第40話:春野日向は逡巡する★
俺に対するお礼なんて次の料理教室の時に言えばいいのに、なぜわざわざ日向は今日のうちに我が家までやって来たのか。
それを考えた時に、既に目的を果たした日向には、もはや料理教室に通う理由がないという考えに行き着いた。
そう考えると頭の中がクラクラした。そして先ほど日向との間に見えた白い糸が、細くなっていくように感じる。
いつ日向が『もうここには来ない』と言い出すのか……
俺はそれを恐れながらも、何気ないフリをして日向に声をかけた。
「ホントにわざわざお礼になんか来なくてもいいのに……」
でも、日向がもう料理教室に来なくなることを恐れるなんて、違うような気もする。
俺と日向は同級生ではあるけれど、元々住んでいる世界は違うも同然だ。たまたま日向がウチの料理教室に”生徒として”やってきただけのこと。
そう──俺と日向は料理教室の講師と生徒として、関わりができただけだ。
だから教室に通ってくる必要性が無くなれば──友達同士であると認め合ったとはいえ──また今までどおり違う世界の住人として、あまり関わることもないまま高校生活を送ることは……極めて当たり前のことだ。
もしも俺が今後も日向と仲良くしたいなら、単に学校でも気軽に日向に話しかけるとかしたらいいだけの話じゃないか。
……いやまあ、高城のガードもあるし、料理教室に通ってたことは内緒だし、日向は高嶺の花だし……実際はそんな簡単じゃないのはわかってるんだけどな、あはは。
だけど、日向がいずれ料理教室に来なくなる日が来ることは、初めからわかっていたことだ。それが今日になるというだけのこと。
だったら俺はあっけらかんとした態度で、その事実を受け入れるべきだ。そうでないと日向が、料理教室を辞めることに引け目を感じてしまうだろう。
「あ、あのさ日向……」
「うん?」
「学校でみんなに料理上手なところを見せることができたんだから……日向ももうこれで、ここに通う必要はなくなったな」
「え……?」
日向は一瞬俺の言葉の意味がわからなかったのか、きょとんとした顔になった。そしてさっと表情が強張って、「あ……」と、ため息のような言葉を漏らした。
「そうだね。由美子先生のご好意で、タダでここに通わせてもらってたのをすっかり忘れてた。ごめんね祐也君」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「私ってバカだ。そんな大事なことを忘れていたなんて、なんて恩知らずな人間よね。ホントにごめんね。目的を達成したんだから、これ以上タダで通うなんて迷惑だよね」
「いや、違うよ日向。だから俺が言いたいのは、ウチが迷惑とかじゃなくて……日向の方に通う理由が無くなったんだよねってことだよ」
俺の言葉に日向は黙り込んで、何かを深く逡巡しているような素振りを見せた。
この態度を見ると、元々通うのを辞めると決めてここに来たのではなさそうだ。
でも俺が早合点して、もう来る必要はなくなったと言ってしまったばかりに、日向は悩んでしまっている。
人のいい日向のことだから、タダで通い続けることに抵抗感があるのかもしれない。
それならば──気にすることはないから通い続けろよと言えばいい。
だけど俺は、それもできずに黙り込んでしまった。
日向がここに通い続けることで、いずれ変な噂になったらどうしようかと気になるからだ。
それは、同級生の男子の実家に毎週通い続けているなんて、なにかあるんじゃないかっていうような噂。
日向は学園のアイドルとして、みんなの注目度が高い。それに本物のアイドルとしてデビューする可能性もあるし、あまり変な噂が立つのは、将来のことを考えても避けた方がいいように思う。
だからもし日向の方から通うのを辞めると言うのなら、それを止めるべきではないのだ。
そう考えて俺は、日向の決断を黙って待っていた。
「そうだね、わかった。ここに通うのを辞めるよ。じゃあね」
日向は悲しげな顔で目を伏せてそう言うと、くるりと踵を返した。
──そう。これでいいんだ。俺は日向を止めるべきじゃない。
そして日向と俺の間につながった白い糸が、ぷつんと切れた……ような気がした。
「待って!」
──え?
自分の行動に自分でも驚いた。
頭では確かに、止めるべきじゃないと考えていたのに……俺の身体は頭とはまったく違う動きをしていた。
口からは日向を止める言葉が飛び出し、そして俺の手は向こうを向いた日向の手を後ろからがっしりと握りしめていた。
まるで俺の心が、頭に反乱を起こしたようだ。
なぜなのかは自分でもよくわからないけれど、俺の心は日向をこのまま帰してなるものかと願っている。このまま日向を帰してしまうと、本当にもう俺たちの関係は切れてしまうと俺の心は感じている。
その俺の心が、頭で考えていることなんてクソ食らえだとばかりに身体を動かした。
いや……そんな感覚が……した。
「えっ?」
日向は驚いた顔をして振り返る。その日向に向けて、俺の心は自分でも思いもよらないセリフを吐いた。
「あのさ、日向。昨日の晩、俺が作ったケーキがあるんだ。今日うまくいったお祝いに、一緒に食べないか?」
「あ……う、うん」
日向は頬を赤らめて、少し潤んだ目で俺を見つめたあと、こくりとうなずいた。
「あの……祐也君……」
「ん?」
「手……」
「おわっ! ご、ごめん!」
あまりに必死だったからか、ずっと日向の手を握ったままだった。
日向は特に怒ってるふうではなかったけれども、俺は慌てて手を離して、何度も頭を下げて謝った。
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