第31話:春野日向は名前呼びを勧める
◆◇◆◇◆
土曜日は朝からずっと、日向の特訓をどうしようか、どうしたら料理上手に見えるだろうかと、作戦を考えていた。
もちろんそれまでにも色々と考えてはいたのだけれども、これという案が思いついていなかった。
包丁使い以外では、何をどうトレーニングしたらいいのか……
調理実習のメニューがわかれば対策も立てやすいんだけどなぁ。日向はメニューはわからないと言っていたし。
そうするとどんなメニューがきても役立つことを中心に鍛えざるを得ない。
つまり料理の基本中の基本を教えることと、他になにができるだろうか? しかも教えることができるのは、あと二回しかない。
本当に料理が上手になる必要はないけれど、料理が上手に見えるようにするためには……?
──うーん……なかなか厄介な命題だな。
これという決め手になることは、やっぱりなかなか思い浮かばない。それでもいくつかの練習案を考えて、日向がやって来る夕方を迎えた。
いつもより10分ほど早く身支度を済ませて、料理教室への扉を開く。室内を見回すと、女子大生の二人は既に来ていたけれども、日向の姿はまだない。
俺の姿を見て、母がちょっと驚いたように声をかけてきた。
「あら、珍しい。早く来たのね」
「え? ああ、暇だったからな」
「ふーん……」
母はニヤニヤしながら、意味ありげに呟く。何が言いたいんだよ?
「日向ちゃんなら、まだ来てないよ」
「あ、ああ。見りゃわかるよ。それにそんなことは気にしてない」
「ふーん……」
また母がニヤニヤしている。なにか言いたげだけど、母が期待しているようなことは何もない。
俺が日向が来るのを心待ちにしているなんてことはないのだ。俺は強く強く、そう言いたい。
そうこうしているうちに、がちゃりと教室の扉が開いた。そちらに目を向けると、日向が姿を現した。
彼女がここに来るのはたったの二週間ぶりだけど、ものすごく久しぶりのような気がする。
「こんにちはー!」
明るい笑顔で挨拶して、日向は靴を脱いでスリッパに履き替え、室内に入ってくる。笑顔が輝いてて、相変わらずの美少女っぷりだ。
母は「いらっしゃい」と返事して、さっきと変わらぬニヤニヤ顔で日向に話しかけた。
「待ってたよ。祐也なんか、もうそわそわしちゃってさ」
「えっ? そうなんですか?」
「してないだろ。由美子先生、あることないこと言わないでくれ」
「はーい」
俺が睨むと母は、ぺろっと舌を出してそそくさと離れて行った。
ホントに困ったバカ母だ。
そんなことを日向が本気にしたら、どうするんだよ。
日向はニコニコしながら俺の前を通り過ぎて、部屋の隅にショルダー鞄を下ろす。
そしていつもの花柄ピンクのエプロンと三角巾を付けて、ぱたぱたとスリッパの音を立てて、また俺の目の前に戻ってきた。
日向は俺の髪型とコックコート姿をチラチラと交互に見た。なぜだかわからないけれど、よく日向はこの目線の動きをする。
「久しぶりだね、祐也君」
「えっ? 毎日学校で会ってるのに?」
「あっ……そう言えばそうだね。いや、この格好の祐也君が久しぶり……」
日向は「えへへ」と笑いでごまかしている。
──そうなんだ。
彼女にとっては俺なんか、学校ではきっと眼中にないのだろう。だから久しぶりだなんて言葉が出たんだと思う。
「じゃあさ、春……いや、ひ、日向ちゃん……」
「あ、呼びにくいなら、春野でいいよ」
「あ、ああ。そうだな。春野……」
「うん」
横の方からコホンと咳払いが聞こえた。見ると母が睨んでいる。言いたいことはわかる。ちゃんと日向って名前で呼べって言いたいんだろ。
それってどうなんだよ。ホントに本人が望んでいることなのか?
一応本人に確認するのが一番だと考えた。
「あの……やっぱり名前で呼ばれた方が嬉しいものなのか?」
「いや、祐也君が呼びにくいなら、別にいいよ」
「呼びにくいならいいってことは、ホントは名前呼びがいいって意味にも聞こえるけど……」
「あっ、えっと……うん、そだね。名前呼びの方が、う、嬉しいかな」
日向はちょっと焦って、両手を顔の前で振って照れ笑い。顔が熱くなるほど照れてるみたいだ。
学校ではあんなに完璧なスーパー美少女を装って、慌てるところなんかほとんど見せないくせに、なんでこんなに照れるのか不思議だ。
「わかった。春野がその方が嬉しいって言うなら、やっぱ名前で呼ぶよ」
前回の時は本人の意向は無視する感じで、母が無理矢理俺に名前呼びをさせたような形だった。
確かに日向は、名前呼びは嫌じゃないとか新鮮だと言った。そしてお愛想のように『ちょっと嬉しい』とは言ってくれた。
だけどその嬉しいという言葉が本気なのかどうか、イマイチ自信がなかったんだ。
だからあまり気乗りがしなかったんだけど、春野がホントにそれを喜んでくれるのならば、ちゃんと名前で呼んだ方がいいよな。
「ひ、ひな……
日向って名前は、ちゃん付けが難しいな。なんでだろ? 母はうまくそう呼んでたのに。
──なんて戸惑っていたら、日向が苦笑いを浮かべた。
「日向って名前は、ちゃん付けがし難いってよく言われるの。だから『ひなっちゃん』か、『ひなた』が多いかな」
「あ、やっぱり。俺が特に不器用って訳じゃないんだ……」
「だね」
「でも呼び捨てなんて、畏れ多すぎる」
「あ、いいよ、呼び捨てでも。別に畏れ多くなんかないし」
日向はまた顔の前で、手のひらをせわしなくひらひらと横に振っている。
なんだろう……この『ぜひ呼び捨てをお勧めします』感は? 俺の思い過ごし……か?
「あの……ひなっちゃんとひなた。春野はどっちがいいの?」
「あっ、えっと……ひなた……かな」
──なんと。やっぱり呼び捨ての方がいい……とな?
さっきのは勘違いではなかったんだ。
日向は照れ臭そうに顔を少し伏せて、肩をすくめて上目遣いでポツリとそう呟いた。口を少し尖らせて、頬が赤らんでいる。
その仕草があまりにも可愛すぎて、破壊力抜群の攻撃だった。俺の心臓は急にドックンと悲鳴を上げて、死んでしまうかと思った。
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