なるほどなるほど。そうなのか。でもそんな人ならいくらでもいるよなぁ。

 日向は視線をきょときょとと動かしながら、一生懸命に考えているようだ。

 そんな仕草もやっぱり可愛い。


「そして料理がとっても上手で……私に料理の楽しさを教えてくれて、私のことをホントに大切に思ってくれる、とっても頼りになる人かな」

「ちょい待て、日向。それって、明らかに俺に寄せて言ってくれてるよな」

「うん、そうかな」


 日向は笑顔で頷いている。だけど俺に気を遣った意見を聞きたいわけじゃない。


「そうじゃなくてさ。元々日向の理想像ってあるだろ?」

「うーん……理想の男性像なんて、考えたことがないなぁ。強いて言えば、今の祐也君は私にとって理想的かな」

「日向。気を遣ってくれてありがとな」

「気を遣ってるんじゃないよ。ホントだよ。でもさ祐也君。元々持ってる理想に当てはまる人を探し回るよりも、たまたま目の前にいる人が『こんな人が自分の理想だなぁ』って思えたら最高じゃない?」


 そう言って、日向はニコリと微笑んだ。

 おべっかではなくて、日向は本気でそう言ってくれている気がする。なんと嬉しいお言葉なんだよ。


「ありがとう日向。そう言ってくれてめちゃくちゃ嬉しいよ。でも……俺は、日向を好きだってことも、東京に行って欲しくないってことも、自分からは日向にちゃんと伝えられなかったへたれだ」

「違うよ、祐也君。私はちゃんとわかってる。それは私が判断をちゃんとできるための、祐也君の優しさだもん」

「あ……まあ、それは……そうだけど」

「今まで祐也君って、自分が得するようにとか、自分は凄いんだってアピールするとか、そんなことを私に一度も言わなかったでしょ」

「えっ? あ、ああ、そうかな。自覚はないけど」

「それってさっき言ったように、祐也君の優しさで、誠実さで、私のことをホントに大切に思ってくれてるってことだもん」


 俺が日向のことを大切に思っていることは間違いない。だけどさすがにそこまで言われると、ホントに背筋がくすぐったくて仕方がない。

 日向は俺のことを、いいふうに捉えすぎだよな。でもそう言ってくれるのは、本当に嬉しい。


「だからね、祐也君は私の理想の男性なの」


 いや、こんなに可愛くて、こんなに謙虚で、こんなに努力家で、こんなに素晴らしいことを言ってくれる日向こそ……


「日向も俺の理想の女性だ」

「ホント?」

「うん。心からそう思う」

「ありがとう……嬉しい」


 でも……お互いの気持ちは伝え合うことができたけど、一つだけ引っかかっていることがある。


「あのさ、日向」

「なに?」

「俺は日向を好きだし、日向も俺にそう言ってくれたけど……」

「うん?」

「だけど日向がアイドルを目指す可能性はまだあるんだから、俺たち付き合うのは無理だろ」

「なんで?」

「だって高城千夏も言ってたように、将来アイドルとしてデビューしたら、過去に付き合ってた男が問題になる」

「ああ、それね……別にいいんじゃない?」

「えっ……?」


 なぜか日向はあっけらかんと言い放った。だけど良くはないだろ?


「テレビを観てたら、過去の彼氏の話をしてるアイドルもいるし」

「でも恋愛禁止のアイドルもいるだろ」

「祐也君は変な男じゃないから大丈夫だよ。それにそもそもアイドルを目指すかどうかはまだわからないし……」

「でも可能性はあるってことだろ?」

「うーん……もしも祐也君にフラれたら、やけになってアイドルを目指すかなっ!」

「ばっ、バカなこと言うなよ!」

「もちろん冗談だよー!」


 日向は楽しそうに笑っている。俺なんかよりも、よっぽど腹が座っているんだな。それなら俺も、ぐじぐじと考えるのはもうやめよう。


 例え日向が俺のことを好きだとしても、アイドルを目指すなら付き合えないなんて思っていた。だけど日向はそんなことはないと言ってくれた。

 ならば俺もストレートに自分の気持ちを日向に伝えよう。


 そして将来のことはホントにわからないけど、母が言うように、俺を選んでくれたことを日向が後悔しないように、俺はベストを尽くそう。


「日向……」

「ん? なに?」


 俺は椅子から立ち上がって、日向をまっすぐ見つめた。


「俺は……日向がここに残ったことを絶対に後悔しないように、全力で誠意を持って真面目に、春野日向とお付き合いしたいと思っています。俺とお付き合い……してもらえませんか!」


 驚いた顔で、日向は俺を見つめている。その美しい瞳から、急にボロボロと涙が溢れて、頬にこぼれ落ちる。


「祐也君……祐也君……喜んでお付き合いさせていただきます!」


 やった……やったよ。良かった。

 俺が日向と正式に付き合えるなんて……まさかこんな日がやってくるなんて思ってもみなかった。

 やっぱり何もせずに諦めるなんてすべきじゃなかったんだ。自分の想いをちゃんと伝えることがこんなに大切なことだったなんて、初めて実感したよ。


「あ、ありがとう日向」

「こちらこそ、ありがとう祐也君」


 笑い泣きの日向。

 可愛い日向。


 そんな日向の顔は、いつまでも眺めていられるくらい愛おしい。


「あのさ、じゃあさ、祐也君」

「なに?」

「前に言ってたでしょ?」

「何を?」

「祐也君も私も、学校で素を出せたらいいねって話」


 そう言えば、そんな話をしたことがある。日向は何を言いたいんだろう?

 目に涙を浮かべたままニコニコとする日向を、俺はぽかんと見つめた。

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