第27話:友達記念日★
「私、祐也君に下の名前で呼ばれるの、別に嫌じゃないよ」
春野は少し目を細めて、照れ臭そうにそんなことを言った。照れ臭そうではあるけれど、冗談っぽくはなく、春野は至って真面目に言っているらしい。
「えっ……? ホント?」
「うん。ホント」
──俺に下の名前で呼ばれるのは嫌じゃない。
俺はそのセリフを頭の中で何度も何度も反芻する。
どういう意味だ?
もしかして春野は俺に好意を持っているとか?
そんなことが頭に浮かんでから、はたと気づいた。
──いやいやいや、違うだろっ!
勘違いするなよ俺っ!
下の名前で呼んでもいいというのは、確かに春野は俺を嫌ってはいないと思う。だけど好意を持っているのかというと、それはまた別の話だよな。
事実、『嫌じゃない』とは言ったけど『嬉しい』とは言ってない。
俺はそう気づいて、ほっと胸を撫で下ろした。
──早めに気づいて良かった。
もしも春野が俺に好意を持っているなんて思い込んでいたら、俺はとんだ勘違い男になっているところだった。
そう。アイドルのライブに行って、アイドルの女の子が自分に笑いかけてくれたとか、もっと重症なヤツはそのアイドルが自分に好意を持っているとか。
そんなイタイ発言をする勘違い男子を見て、頭がおかしいのかと、俺は思っていたではないか。
危うく俺自身が、そんなイタイ勘違い男になるところだった。ふぅ、危ない危ない。
春野はテレビのアイドルと同じく誰にだって愛想がいいし、他人のことを悪く言わない良い性格だ。
だからこそ、この子は自分に好意を持っているなんて勘違いをしないように、いつも気をつけないといけない。
「ほらほら祐也。日向ちゃんがこう言ってるんだから、ちゃんと名前で呼んであげなさいって!」
「えっ? あ、ああ。ひ……ひ、
「は、はい!」
ありゃ。母の勢いに押されて、ついつい名前で呼んでしまった。かなり噛んでしまったけれど、なんとか日向という名前が口から出た。
自分が名前で呼ばれた時と同じか、それ以上に背中がゾクゾクする。なぜ女の子を下の名前で呼んだだけで、そんな感覚になるんだ? 不思議だ。
「どう、日向ちゃん? 祐也はまだ慣れなくてたどたどしいけど、すぐに慣れるでしょ。こんな感じでいい?」
「あ、はい。なんか新鮮な感じが……」
「そう?」
「ええ。周りに名前で呼んでくれる男子はいないから、なんだかちょっと嬉しいです」
母にそう答える春野……いや、日向の顔は耳までトマトみたいに真っ赤だ。しかもかなり熟したトマト。
やっぱり名前で呼ばれるのは恥ずかしいんだろうか。
そして──『ちょっと嬉しい』って?
「そうなの? 周りにいないの?」
「はい」
そりゃそうだろう。超高嶺の花でアイドルの日向を、名前呼びできるほど勇気のある男子なんているはずがない。
それに学校では、日向は特定の男子と親しくしているのを見たことがない。女子の友達は多いけど、やっぱり男子はなかなか近づけないオーラが漂っているのだ。
「そっか日向ちゃん。これからも祐也を友達としてよろしくね」
母は目を細めて、まるで自分の娘に向けるような優しい眼差しで日向を見ている。
ウチは一人息子だから、よく母は女の子も欲しかったと言っていた。だから日向のことが自分の本当の娘のように思えているのかもしれない。
「はい。こちらこそ」
日向は母に微笑み返した後に、俺を向いた。
「今日4月25日は、私たちの友達記念日だね、祐也君」
「えっ? あ、ああ、そうだな」
日向は突然、そんな可愛いことを言った。
友達記念日──
4月25日なんて、世間的にはなんてことのない日。だけど俺達にとっては、俺と春野日向がお互いに友達だと認め合った日。
日向は何気なく言っただけなのかもしれないけれど、俺にはこの日が一年の中でも、とても特別な日になったように思えた。
そんな俺の思いを知ってか知らずか、日向は俺と母に微笑んで、帰りの挨拶をした。
「じゃあそろそろ帰ります」
「ええ、気をつけてね日向ちゃん」
俺は日向の顔をみて、家でも包丁の練習をしろよというセリフが頭の中に浮かんだ。
けれどもそんなことを言わなくても、この子は絶対に自分で努力するはずだと思い直して、そのセリフは心の中にしまい込んだ。
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん。バイバイ」
日向は笑顔で手を振りながら教室の玄関ドアを開けて、帰っていった。
来週の土曜日はゴールデンウィークで料理教室は休み。だから5月20日の調理実習までに、日向がここに来るのはあと2回か……
俺は心の中で、そんなことを呟いた。
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