第66話:春野日向はアイドルにチャレンジ?
日向は芸能事務所と話をして、二学期早々から東京に転校する話があると言った。どうやらお母さんはその話に乗り気らしい。
「日向自身は、どうするつもりなんだ?」
「私は……」
日向は視線を地面に落としたまま、言いにくそうに言い淀んだ。
「正直言って悩んでる。お母さんの望みを叶えたいっていう気持ちもあるし、自分自身もそういう滅多にできないことにチャレンジしたい気持ちも、無くはない……」
そうか。アイドルになるのは、決してお母さんの希望だけじゃないんだ。日向自身もチャレンジしたい気持ちがあるのか。
「だけど……せっかく入った高校でたくさん友達もできたし。千夏とか……祐也君とか。そんな友達と途中で別れるのは寂しいなぁ……なんて思うんだ。えへへ」
日向は伏せた目を上げて、俺の顔を窺うように苦笑いを浮かべている。
「だからやっぱり、せめて卒業までは今の高校にいたいな……って気持ちもある」
「そ、そっか……」
「祐也君は、どうしたらいいと思う?」
日向はその言葉を出した後、ごくりと唾を飲み込んだ。
「日向が俺の名前も出して、そう言ってくれるのは嬉しいよ。ありがとう」
日向はホッとしたように、表情を緩ませた。俺ももちろん、卒業まで日向と一緒にいたい。
だけど俺なんかの存在が、日向の将来を左右するなんてことはあってはいけない。
「でも俺は……友達も大事だけど、自分の将来を決める決断なんだから、今の学校とか目先のことだけじゃなくて、判断するべきだと思う」
「えっ……?」
俺の言葉を耳にして、日向の顔色がさっと変わった。唇がプルプルと震えている。
「あの、えっと……それは、私が二学期から東京に行くのもありってこと……なの?」
「ああ……うん。アイドルを目指すことを日向が望むのなら、それもありだ……と思う」
「で、でも、せっかく仲良くなった友達を置いて東京に行くのは、その人たちを裏切ることに……」
「いや。それぞれの人生があるんだし、同級生なんてたまたま同じ学校になっただけなんだから、別に裏切るとか……そこまで考えなくていいんじゃないか?」
「そっ……そっか。そ、そうよね……」
日向はまた目を伏せて、力なく答えた。
俺は本当は、もちろん日向と離れたくない。たった三週間顔を見ないだけで、あんなに会いたくなって、胸がじりじりとするのだ。
それが日向が東京に行って、そしてアイドルという手の届かない存在になるなんて、そう考えただけで胸が苦しい。
だけど日向の将来を考えたら、俺のそんなチンケな想いなんてどうでもいい。俺の気持ちなんかより、日向が自分の将来を見据えて、正しい決断ができることを優先すべきなんだ。
何かを考え込んでいた日向は、顔を上げて俺をまっすぐに見た。
「祐也君と仲良くなれて嬉しかったし、これからもっともっと仲良くなりたいなんて、思ってた。……でも祐也君は、別にそんなふうには思ってないんだね……」
「何を言ってるんだよ日向。そんなはずはないだろ。俺だって日向と仲良くなれて嬉しいよ。だけど違うんだよ。そうじゃなくて、俺の気持ちが日向の将来に影響を与えるべきじゃないと思うんだ。だから俺の気持ちに関係なく、日向が自分の意思で決めるべきなんだ」
日向と離れたくないという気持ちを口に出さないでおこうとすればするほど、口からそんな正論が、まくし立てるように溢れた。
「そ、そっか……ごめん、嫌な言い方して」
「いや、別にいいよ。だから日向は、俺のことなんか関係なしに、自分の将来のためにどうしたらいいか考えろ」
「うん……わかった。アドバイスありがとう……」
日向は寂しそうにそう言うと「じゃあ帰るね」と踵を返した。目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見える。
「ああ、じゃあな」
俺は少し早足で立ち去る日向の背中をボーっと眺める。20メートルほど先のブロック塀の角を、日向は右に曲がって帰っていった。
俺はそのブロック塀の角を、しばらく見つめていた。もしかしたら急に日向が戻ってきて、「やっぱり東京に行くのはやめる」とか言い出すんじゃないか……
そんな一縷の望みに期待する気持ちが心の底にあって、足が動かない。
けれども10分ほど経っても、日向が再び姿を現すことはなかった。
いくらなんでも、もう日向が戻ってくることはないだろう。
あんな突き放すような言い方をした以上、日向が東京行きをやめると言い出すことなんて、期待すべきじゃない。
それはわかっているんだけど……
その時突然、頭の中に日向との思い出がぐるぐると渦巻き始めた。
初めて日向が料理教室に現れた時の天使のような姿。
体験教室で想像を絶するくらい不器用だったこと。
頑張り屋で一生懸命料理の練習をする姿。
目を細めて本当に美味しそうに食事をする顔。
調理実習でテキパキと料理をする勇姿。
そしてK市でのキラキラと眩いばかりに輝いていた美しい姿。
そのどれもが愛おしくて、可愛らしくて、抱きしめたいと思うほどだ。
そして頭の中の日向が、突然真顔でこう言った。
『祐也君。私ね、東京に転校することに決めたよ』
その瞬間、汗ばむような気温なのに、なぜか俺の手足がブルブルと震え出して、止まらなくなった。
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