第3話:春野日向はやっぱり帰る
思わず春野の手を握ってしまったことを謝った時に見せた、彼女の恥ずかしそうな表情があまりに可愛くて、鼓動が跳ね上がった。
俺は元々、春野はすっごい美人だとは思っているけど、恋愛感情はゼロだ。
テレビのアイドルがいくら可愛くても恋愛感情になんてならないし、そこらで見かける女性が凄い美人であっても、もちろんいちいち好きになんかならない。
テレビの芸能人に熱を上げるヤツや、コンサートに行って『推しのあの子が俺に笑いかけてくれた』なんて無邪気に喜んでる同級生を見て、コイツら幸せな脳をしてるなぁ……なんて、冷めた目で見ている。
そんな勘違いを俺はしないし、単に可愛いからというだけで、女の子を好きになるなんて、自分には理解できない。
春野を見ても同じで、確かに想像を絶するくらい可愛いとは思うが、好きとかいう感情を持ったことなんて、正直これっぽっちもない。
ろくに話したこともないくせに、『春野さんが好きだ』なんて言ってるヤツを見て、なんでそうなるのか、不思議に思っていた。
だけどそんな俺でも、今の春野の可愛さには思わずドキドキしてしまった。
その可愛さは、控えめに言っても凄いと思う。
まあ、だからと言って、もちろんいきなり恋愛感情を持つわけでもないけれど。
「でもごめん、秋月君。やっぱり私帰る」
「えっ……? そんなに……手を握られたの、嫌だった?」
「そ、それは違う。だけど……ごめん」
春野は花柄ピンクのエプロンと三角巾を外し、部屋の隅に置いてあったショルダーバッグを両腕に抱えて、母の方を向いた。
「先生。ホントにごめんなさいっ!」
引きつった顔でそう言って深々と頭を下げると、春野はパタパタとスリッパの音を立てて、玄関に向かって走る。
俺は春野を追いかけて行って、玄関で
「なあ、春野。俺が悪かったよ。講習に戻ろうよ」
「ごめんなさい。別に秋月君は悪くないの。だけど今日は帰る」
そう言い切る春野に、俺はかける言葉を失った。
「あ、そうだ秋月君。今日私が料理体験教室に来たことは、学校では誰にも言わないで」
春野は真顔で、そう言った。
眉尻を少し下げたその表情は、懇願するようだ。
「お……おう。わかった」
俺の言葉を聞いて、春野はホッとしたように安堵を浮かべる。
そしてくるっと踵を返して、ドアを開けて外に出た。
俺はその後ろ姿を、俺はただ呆然と見つめることしかできなかった。
春野は帰ってしまったけど、他に三人いる生徒さんを放っておくわけにはいかない。
だからその後、俺と母は予定通り体験教室を始めた。
だけど俺は、春野のことが頭から離れない。
そんな状態ではあったけど、俺はなんとか講師の仕事を卒なくこなした。
料理教室が終わった後、母から「学校でちゃんとフォローしときなさいよ」と釘を刺された。
「うん、わかった」
いきなり手を握ってしまったことは、新学期が始まったら、学校で春野にもう一度謝ろう。
──そう考えた。
それから五日が経ち、二年生の新学期初日になった。
俺は登校してすぐに、廊下に張り出されたクラス分けの掲示を見に行った。
自分の名前は、二年二組に見つけた。
続いて春野の名前を探して、視線を
彼女とは一年生で同じクラスだったけど、ほとんど話をしたことはない。
ましてや違うクラスになって、話をする機会なんてあるだろうか。
学校のアイドルとして、眩いばかりの輝きを放つ春野。
そんな彼女にこちらから気軽に話しかけるほど、俺はコミュニケーションには長けてはいない!
まあ、自慢げに言うことじゃないけどな。
そんなことを考えながら掲示板を見回すと、春野の名前はすぐに目に飛び込んできた。
──あ。
同じ、二年二組。
これならなんとか、春野と話をするチャンスがあるかもしれない。
だけど春野は、ウチの料理教室に来たことを、学校では誰にも言わないでほしいと言った。
やっぱり自分が料理ができないことを、他人に知られるのが嫌なようだ。
──となると、同じクラスであっても、なかなか気軽に声をかけにくいな。
元々俺と春野は接点がないし、俺みたいな目立たない男と、いつも人が周りにいてアイドル扱いされてる春野が二人きりで話をするなんて、他の生徒からしたら不自然極まりないよなぁ。
料理教室から春野が急に帰ってしまったことをフォローしたいけど、うまくできるだろうか。
──不安しかない。
でもまあ、ぐじぐじと考えても、何も始まらない。
とにかく俺は二年二組の教室に向かった。
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