第22話:春野日向はキャベツを切る

 キャベツの千切りをするために、まずはキャベツの葉を剥がして、芯の部分を切り落とすことを教えた。

 そして葉を何枚か重ねて、くるくると丸める。


 これで準備は完了だ。


 次に包丁の使い方を、立ち方から春野に教える。


 まな板に対して真っ直ぐに立った後、右足を半歩下げて、45度の角度でまな板にむかう。


「そうそう。それでいい」

「はい」


 そして包丁の握り方。

 右手の親指と人差指の腹が、それぞれ包丁の左と右に来るように包丁を握る。


 少し固い物を切るのに適した『押さえ』という握り方だ。


「うん、いいぞ。変に力を入れないようにな」

「はい」


 春野は真剣な口調で答える。

 まな板の上を見つめる横顔も、真剣そのものだ。


 ──それにしても、まつ毛の長い美しい横顔だな。


 あ、いや。そんなことに気を取られている場合ではない。


 春野はこんなに真剣に取り組んでいるんだ。俺ももっと真剣に取り組まないと、春野に悪いじゃないか。


「そう。そうやって、食材のキャベツに添える左手は猫さんの手の形な。そうしたら指を切らなくて済む」

「あ、はい」


 春野は答えながら、目を細めて軽くプッと笑った。


「ん? どうした?」

「いや、秋月君が、猫さんの手なんて言うから……」

「おかしいか?」

「いえ。可愛い。猫さんにゃんにゃん」


 か、可愛い?

 女の子に可愛いなんて言われるのは初めてで、どう切り返したらいいのかわからない。


 しかも付け足した『猫さんにゃんにゃん』が可愛い過ぎて、一瞬心臓が止まるかと思った。


 ──俺を殺す気か、春野!?


 それにしても顔が熱っつ!

 きっと俺の顔は、今真っ赤になってるんだろう。

 そんなところを春野に見られるのが嫌で、彼女の手元を指差しながら、ごまかすように指示を出した。


「えっと……き、切ってみようか。包丁を前に滑らせるようにするんだ。千切りはリズムが大事だけど、最初はゆっくりやってみよう」

「はい」


 春野はゆっくりと包丁を動かし始めた。


 しばらくして、春野は徐々に切るスピードを早くしていった。トントンという小気味のいい音が響く。


 ──思ったよりも、かなりスムーズだ。


 この前の不器用極まりない姿はどこへ行ったのか。

 もちろんまだたどたどしい包丁使いではあるけれど、前回の下手さ加減からすると、圧倒的に改善されている。


 春野の自主練習の効果が、かなり出ているに違いない。

 なんてヤツだ。この子、本当に努力家だ。


 キャベツの一巻きをすべて切り終えたところで、春野は一旦手を止めた。そして横で彼女の手元を見つめていた俺を振り返る。


「ど……どうかな……秋月君?」

「あ、いや……」


 俺は春野が家で相当練習したであろうひたむきさと、そしてそのおかげでここまで上達していることに胸が熱くなって、すぐには言葉が出ない。


「やっぱり……全然ダメ……かな?」


 軽く眉間に皺を寄せて、春野は不安げに俺の顔を覗き込む。


「いや……春野。すごいよ。すっごい上達ぶりだ」

「でしょーっ!」


 俺の言葉を受けて、春野は急に満面の笑みを浮かべた。破顔一笑というやつだ。


 いつも学校で見せているようなキラキラとした笑顔が眩しすぎて、俺は少しクラクラした。


 それは単に春野が美人だからというだけでない。

 彼女は自分がめっちゃ苦手なことに真剣に取り組んで努力し、見事に上達した。

 その結果得られた喜びを笑顔で表しているからこそ、余計に輝いて見えるのだろう。


 俺は春野の笑顔が、このうえなく素敵に見えて、ドキリとした。


「う……うん。大したもんだ。努力の賜物だな」

「いや、別に……大して努力なんてしてないけどね」


 春野は照れ隠しのような口調で言った。


「いいよ、隠さなくて。努力無しになんでもできるなんてことよりも、きっちり努力して成果を出せることの方が、何倍も凄いと俺は思うなぁ」


 本当に心からそう思う。だから俺の言葉は、しみじみとした口調になっていた。

 それを聞いて春野は、ちょっと驚いたような表情を見せた後、にこりと可愛い笑顔を見せた。


「ありがとう」


 春野は再びまな板に向かって、さらにキャベツの千切りをやり始める。


 黙々と黙々と。

 ただひたすらに、春野は真剣な顔つきでキャベツを切り続けた。




 30分間ほど経っただろうか。春野はその間ずっとキャベツを切り続け、俺は時々横からアドバイスを送った。


 まな板の横には大量の千切りキャベツが姿を現した。10人分どころではない。もっとたくさんだ。


 それにしても春野の集中力は大したもんだ。

 面白くもないであろう千切りを、一度の休憩もなく、ただ切り続けるのだから。


 だがさすがの春野も疲れてきたのか、大きく切りすぎたり、リズムが崩れたり、ミスが目立つようになってきた。


「春野。ちょっと休憩しようか」

「えっ……? まだ大丈夫」

「いいから休め。適度に休憩しないと集中力が持たないし、怪我の元だ」

「あ、うん」


 春野の顔には少し疲労の色が浮かんでる。本当に頑張り屋さんだ。


 教室の壁際に置いてある椅子を指差して座るように言うと、春野は今度は素直にうなずいて椅子の方に向かった。


 俺は講師用キッチンの裏側にある冷蔵庫から自家製の黒酢リンゴジュースを取り出して、コップに注いだ。


 椅子に座る春野の所に戻ると、春野は下を向いてじっとしている。やっぱり本当は、かなり疲れているのだろう。


「ほれ、春野。飲みなよ」

「えっ?」


 春野が顔を上げるとジュースの入ったコップが目の前にあったものだから、きょとんとしている。


「俺が作った黒酢リンゴジュース。疲れが取れるぞ」

「あ、ありがとう」


 戸惑いながらも笑顔を浮かべて、春野はコップに手を伸ばす。

 コップを受け取る時に、コップを持つ俺の指先を、上から春野の指先がきゅっと押さえるような形になった。


「あっ……ご、ごめん!」


 春野は慌てて手を引いた。


「えっ? いや、別に痛くもないし、大丈夫だよ」

「あっ……そう……よかった」


 そんなに強く押さえられたわけでもないし、全然痛くないのにわざわざ謝るなんて……それにちょっとあたふたした感じだし、変なやつだ。


 そう思って春野の顔を見ると、なぜか頬が少しピンク色に染まっていた。

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