第44話:春野日向は抱きかかえる

 日向が俺のことをカッコいいなんて言い出して、俺はからかわないでくれと言い返した。


「からかってなんかないよ」


 日向は目を細めて「ふふっ」と笑みを漏らした。日向がこんなに悪戯いたずら好きだなんて、思ってもみなかった。

 こんなの、絶対にからかわれてるよな。


 でも日向の思惑通り、からかわれて自分が焦ってるのが自分でわかるからちょっと悔しい。

 顔がめちゃ熱い。きっと今の俺は、顔が熟したトマトよりも真っ赤になっているはずだ。


 そんな熟したトマトでジュースを作ったら旨いだろうなぁ……なんてまったく関係のないことが頭に浮かぶ。


「あ、そうだ。ジュースを飲もうか」


 赤い顔を日向に見られるのが恥ずかしくて、席を立ってキッチンの向こうにある冷蔵庫に早足で移動した。

 後ろの方で「でも私だけが知ってるのもいいかなぁ」なんて、呟くような日向の声が聞こえる。


 ──どうやら俺は、まだからわれ続けているらしい。


 冷蔵庫からいつもの黒酢リンゴジュースを取り出して、二つのコップに注いだ。ひとつ深呼吸をしてから、それを両手に持って日向の方に戻る。


 調理台に向かって座っている彼女の背中の方からコップを差し出しながら「ほらこれ」と声をかけた。


「ん?」


 振り向いた日向の肩が、ちょうど調理台の上に置こうと伸ばした手のコップに当たりかけて、俺は慌ててよけた。

 しかしコップからジュースがこぼれそうになって、よろめきながらコップを持つ両の手を台の上に伸ばす。


「うぉっ……」

「祐也君、大丈夫っ!?」


 体勢を崩して倒れそうになった俺の胴体を、座っている日向が両手で抱きかかえて支えてくれた。


 俺の腰に回した日向の腕に、きゅっと力が入る。心地良い圧迫感と日向の体温が伝わってきて、密着感にどくんと鼓動が跳ね上がった。


 しかもすぐ目の前に日向の頭があって、栗色の髪から、何とも言えない甘い香りがふんわりと俺の鼻に届く。


 いったいこのシチュエーションはなんなのだ。あまりに気持ち良すぎて、頭の中が混乱してクラクラする。

 しかし日向が支えてくれているおかげで倒れることなく、ジュースをこぼさずに台の上に置くことができた。


 その時──自宅から教室への扉がガチャリと開く音がした。


「祐也、帰ってるのー? あらーっ!? ……お取り込み中だったのねー 失礼~っ!」


 声の方に振り向くと、扉から顔を覗かせた母が目を見開いて、あんぐりと口を開けている。そしてその表情のまま、無言でバタリと扉が閉められた。


「ゆ、由美子先生~! 違うんだこれは! 誤解なんだー!」


 腰に日向が抱きついたままの姿勢で、思わず俺はそう叫んでいた。




◆◇◆◇◆


「……ああ、そうだったのね」


 俺が事情を説明すると、母はなるほどといった顔でうなずいた。



 さっきは本当に焦った。

 母が誤解したまま立ち去ろうとしたから、慌てて追いかけて、料理教室の方に戻ってもらった。


 調理台の椅子に俺と日向が並んで座り、向かい側に母が座って、事情を説明した。日向は俺の隣で、恥ずかしそうにうつむいて座っている。


「まあ私は君らがイチャイチャしてたとしても、別にいいんだけどねぇー」

「こらこら! 変なことを言うな! 日向に失礼だろ!」

「失礼……? いや、あの……」


 横で日向が顔を上げて戸惑うような声を出すもんだから、そっちを向いて「ああ、ごめんな。失礼な母で」と謝った。


 いくらなんでも俺とイチャイチャしてたなんて勘違いをするのは、日向に対してめちゃくちゃ失礼だ。日向だってそんな勘違いは、心外に違いない。

 俺と日向は確かに友達として仲良くなったけど、イチャイチャなんてのは、その……恋人同士がすることなんだから。

 日向からしたら、そんなことしてませんって思いしかないだろ。


 俺はまた母に向き直って、わざと眉間に皺を寄せて睨んだ。


「二度とそんなことは言わないでくれ」

「はーい……」


 母は肩をすくめて、年甲斐も無くペロっと舌を出す。

 ──なにやってんだよ。子供かよ?


「あの……私の方こそ失礼なことをしてすみません。神聖な教室で、あんなことをして……」

「あんなことって日向ちゃん。コケかけた祐也を支えてただけでしょ?」

「えっ……? あ、はい。そうなんですけど……」


 日向はちょっと頬を赤らめて、上目遣いに母を見ている。


「じゃあ何の問題もないわよね」

「あ、はい……」

「まあわたし的には、ホントにイチャイチャしてても何の問題もないけどねー。おほほー」

「だから由美子先生! そういうことを言うなって!」

「はーい」

「……ったく。なんてことを言うんだ、このバカ母は」

「まぁ私は、日向ちゃんと祐也を信頼してるから、そんなことを言うのよー」

「はいはい、わかりました。信頼していただいてありがとうございますっ!」


 俺が呆れて慇懃無礼に言い返すのを聞いて、横で日向はプッと吹き出して笑っている。


「それよりも日向ちゃん。調理実習がうまくいって良かったね。おめでとう!」

「あ、はい。ありがとうございます。祐也君のおかげです」

「いえいえ。日向ちゃんの努力の賜物よ」


 うん、そう。それは間違いない。日向の努力が凄いんだ。俺が教えたことなんて、当たり前のことばかりで大したことはない。




 その後ひとしきり三人で雑談をして、日向は「そろそろ帰ります」と言ったので、俺は教室を出て玄関前で日向を見送ることにした。


 今日、日向がここに来てくれたおかげで、お互いに少し踏み込んだ話をすることもできたし、素直な気持ちも知り合うことができた。

 今までよりも一層日向との距離が縮まり、そして友達としての絆が強くなった……ような気がする。


「じゃあまた明日」

「あっ、そうだ祐也君。気になってることがあって……」

「なに?」

「学校で祐也君が私と関わりがないふりをしてくれてること」

「ああ、それがなに?」

「申し訳ないなぁと思って」


 日向は眉尻を下げて、言葉どおり申し訳なさそうな顔をしている。


「なんで?」

「私がここの料理教室に通ってることは内緒にしてってお願いしたけど、でも私と祐也君が関わりあることまで内緒にしてるのは……祐也君に失礼だから」

「いや、いいよ。全然失礼なんて思ってない」

「いや、でも……」

「学校で普通に日向と話なんかしたら、どういう関係があるのかって周りから詮索されるよ。うまくごまかすなんて面倒だし……それに怖すぎる」

「怖い? なんで?」


 日向はきょとんとしている。


「俺が日向と仲良くしてたら、男子連中から嫉妬の嵐が吹き荒れる」

「えっ? そんなことないよ……」

「そんなことあるって。日向は自分の人気の凄まじさがわかってないだけだよ」

「そ……そうなのかな……?」

「ああ、そうだ。とにかく今までどおり関わりのないふりをしよう。その方が俺は気が楽だし」

「あ、うん……わかった。じゃあいずれ私たちが二人とも学校で素を出せるようになったら、その時はね……」


 その時は?

 その時は……なんなんだ?


 俺が考えているうちに、日向はホッとしたような顔で「じゃあまた明日」と言い残して帰っていった。


 でも……日向はそんなことを気にしてくれていたんだな。ホントに俺にとっては波風のない静かな学校生活が一番だから、今までどおりでいいんだよ……たぶん。

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