第65話:春野日向は久しぶりに来る

 ◆◇◆◇◆


 日向が三週間ぶりに料理教室に来たのは、8月も下旬で暑さのピークは過ぎたとはいえ、快晴で汗ばむような暑い日だった。

 料理教室が始まる17時になっても外は熱気がこもったような気温だ。


 教室の中はもちろんエアコンが効いているので、室内に入ってしばらくすると快適ではあるのだけれども。


「あら祐也。日向ちゃんはまだ来てないわよ。三週間ぶりだから待ち遠しくて仕方ないのねぇ~」


 いつもよりも早めに教室に入って行くと、例によって例のごとく母にからかわれた。

 今までなら焦って「違う!」と力説するところだけど、もう反論するのにも疲れた。


 いや、正直に言うと──


 俺自身が、日向の顔を見たくて待ち遠しいのだと自覚がある。

 それが恋なのかどうかは別として、そういう気持ちをこの前から自分で認めてしまった以上、無理に反論するのも面倒だという気がした。


 だから「ああ」とだけ短く答えたら、母は目を丸くして絶句している。こういうのをまさに、鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのだろう。


「こんにちはー」


 その時料理教室のドアが開いて、いつものように日向が入ってきた。今日は白い半そでのブラウスに、オレンジのフレアスカートという爽やかないでたちだ。


 整った顔つきと相まって、その爽やかな姿が夏の暑さを和らげてくれるような気がする。


 久しぶりに見る日向の可愛い顔が、俺の心を落ち着かせてくれる。


「おう、久しぶり」

「う、うん、久しぶり」


 横目でチラッと母を見たら、「ふーん……」とだけ言ってにやにやしている。まあバカ母は無視しておくに限る。


「まだまだ暑いね」

「そうだな。まあとにかく室内で涼みなよ」

「うん、ありがとう」


 にこりと笑う日向の額には、玉のような汗が光っている。

 日向はいつものように笑っているのだけれども、なぜか少しその笑顔は普段よりは固いような気がする。俺は「ほれ」とタオルを渡した。


「どうした日向。体調でも悪いのか?」

「えっ……? あ、いえ大丈夫。祐也君、料理教室が終わったら、少し話がしたいんだけど……」

「ん? あ、ああ。いいよ」


 いったいどうしたんだろ。日向がそんなことを言うのは初めてだ。

 気になるけれども、それから日向は特にいつもと変わりなく料理教室の講習を受けていた。


 なんとなく元気がないようにも見えるが、それはさっき日向が気になることを言ったせいでそう見えたのかもしれない。





 その日の料理教室を終えて、俺と母は他の生徒さんが帰るのを見届けた。その後も教室に残っていた日向は、母がキッチンの方に片付けに行くのを横目で見ながら話しかけてきた。


「あの……ちょっと外に出ない?」

「えっ? あ、ああ。いいよ」


 日向は母がいない所で話をしたい様子で、母の方をチラチラと見ている。俺と日向は靴を履いて、教室の玄関から表に出た。


 なんの話なのだろうかと、少し心がざわつく。



 外に出ると、もう19時を過ぎているせいで暑さは随分と和らいでいたが、それでもまだ夏を感じさせるもわっとした暑さだ。


 俺たちは料理教室入り口の目の前から少しだけ離れて、そして日向は俺を振り返った。道路の端の方で二人向かい合う形になる。


 日向はいつものような明るい笑顔ではなく、少し曇った表情をしている。いったいなんの話なのか、まったく想像もつかない。


「あのさ……祐也君。私先週、料理教室を休んだでしょ?」

「お、おう。そうだな」

「あの日お母さんと一緒に、東京の芸能事務所に行ってたの。前に私をスカウトしてくれたところ」

「えっ? そ、そうなんだ」

「そう。ちゃんとした話を聞こうってことで、お母さんが事務所の人と予定を組んだの。それでね、お母さんが芸能活動は上手くいかないリスクもあるから、勉学と両立できる環境を整えられないのかって、向こうに要望したの」


 なるほど。今の日向の成績なら、このまま普通に高校生活を送れば、有名国立大学に行けそうだ。


 もし芸能活動をしたせいでちゃんとした大学に行けなくなったら、日向の将来が不安定になるリスクがある。


 日向が説明してくれたところによると、実際に勉学をきちんとして実力で有名大学に進学をしている芸能人もいるから、そういう方向性を目指すということで、事務所も理解をしてくれたらしい。


 日向のお母さんは、さすがちゃんと日向のことを考えているんだな。


「なるほど。それでどういう話になったんだ?」

「それが……私学の進学校に編入する手続きを取って、勉強と両立できる活動をしてもらいます……って」

「へぇ、そうなのか」

「通いやすい都心の高校にツテがあるし、卒業までの学費も事務所が出してくれるんだって。実際に過去にその事務所の女優さんが同じ高校に在籍して、一流大学に進学した実績もあるって」

「なるほど……」


 それは確かに良い話だ。勉学と芸能界の両立なんてかなり大変だろうけど、頭が良くて頑張り屋の日向であれば、やれそうな気がする。


 日向にとっても良い話だよな。


「でね。その代わり夏休みが終わったら、二学期から早速転校して来て欲しいんだって」

「えっ……なんだって?」


 一瞬、日向の言葉の意味がよくわからなかった。しかし次の瞬間には、それは日向との別れを意味するのだと理解した。

 しかもその別れは、すぐ目の前に差し迫ったところに来ているのだと。


「いや、二学期からって……夏休みはあと一週間ほどで終わるのに、スケジュール的に無理……だよな?」

「うん。だからもしも間に合わないなら、向こうの学校へは二学期が始まって一週間とか二週間経ってからの登校でもいいって」

「す、住むところは?」

「学校の寮があるから、いつでも入れるそうなの……」

「そ、そうなのか……」


 ということはつまり──日向とはもう会えなくなる。


 その言葉だけがぐるぐる頭の中を駆け巡り、混乱してうまく整理して考えられない。目の前が真っ暗になる。


 ……あ、いや。大事なことを、まだ確認していない。


「あ、日向。その話は、もう決定なのか?」

「ううん。一応考えさせてくださいってことになってる」


 そうなんだ。その言葉を聞いて、少しホッとした。頭に昇った血が引いて、少しは冷静に考えられるようになった。


「でもお母さんはかなり乗り気で……ぜひそうしなさいって言ってるの」


 日向は少し俺から視線を外して、力なくそう言った。


 そう言えば日向は以前、自分は特にアイドルになりたい訳ではないけれど、母親の望みを叶えたいと言っていた。

 そして今回、日向のお母さんが乗り気だということは……


「日向自身は、どうするつもりなんだ?」

「私は……」


 日向は視線を地面に落としたまま、言いにくそうに言い淀んだ。

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