第55話:春野日向は尋ねる
日向は嬉しそうに笑いながら「祐也君のおかげでトラウマも解消できて、今では家でお母さんと一緒に料理をしてる」と言った。
嬉しそうに笑う日向を見て、俺も少しは役に立てたんだなと嬉しく思う。
「ところで祐也君は……」
「ん? なに?」
「将来は料理講師になるの?」
突然日向は、真顔でそんなことを訊いてきた。
「いや。まだわからない」
「どうして? 料理講師になるのは嫌なの?」
「ううん。料理講師は嫌いじゃないけどね。いや、どちらかと言ったら好きだな。だけど将来なんてまだまだ色んな可能性があるから、もっとたくさんの経験をしてから決めたい」
「ふぅん、そうなんだね。由美子先生は料理教室を継いで欲しいって言わない?」
「言わないなぁ。自分の将来は自分で決めなさいっていつも言われてる。そして高校生の今は、その判断力を付けるための大切な勉強期間なんだって……」
「へぇーっ!」
日向は感心したように目を開いている。母の考え方は、日向からしたらそんなに驚くようなことなんだろうか。
「私のお母さんと全然違うなぁ」
「日向のお母さんはどんな感じなんだ?」
「親の言う通りにしてたら間違い無いって……そんな感じ」
そうなんだ。俺の母と正反対だ。日向のお母さんはお母さんで、娘の幸せを考えた上での愛情の裏返しなのだろうけれども。
日向は、なぜ彼女のお母さんが教育熱心で、そんなふうに言うのかを教えてくれた。
どうやら日向のお母さんは日向が小学生の頃から、お父さんとはうまくいってなかったらしい。
だからお母さんの関心が、一人娘である日向に集中した。
それと「女も一人で生きていける力を付けておかないといけない」とよく言っていたそうだ。母は若い頃は専業主婦で経済力がなくて、離婚したくてもできなかったのだと日向は言った。
それらが、お母さんが日向に対して教育熱心になった理由だというのが、日向の推察だ。
しかし日向が中学生になってからお母さんは働き始めて、中3の終わり頃にはお父さんと離婚したらしい。だから女性も自分でしっかり稼げるようにならないといけないというのがお母さんの考え方らしい。
芸能界は女性が夢を追える数少ない仕事の一つということもあって、お母さんはせっかくの機会を逃さないように、ぜひチャレンジしなさいと言っているそうだ。
芸能界なんて決して安定した仕事ではないけれど、デビュー確約なんて条件の良いスカウトがあったものだから、お母さんはかなり熱心にアイドルになることを勧めているのだと日向は言った。
日向はそんな踏み込んだ事情まで、穏やかに笑いながら俺に話してくれた。
「だから日向は、アイドルを目指すべきかどうか、悩んでしまうんだな」
「う……うん。そう」
「そっか。俺も無責任なことは言えないけど、自分の将来は自分で決めた方がいいと思うなぁ」
「そ……そうだね」
「俺たちはまだ高校生なんだからさ。いっぱい悩んで、いっぱい考えて、そして自分の意思で自分の道を決める。それをお母さんに、熱意を持って真摯に伝えたらいい。俺はそう思うな」
ふと日向の顔を見ると、ぽかんとした表情で俺を見つめている。
「……あ、偉そうなことを言っちゃったな。普段学校で熱意なんて見せない俺が、努力家の日向に向かって、何を言ってるんだよ! ……って感じだな、あはは」
「ううん、そんなことない。祐也君の言葉、心に響くよ。さすが祐也君だなぁ!」
「まぁ、少なくとも俺は両親から、そう教えられてきたって話だ」
日向は穏やかな笑顔を浮かべている。
少しでも──ほんの少しでも俺の言葉が、日向が自分の将来を自分で考えることの手助けになれるのなら嬉しい。
そう思って、俺も穏やかな微笑みを日向に返した。
やがて電車はK市の中心駅に到着した。そこで市内を走る電車に乗り換えて、俺たちはコーヒー博物館に向かった。
◆◇◆◇◆
白くてドーム型の建物のコーヒー博物館に着いた。ここにくるのは中3以来だから、懐かしい感じがする。
俺たちは入り口で料金を支払って、館内に足を踏み入れた。
最初に焙煎体験をする教室に行くように係員さんに言われ、館内を歩いてそこに向かう。
小さな教室のような部屋に入ると、エプロン姿の年配の女性インストラクターと、既に他のお客さんが二組居た。二組とも大学生くらいの、少し大人っぽいカップルだ。
他のカップルの男性が日向に思わず見とれて、彼女に叱られている。やっぱり日向って凄い。
彼氏さんは「君が一番綺麗だよ」とか言いながら、彼女さんの機嫌を取っているのがなんだかおかしい。
でもカップルばかりのところに自分達が居るのが、なんだか場違いな感じがして大変居心地が悪い。みんなきっと恋人同士なんだよなぁ。
ふと日向の顔を見ると、彼女は何を思ったのかニコリと微笑んだ。
──日向って、割とメンタル強いな。
俺はこんな感じは居心地が悪くてかなわないけれども、日向は楽しそうにワクワクした表情をしている。
「それでは始めますねー」
その時インストラクターの女性の声がして、いよいよコーヒー豆の焙煎体験教室が始まった。
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