第41話:春野日向はケーキを食べる

 もうウチの料理教室に通うのを辞めると言った日向の手を、俺は思わず握って彼女が帰るのを止めた。そして自分が作ったケーキを一緒に食べないかなどという言葉が、思いがけず俺の口から出た。


 日向は顔を赤らめて「うん」と、コクリとうなずく。


 俺は自宅の玄関から鍵を開けて中に入り、料理教室の扉を内側から開けて、日向を迎え入れた。母はどこかに出かけているようで、家の中には誰もいない。



「そこの椅子に座ってて」

「うん」


 日向にはいつも実習をしている調理台の所に座ってもらい、冷蔵庫から昨日作ったガトーショコラケーキを取り出す。


 ガトーショコラとはフランス語で「焼いたチョコレート菓子」の意味だが、日本では一般的に、生地にチョコレートを混ぜ込んで焼いたケーキのことを言う。


 昨晩少し落ち着かなかったので、気持ちを落ち着けるために作ったケーキだ。


 水分が飛ばないようにピタッとラップをして冷蔵保存しておけば、作ってから丸一日経った頃が一番しっとりとして美味しい。


「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「あ、紅茶で。コーヒーは苦くて苦手なんだ……」

「はい、かしこまりました、お客さま」


 ふざけてウェイターのように腰を折ってお辞儀をすると、日向はようやく固い表情を崩して「ふふふ」と軽く笑みを浮かべた。


 ケーキサーバーで二人分を切り分け、カップに注いだ紅茶と共に日向の前にコトリと置く。


「どうぞ」

「ありがとう」


 俺も向かい側に自分用のケーキと紅茶を置いて、そこに腰掛けた。


「とにかくおめでとう」

「ありがとう」


 紅茶で乾杯というのも変だけど、お互いに紅茶のカップを少し掲げて、乾杯の真似事をした。湯気が立ち昇る紅茶の優しい香りが、先ほどまでの張り詰めた気分を和らげてくれる。

 日向はケーキをフォークでひと口分すくって、口に入れた。その瞬間少し目を見開いて、びっくりしたような声を上げた。


「なにこれ? 美味しーい!」

「だろ? 自信作だ」

「濃厚なのに甘すぎないしコクがある。こんなに美味しいガトーショコラは初めて! うーん、この味、幸せ過ぎるぅーっ!」

「あはは、まるで食レポだな」

「いやホントに美味しいよ! 舌がとろけそう。さすが祐也君」


 そう言う日向は、ホントにもうとろけてしまいそうな顔をしている。いつもながら、ここまで美味しい顔をしてくれると嬉しくて仕方がない。


「ありがとう。そこまで言ってくれたら、作った甲斐があるよ。ところで……」

「ん?」

「さっきはごめんな」

「さっきって……何?」

「あ、いや……また手を握ったこと。二度としないなんて言っといて、またやってしまった……」


 日向は口に手を当ててクスリと笑う。


「大丈夫。あの時も言ったけど、別に嫌じゃないから」

「そ、そっか……」


 日向の『嫌じゃない』という言葉がかえって照れ臭くて、なんだか少し気まずい空気が流れる。


「それに……祐也君が私の手を握るのは、いつも私のためを思ってくれてのことだからね」

「え? 日向のことを思って?」


 そんな意識はなかったから、何のことなのかわからない。どういう意味だ?


「最初は私が急に料理教室から帰ろうとした時だったし、2度目は間違えてお米に洗剤を入れようとした時だった」

「あはは、そうだね」

「最初の時は、せっかくここに来たんだからちゃんと料理を習って行けよって、祐也君は私を止めてくれたんだよね」

「あ、いや……あの時は俺のせいで日向が帰ったら、由美子先生にどやされるかと思って焦って止めたんだ……」

「えっ……?」


 日向は急に動きが止まって、きょとんとした。


「そうなんだよ。日向が言うような、日向のためを思っての行動じゃないよ。申し訳ないけど」

「ふふふっ……祐也君って正直だね」

「えっ……? お、おう。真面目で誠実なのは俺の取り柄だし」

「あはは、そこが祐也君のいいところよね」

「そっ……そっかなぁ、あはは」


 女の子に自分のいいところだなんて褒められるのは今まで経験がない。

 だからめちゃくちゃ照れ臭い。だけど嬉しい。


「でもそれは、日向が俺を良いように捉えすぎだよ」

「ううん。結局ああやって祐也君が引き留めてくれたから今がある訳だし……さっきだって……」

「さっきだって……?」

「うん。祐也君は私がここに来るのは嫌なのかと思ってた。それならもう二度とここに来れないのかと思ったら悲しくなっちゃって……」

「え? 日向がここに来るのを嫌だなんて、思う訳がないだろ?」


 なんでそんなふうに思うのだろう。そんなはずはないのに。


「祐也君って学校でもほとんど女子とは話してないし、わいわい騒ぐ女の子達をなんだか面倒臭そうな目で見てるから……」

「あ……」


 それか。

 その指摘は間違ってはいないけど……でも別に女子が嫌いな訳ではない。話しかけたりするのが苦手なだけだ。特にあの高城みたいなタイプは余計に苦手。


「だからクラスの女子がここに来るのなんて、祐也君はホントは嫌なのかなぁ……なんて思ったりした」

「いや、それは誤解だ。少なくとも……日向に関してはそんなことはない。日向は俺の大切な友達だし」

「あ、うん……ありがとう。だから私が帰ろうとするのを、祐也君が止めてくれて嬉しかった。温かい手だった……」


 帰るのを止められて、嬉しかった……?

 日向が?

 マジで?

 しかも温かい手だなんて、嬉しそうに言ってくれた……


「いや……俺は逆に、日向がもうここに来る気がないんだと思ってた。学校で料理上手に見られるっていう目的を達成したら、ここに来る意味なんてもうないし」

「そんなことないよ。ようやく料理の楽しさがわかってきたし、これからは人に見られるためじゃなくて、ホントの意味で料理上手になりたいもん」


 日向は綺麗な二重の目を細めて穏やかに微笑みながら、しみじみとそう言った。

 やった!

 日向はまた引き続いて、ここに来てくれるんだ。


 俺の目には──さっき見えた日向との白い糸が、またはっきりと繋がったように見えた。

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