第13話:春野日向は嬉しがる

 春野が切った味噌汁の大根を俺が見て、「うん、綺麗に切れてる」と声にした途端、春野は相好を崩してにんまりとした。


 苦労しただけあって、かなり嬉しいのだろう。その気持ちはよくわかる。


 続いて味噌汁を口に含み、味わう。

 今日のは出汁からは取らずに、出汁の素を使っているから、そんなに深みのある味ではない。


 けれども初めて作ったにしては、出汁の濃さも味噌の量も適切だ。


 まあ計量スプーンを使いながら、横から俺もアドバイスをしたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。


「うん、旨い」

「ホント?」

「おう。春野、やっぱり料理の才能あるぞ」


 俺の褒め言葉に、春野はちょっと恥ずかしそうにはにかんで、「そっかなぁー」と答えた。


「そうだよ。やっぱり春野は凄いよ」

「そっか。ありがと」


 春野はニコリと笑って、また自分も料理を食べ始めた。


 まあ春野がどこまで俺の言葉を真に受けてるのかはわからないけれど。とにかく春野には、料理を嫌いになって欲しくない。


 そんな思いで、料理を美味しそうに口にする春野の横顔を眺めた。





 みんなが試食を終えて、ひとしきり雑談に興じた後、母が「では後片づけをしましょうねー」と声を出した。


 また心配して、シンクの前に立つ春野を背中側から見ていたけれど、洗い物はテキパキと手際よくこなしている。


 調理はほとんど経験がないと言っていたけれども、洗い物の方はそこそこやり慣れているように見える。


 俺が横で眺めていたら、ひと通り洗い物を終えた春野が、タオルで両手を拭きながら振り返ったところに目が合った。


「ん?」


 春野は不思議そうに首を傾けて、目を細めて笑顔を浮かべた。その愛らしい仕草にドキリとする。


「あ、いや……。洗い物は手慣れてるなって思って」

「ああ、そうね。家でも洗い物は割としてるの。料理の方は、ちょっと訳があって……」

「訳?」

「あっ、いや。なんでもない。大したことじゃないから気にしないで」

「あ、ああ」


 春野はニコリと、学校で見せるような笑顔を浮かべる。

 少し気にはなるが、あんまりずかずかと個人の事情に踏み込むのも良くないと思って、彼女の言葉を受け流した。


 春野はこうやってウチの料理教室に来てくれてはいるけれど、個人的な話に踏み込むほど、俺と親しいわけではないのだ。




 全員が片付けを終えて、この日の体験教室のプログラムはすべて終了した。

 帰り支度をする三人の生徒さんに向けて、母が正式な教室への入会を勧めるチラシを手渡した。


「色んなコースがありますー ぜひ通ってくださいねー」


 大学生の二人は母の勢いあるトークに押されて、「はい」と小さな声で答えている。


 体験教室は正式な教室に生徒さんを誘致するための特別コースで、正直言って赤字だ。だから体験教室で終わらずに、正式なコースに来てもらわないと商売にならない。


 大学生の二人は互いに「どうする?」と話し合って、申し込みをすることに決めてくれた。


 二人とも母から渡された申込書に、ボールペンで記入をし始める。


「春野さんもね!」

「あ、はい」


 春野はいつものような愛想のいい笑顔で返したけれど、大して気乗りはしていないように見える。なんとなく、心からの笑顔ではないように感じた。


「私は……ちょっと考えさせてください」

「うん、わかった。いいわよ」


 母は無理強いするでもなく、朗らかな笑顔でうなずいた。


 ──やっぱりな。

 春野はきっと、同級生にカッコ悪い姿を見られる料理教室なんて、通いたくないに違いない。


 前回あんなに慌てて帰ってしまったんだ。春野が今日ここに現れただけでも、奇跡とさえ言えるだろう。

 だから彼女が今後ウチの教室に通わないことは、仕方がないと思う。けれども俺は、気になっていることが一つある。


 他の二人が申込書を書き終え、靴を履いて「失礼します」と玄関を出た。その後に春野も玄関に屈んで、靴を履いた。俺は横に立ち、春野を見送る。


 そして春野は玄関扉に手をかけた時、ふいに思いついたように振り返った。


「あ、そうだ秋月君」

「ん?」

「私が今日ここに来たことも、学校では内緒にしてくれる?」


 ──ああ、やっぱりな。思ったとおりか。


「ああ、わかってる。春野と俺がこんな形で関わりがあることも誰にも言ってないし、悟られないようにしてる」

「あ、うん。わかってる。ありがとう」

「これからも、そうし続けるから心配するな」

「変なお願いをしてごめんね。気を悪くしたでしょ?」

「気を悪く? なんで?」

「いや……関わりがあることを内緒にしてくれなんて、秋月君に失礼だなって……」


 春野は眉尻を下げている。そんなに気を使わなくてもいいのに。


「そんなことないよ。春野にも色々と事情はあるんだろ?」

「えっ? ええ……まあ」

「だったら気にすんな。俺は全然平気だ」


 春野は少しは表情を緩めたけれども、まだ少し固い顔をしている。どうしたんだ?


「あのさ、秋月君。私のお願いを聞いてもらう代わりに、何か秋月君のお願いを私が聞くよ。それでおあいこってことでどう?」


 ああそっか。春野は自分だけが頼みごとをすることに、引目を感じているのか。そんなことはどうでもいいのに。


「あのさ、秋月君の頼みなら、なんでも聞くよ」

「なんでも?」

「えっ……? あ、うん。なんでも」


 春野は一緒、焦った表情を浮かべた。

 なんでも……というのは、きっと、つい口を滑らしたんだろう。


 さすがに料理教室に来た口止めくらいで、なんでも言うことを聞くヤツなんておらんだろ。でも、せっかくなんでもと言うんだから、さっきから気になっていることをお願いしよう。


「なるほど。じゃあ、春野が困るようなことをお願いしてみようかなぁ」

「ええっ?」


 もちろん、本気で春野を困らせようなんて思っちゃいない。けれどもちょっと焦る春野が面白くて、ついそんな意地悪な言い方をしてしまった。


「じゃあさ、春野。俺からのお願いは……」


 俺からのお願いを耳にした春野は、戸惑ったような引きつった笑顔になった。

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