第16話:春野日向は説得される

 母の口車に乗せられて……あ、いや、母の説明を聞いて、なんと春野は正式にウチの教室に毎週通うことになった。再来週から通い出すらしい。


「じゃあ春野さん。こっちに来て、申込書だけ書いて帰ってねー」

「あ、はい」


 春野は一旦履いた靴をまたスリッパに履き替えて、教室内に上がってくる。そしてボールペンを手にして、調理台の上で申込書に記入をした。


「あの……先生」

「なに?」


 春野は記入し終えた申込書を母に手渡しながら、おずおずと切り出した。


「やっぱり無料というのは申し訳ないので、お金を払わせてください」

「春野さん」

「はい?」

「あなたは同級生のおうちで晩ご飯をご馳走になったら、そこの親御さんにお金を払う?」


 母は両手を腰に当てて、にこにこ笑いながら首をコテンと横にかしげた。


「いえ……」

「そうよねー もしも春野さんが払うって言っても、そこの親御さんは、絶対にお金を受け取らないよね」

「あ、はい」

「春野さん、あなたは祐也の同級生よね」

「はい」

「あなたみたいな可愛い同級生がウチに遊びに来てくれたら、私も嬉しいわぁ」

「あ、いえ。ありがとうございます」

「で、ウチはたまたま料理教室をやってるから、食材がここにある。だからご飯を食べて帰ってもらうの」

「えっ……?」

「で、たまたま私が料理の講師をやってるから、ついでに春野さんに料理を教える。だからもちろん、お金なんかもらえない」

「は、はぁ……」

「You see?(わかった?)」


 母はウインクしながら、人差し指を春野の鼻に向けて指差す。アメリカ人かよ。


「えっ? あ、アイシー」

「はい! じゃあ春野さん、そういうことでっ!」


 さすが母さん。軽々と春野を説得してしまった。屁理屈をこねさせたら超一流だ。そして勢いで、なんだかわからないうちに納得させてしまう。

 なんでいきなり英語が出てくるのかは、よくわからないけど。


「あ、春野さん。春野さんがさっき祐也に言ってたけど、料理教室に通うってことは、もちろん私も誰にも言わないから、安心してね」

「あ……本当に失礼なお願いで申し訳ありません」

「いえいえ、いいのよ。誰にだって色々と事情はあるだろうし。ねえ、祐也」

「えっ? あ、ああ。そうだな」

「あんたも学校では、知らん顔をするのよ」

「わかってるって」

「よしよし。まあこんなに可愛い春野さんとあんたが学校で親しくしたら、学校中の男子にあんた、袋叩きにされるよね。だからより一層、気をつけなさい!」

「ああ、そうだな。あはは」

「あ、いや、先生。そういうわけじゃなくて……」

「いいからいいから、春野さん。祐也は祐也でちゃんとわかってるって。春野さんの迷惑にならないように、ちゃんとした行動をするはずだから」

「は、はい。お気遣い、ありがとうございます!」


 春野は爽やかな笑顔で母に礼を言ったあと、俺の顔を見た。


「秋月君もありがとう。再来週から、よろしくお願いします」


 そう言って、丁寧に腰を折って深々と頭を下げる。


「あ、こちらこそ。よろしくお願いします」


 俺もつられて、深々と頭を下げた。

 料理教室の中で高校生が二人。最敬礼をしているのがなんとなく可笑しくて、二人とも頭を上げた途端にお互いの顔を見て、大爆笑してしまった。



 まあとにもかくにも、春野は再来週から、毎週一回、ウチの料理教室に通うことになった。


 春野自身は、本当にそれでいいのだろうか。

 そんな俺の心配をよそに、春野は笑顔で手を振って、帰って行った。



 春野が出て行ったあと、今まで賑やかだった教室内が急に静かになる。


「なあ、母さん」


 母は春野が出て行った扉をしばらく眺めていたけれど、ふと振り返って「由美子先生でしょ!」と言った。


「なに言ってるんだよ。生徒さんは全員、もう帰ったんだからいいじゃんか」

「あ、ああ……そうね。なに?」

「春野は、あれでホントによかったんだろうか?」

「なにが?」


 母はちょっと怪訝そうに、眉を寄せる。


「春野は本当は、俺がいるここに通うのが嫌なのに、それを言い出せなくて、仕方なく通うなんて言っちゃったんじゃないのかなぁ?」

「祐也。あんたもまだまだだね」

「なにがだよ?」

「女心がわかってない」

「女心? どういうことだよ?」


 母は俺の顔を見て、意地悪そうに、にやっと笑った。


「春野さんはあんたのことを嫌がってなんかいないよ。それどころか、好意を持ってると思う」

「こ……好意? そんなバカな。アイツは学園のアイドルだぞ!」

「なに言ってんの祐也。アイドルだってお姫様だって、恋くらいするでしょ?」

「こ、恋? そりゃ恋もするかもしれないけど、そのお相手は俺じゃないって言いたいんだよ」

「それはそうよ。祐也に恋をするってところまではいかないけど、だけど好意は持ってると思うなぁ」

「それはない。そんなはずはない。春野はすっごいモテるんだぜ。そんなヤツが、俺に好意を持つなんて、あり得ない」

「まあまあ祐也。そんなに自分を卑下しなさんなって。少なくとも春野さんは祐也を信頼してるし、頼りになると思ってるよ」

「そうかなぁ……」

「そうだよ」

「母さんは、俺のことを買い被り過ぎだ。親バカもいいとこだよ」

「でもあんたは料理講師なんだよ。信頼されて頼られなきゃ、どうすんの?」

「あ、ああ。そういう意味ではそうだな」

「でしょ?」


 そりゃそうだ。そういう意味なら、母の言うとおりだ。春野が俺に好意、なんて言い出すから、ちょっとびっくりしたじゃないか。


 まあいずれにしても、再来週から毎週一回、春野はこの教室にやって来る。

 今まで同じクラスであっても、別世界の住人だという気がしていた春野はるの日向ひなた


 それがほんの少しかもしれないけれど、同じ世界の空気を吸ったような、そんな不思議な感覚が俺を包んでいる。



 ──でもまあ、そうは言っても。


 同じ世界の空気を吸ったなんて言っても、それはやはりほんの少しだけだ。春野と俺では、根本的に住む世界が違う。


 彼女はデビュー確約でスカウトされたのだし、いずれは本当に手の届かない世界に行ってしまうのだろう。


 そしてそんな未来の話でなくても、また学校に行けばほとんど接点のない日々になる。

 そんなこともあって、再来週から毎週春野がここに通ってくると言っても、イマイチ実感がわかないところもある。



 ──この時の俺は、素直にそんなふうに思っていた。そう、なんの疑いもなく。

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