第25話:春野日向は名前を呼ぶ

 母が春野の両親を話題にしたら、春野は言い淀んだ。もしかしたら何か事情があるのかもしれない。母もそれを敏感に感じ取って、急に話題を変えた。


「ねえ、そんなことよりも春野さん!」

「はい?」

「秋月先生って言い方はややこしいから、これからは由美子先生って呼んでくれる?」

「あ、はい。そうですね。わかりました、由美子先生」

「はい、よくできました」


 母は春野に微笑みかけて、その後にとんでもないことを言い出した。


「じゃあついでに、祐也のことも下の名前で呼んでくれる?」

「いや、待てよ由美子先生。俺は秋月君でいいじゃないか」

「何言ってるのよ祐也。私は『あきづ……』まで言われたら、自分のことかと思っちゃうんだから、ややこしいのよ」

「はぁっ? 慣れれば大丈夫だろ?」

「慣れないからダメだって言ってるの! だから他の生徒さんにも、あなたのことは祐也先生って呼んでもらってるでしょ?」


 あ、そう言えばそうだ。今まではてっきり生徒さんが、その方が呼び分けがしやすいから、自主的にそう呼んでいるのかと思っていた。

 あれは母さんが生徒さんに、そう呼ぶように脅して……いや、お願いしていたのか。


「じゃあ……祐也せんせって呼んだらいい?」


 春野がちょっと冗談めかして、楽しそうにそう言った。

 ──いや、やめてくれ。俺の方が照れ臭すぎて死にそうだ。


「同級生なんだから、先生なんて呼ばれるのは違和感がありすぎる。やめてくれ」

「じゃあ春野さん。祐也のことは、『祐也君』でどう? なんなら『バカ祐也ーっ!』って呼び捨てでもいいけど」

「ちょっと待てよ、由美子先生! なんでバカが付いてるんだ!?」

「いいじゃない。バカなんだから」

「おいおいおい。こらこらこら。同級生の前でバカ扱いはやめてくれるか?」

「じゃああんたは自分はバカじゃないって言い切れるのかしらっ?」

「あ、いや、バカだけど……」

「ほらぁーっ!」

「うっせぇ!」


 目の前で俺と母の極めてバカバカしいやり取りをぽかんと見ていた春野が、突然プッと吹き出して笑った。

 ──くそっ、恥ずすぎる。


「あ、ほら由美子先生! 春野に笑われたじゃないか!」

「あ、ごめん秋月君!」

「いや、別に春野は悪くないよ」

「ほらほら、秋月君じゃなくて『バカ祐也』って呼ばなきゃ!」

「あ、それなら『祐也君』の方がいいです」

「じゃあこれから『祐也君』って呼んでね」

「あっ、はい。そうします」


 ちょっと待て。これじゃほとんど誘導尋問……というか誘導説得とでも言うのか。

 心理学の本で読んだことがある。ダブルバインドってやつ。


 するかしないかという選択肢ではなく、どちらをするかという選択肢だけを提示することで、どちらを選んでも相手にその行動を取らせようとする心理テクニックだ。


 俺を下の名前では呼ばないという選択肢を、なくしてしまう母のトーク。

 しかも今回の場合『バカ祐也』を春野が選ぶことはあり得ないから、結局は『祐也君』と呼ぶことを受け入れさせてしまった。まるで悪徳商法並みだ。


 恐ろしいバカ母だ……


「春野。同級生を名前で呼ぶなんて、仲の良い友達じゃないとしないことだし、由美子先生の言うことなんか聞かなくていいよ」

「えっ? 秋月君と私は、仲の良い友達……じゃないの?」

「えっ……?」


 春野の言葉の意味が一瞬わからなくて、思わずぽかんと彼女の顔を見てしまった。春野は少し眉尻を下げて、戸惑った表情をしている。


 俺と春野が、仲の良い友達?

 ──いつから?


「あ、ごめん。祐也く……いえ、秋月君は、そう思ってなかったんだね……」

「え? ええっ!? ちょちょちょ、ちょい待ってくれ、春野! 俺は春野がそう言ってくれるならもちろん嬉しいけど、まさか春野は俺を仲の良い友達だと思ってくれてんのか?」

「だって友達だから、特別扱いして私に特訓してくれてるんでしょ? そこまでしてくれるなんて、私にとっては秋月君は仲の良い友達以外の何者でもないよ」


 俺と春野が、仲の良い──友達?

 学園のアイドルで、カーストトップ中のトップで、高嶺の花の春野が?

 仲の良い友達なんて少ない俺と?


 春野は、そんなふうに俺のことを思ってくれてのか……

 いやいやいや、それって社交辞令だよな?

 それとも本気なのか?


「秋月君の方は迷惑だったかな? ごめんね。勝手に私だけがそんなふうに思っちゃって。ごめん」

「いや、ちょい待て春野! 謝らないでくれ! 悪かったのは俺の方だ」

「秋月君が悪いって、どういうこと?」

「春野に仲の良い友達だなんて言ってもらって、迷惑なはずがない。逆に俺なんかが春野の友達って、申し訳ないと思って……」


 春野は俺の言葉に、戸惑うような顔をした。


「えっ? いやあの、えっと……私は秋月く……いえ、祐也君に友達になってもらいたいです。よろしくお願いします!」

「春野……」


 まさか……本当の本当に?

 しかも春野は友達になってもらいたいなんて、俺にお願いをするような言い方をした。


 俺が『申し訳ない』なんて卑屈な言い方をしたものだから、春野は俺のプライドを傷つけないような表現をしたんだ。


 ──この心遣い。


 学園のアイドルと呼ばれて、多くの男子の憧れの的で、モテモテな春野なのに…… 高慢な態度を取るどころか、冴えない俺にまでこんな心遣いをしてくれるなんて。


 この子、ホントにいいヤツだ。凄いよ。


「俺の方こそ、春野が友達になってくれるならめちゃくちゃ嬉しい。よろしくお願いします」


 積極的に友達を作りたいなんて普段は思わないけど、春野の人柄の良さに、思わずこの子と友達になりたいって強く思った。


 俺なんかで良ければ友達になってほしい。 

 自然にそう思える相手に出会ったのは、生まれて初めてだった。

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