第32話:春野日向は上達する

 日向は照れ臭そうに顔を少し伏せて、上目遣いで、呼び名は「ひなた」がいいと呟いた。


 その仕草はあまりにも可愛すぎて、破壊力抜群の攻撃だ。

 俺の心臓は急にドックンと悲鳴を上げる。

 マジで死んでしまうかと一瞬思った。


「あ、あ、わ、わかった。日向って呼ぶよ」


 俺は反射的にそう答えていた。

 学園のアイドル春野日向を俺が下の名で呼び捨てにするなんて、とんでもないことだと思い直したけれど、もう遅い。


「うん」とニコリと笑う日向の顔を見ると、今さらやっぱりやめておくとは言えなくなってしまった。


「じゃ、じゃあ早速今日の特訓を始めようか……ひなた……」


 最後の名前は聞こえないくらい小さな声になってしまったけど、俺はなんとかそれだけのセリフを絞り出した。

 でも顔が熱い。きっと今の俺、真っ赤な顔をしてるよな。

 それが恥ずかしくて、火照った顔を日向に見られないように、部屋の中央の調理台に顔を向ける。


「二週間ぶりだから、感覚を取り戻すために、また包丁使いの練習をしよう」


 俺がそう言ってキャベツを日向の前に置くと、彼女は「はい」と答えて包丁を握った。


 日向は真剣な顔になって千切りを始める。

 久しぶりだというのに、かなりスムーズな手つきだ。


 トントントンと小気味のいいリズム。前回よりもスピードが早くなっている。


「ほぉ……」


 思わずため息が漏れた。

 いやもうホント、大したもんだな。

 前回教えた身体の角度、包丁の握り方と角度。それらが教えたとおり、忠実に再現されている。


 初めてここに来た時の日向はなんと不器用なヤツかと思ったが、それはとんだ勘違いだった。

 彼女は教えたことをきっちりと吸収できる頭の良さと器用さを持っている。飲み込みがかなり早い。

 成績優秀で運動神経抜群なのだから、それもわかる。

 でも元々の飲み込みの早さだけではないはずだ。

 きっと家で自主トレをかなりしてきているであろうことは、容易に想像がついた。



 その後も大根の短冊切りも玉ねぎのみじん切りもスムーズにこなす日向を見て、これだけでも調理実習レベルなら充分に料理上手に見えると確信した。


「凄いな……」


 ひと通りの包丁練習を終えて、流しで手を洗う日向にそう言うと、彼女は「へへへ」と照れ笑いをした。

 学園のアイドルの照れ笑いのなんて可愛いこと。


「それだけ包丁が使えたら充分だな」

「もう料理界の巨匠並みかな?」


 日向は悪戯っ子のように、ニッと笑みを浮かべる。


「そりゃ、言い過ぎだ。そこまで行くにはまだまだだぞ」

「そっかー、残念」

「そりゃそうだ。そんな簡単に巨匠並みになれるんなら、俺だって形無しだ」


 苦笑いで言い返したら、日向はちょっと真面目な顔つきになった。


「そうだ。祐也君の包丁さばきを見てみたいな」

「えっ……? いや、最初にお手本で見せたろ?」

「お手本の見せ方じゃなくて、ちゃんと真剣に切るのを見てみたい」


 はぁ?

 日向の前で自分の真剣な包丁さばきを見せるなんて、照れ臭いじゃないか。


「なんで?」

「なんでって……もっと上手な人の包丁使いを間近で見て勉強したいから」


 日向は目を輝かせて、興味津々といった顔で俺を見つめている。

 うっわ、ダメだ。

 こんなに期待感に溢れた目で見つめられると、なんとも断りにくい。


「じゃあ、ちょっとだけ……な」

「うん! ありがとう!」


 俺は千切り用のキャベツを用意して、まな板に向かい、右手で包丁を握った。横で日向が真剣な顔で見つめているから、少し緊張する。


 彼女に悟られないように軽く深呼吸をして、手元に集中をする。そして包丁を動かし始めた。


 ストトトトという小気味良い音が響き渡り、次々と千切りが出来上がっていく。


「うわぁ……」


 日向の驚く声と、その後にため息が耳元をくすぐる。

 その感触が脳に心地よい刺激を運んでくる。


 つまり。

 俺は。

 自分の技に日向が感心してることに、もの凄く喜びを感じている。


 そしてあっという間に一人前分の千切りを終えた。

 俺はふうっとひと息吐いてから、横の日向を見る。

 彼女はまな板の上の千切りから目線を俺の顔に移して、爛々と輝くような目つきを俺に向けた。


「すっごく早いし、キャベツも細くて均一で、とても綺麗に切れてる!」

「お、おう。まあな」

「凄い! やっぱり祐也君って凄いよ! 尊敬しちゃうなぁ!」


 日向は感極まったような声で、俺の包丁さばきを絶賛してくれた。

 それが決してお世辞ではないことは、彼女の大きくて綺麗な目がうるうると潤んで、キラキラと輝いていることからもわかる。


 両手を顔の前で組んで、なんというか……まるで憧れの何かを見つめるような、ほわんとした顔つきで俺を見ている。

 ここまで褒められるとは正直言って予想していなかったし、背中がむず痒い。


 ──いや、正直言うと、めっちゃ嬉しいんだけど。


 だけど日向ほどの美少女に見つめられるなんてことに慣れていないので、こんなキラキラ目で見つめられたら照れ臭すぎて、どう振舞ったらいいのかさっぱりわからない。


 爽やかに、ありがとうぜっ、なんて言えたらいいのに。

 ああ、俺ってヘタレだ。


「あ、ありがと。じゃあ続きをやろうか」


 ああ、彼女ができたことのない男の悲しさよ。

 全然爽やかでもなく、キョドった感じで礼を言ってしまった。


 そして日向のあまりの褒め具合と、うるうるとした視線にいたたまれなくなって、俺は無理矢理話題を切り替えた。

 

「今日は味付けと盛り付けのレッスンをしようと思ってる」


 俺の言葉に日向は我に返ったように笑顔になって、小さくガッツポーズをした。


「え? やった! よろしくお願いします、祐也大せんせっ!」


 からかうように言う日向の、相変わらずキラキラとした瞳で俺を見つめるその態度に、俺は少し頭がクラクラするような思いがした。

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