第75話:春野日向は取り仕切る

 髪を整える間もなく実習室に戻った俺は、急いでエプロンを着けて自分の調理台に向かった。


 同じグループには既に日向が立っていて、他のメンバーは……

 なんと高城たかしろ 千夏ちなつと、それと前に同じグループで料理はド素人だと言っていた女子、佐藤さん。その二人が日向を挟んで、三人並んで立っている。


 調理台を挟んで向かい側にいるのは雅彦だ。なんとまあ、やりにくいメンバーが揃ったものだ。これは……神様のイタズラってヤツか?


 俺が雅彦の隣に行くと、ヤツは俺の肩をポンと叩いた。


「ご苦労さん、祐也」

「えっ?」

「プリントを取りに行かされてたんだろ? 先生が言ってた」


 プランが初っ端から狂ってしまった日向は、こちらをチラッと見て、苦笑いを浮かべている。さて、どうしたものかという感じで、日向はあごに指を当てて何かを考え始めた。


 先生からひと通りの説明があって、実習が始まった。ウチのグループでは真っ先に高城が口を開いた。


「役割分担はどうする?」

「あ、俺、春野さんがメインでやって欲しいなぁー!」


 横から雅彦の声がして、それに同調するように超初心者女子、佐藤さんも口を開く。


「あ、私も賛成ー! 日向ちゃんに任せたーい!」

「私も賛成」


 高城までがそう言う。


「いいでしょ日向」

「えっと……」


 日向はあごに手を当てて、少し考えてからみんなを見回す。


「じゃあ……役割分担は、私に任せてくれるかな?」

「いいよ。私たちは雑用でもなんでもするから」


 そう言う高城に、日向は「わかった」と短く答えた。隣で雅彦が、嬉しそうに俺の背中をバンバン叩く。


「おい祐也、やったな! 春野さんの手料理だぜ!」

「あ、ああ……」


 雅彦のヤツ、能天気に喜んでやがる。俺は苦笑いしか出ない。


「じゃあねぇ……千夏と佐藤さん、それに水無君は三人でスープを作ってくれる?」


 水無君というのは雅彦のことだ。三人とも「うん、わかった」とうなずいた後に、高城が怪訝な顔で俺を見た。


「あれ? 秋月は?」


 それには佐藤さんが答える。


「秋月はあまりに料理が下手だから、見学でいいんじゃないのー?」


 超初心者に、そんなことを言われてしまった。俺は一瞬、うるせぇと思ったけど「ははは」と力のない笑いを佐藤さんに返す。


「そうだな。祐也が作った豚の餌なんて、俺は食いたくない」


 雅彦のヤツ、冗談だとはわかっているけど、好き勝手に言いやがって。

 ほお、そんな酷い言い方するんなら、後で絶対に食わしてやらないからな……と、ちょっと意地悪な気持ちが頭をかすめる。


「いえ……あ、秋月君は、私と一緒にメイン料理……スープ以外は全部を作ってもらうから」


 日向の言葉に、一同は「はぁっ?」と顔をしかめる。

 これぞ怪訝な声の大合唱。


「ちょっと日向。気は確か?」

「う、うん。大丈夫だよ千夏。たぶんね……あはは……」


 とんでもない言われように、さすがに日向も苦笑いを浮かべている。

 でも日向も『たぶんね』なんて言って、あえてみんなの不安を煽るところなんか……間違いなく楽しんでいるよな、このいたずらっ子め。


「ねぇ秋月。日向の足を引っ張らないでよ」


 ──うわ。高城のヤツ、割とマジな顔で言ってる。ちょい怖い。


「あ、ああ。わかった。精一杯がんばるよ」

「そうだ。あ、秋月君……」


 日向が俺の名字を呼んだ。もうすっかり下の名前で呼ぶのに慣れてしまったからなのか、秋月って呼びにくそうだ。


「何かな、は、春野さん」


 ──いや、俺も人のことを言えた義理じゃない。春野っていう名字を噛んでしまった。


「これから調理をするのに、そのボサボサ頭はダメかな……」

「えっ? あ、ああ……そうかな?」

「ちょっとトイレに行って、整えてきた方がいいかなぁ……なんて」

「わ、わかった。そ、そうするよ」


 なんだかもの凄くわざとらしい、ギクシャクした会話だ。他の三人はきょとんとしている。そりゃそうだな。不審がっているに違いない──って思っていたんだけど。


「なるほど! さすが春野さんだ。料理をする時には身だしなみにもこだわる。不潔な感じの人が作った料理なんて、不味く感じるもんなぁ」


 ──あれっ? 雅彦が都合良く解釈してくれた。


「そうよねぇ。日向ちゃんってやっぱり凄いね!」


 おおっ、佐藤さんも感心している。


「そういうことだから、早く行ってきてくれるかなぁ秋月君。それまで待ってるから」

「お、おう。わかった」


 俺は先生に「トイレ行きます」とひと声かけて、実習室を出た。

 後ろからは「先に始めようよ」と言う高城に「私は秋月君を待つから、千夏たちは先に始めてよ」と答える日向の声が聞こえた。




 トイレの洗面台に向かって、ワックスを使って髪を整える。いつもの料理講師バージョンではなく、K市に行った時の髪型がいいと日向は言った。

 髪の毛の流れ具合やてっぺんの立たせ具合が、お洒落な感じがするそうだ。


 あれは母にやってもらったから、同じようにするのに、なかなか上手くいかない。四苦八苦してようやく整うまで、10分くらいかかってしまった。

 俺が戻るまで日向は待つと言っていたから、調理時間をその分ロスしたことになる。

 まあ10分くらいならたぶん問題はないけど、それでも早く実習室に戻らないといけない。


 そう考えてトイレを出て、調理実習室の扉を開けた。


「え? 誰?」


 俺が部屋に入ったことに気づいた扉近くの誰かが、そんなことを囁くのが聞こえる。


 ──あ、いや。秋月祐也だけど。

 心の中で、そう答える。


「あれ、秋月だよな。なんで髪型を変えたんだ?」

「えっ……秋月君? ホントだ。だけどなんかイメージが違う」

「へぇ……キリッとした顔で、案外カッコいいじゃん」


 実習室のあちこちがざわざわして、小声で俺のことを話している。なんだかもの凄く話題になってませんか? 褒めてくれる言葉も聞こえてきて、それは素直に嬉しい。だけどいや、恥ずかしすぎるんだけど……


 俺が自分の調理台に戻ると、向こう側を向いて高城と佐藤が何やら熱心に作業をしている背中が見えた。

 雅彦はその隣に立って、二人の手元を覗き込んでいるだけだ。雅彦のやつ、傍観者になってさぼっていやがる。


 三人の向かい側に立っている日向とは目が合って、満足そうにニコリと笑った。


「お待たせ」


 三人の後ろから声を掛けると、高城が振り返りながら強い口調で文句を言ってきた。


「ちょっと秋月、何してたの? 遅いよ! あんたが日向を待たせるなんて、いったいどういうつもり……」


 振り向いた高城は俺と目が合った。


「だ……誰……?」

「誰って……秋月だよ」

「あっ、やっぱり……そうだよね……」


 高城はそのまま絶句している。高城がそんな声を出したもんだから、釣られて振り向いた佐藤さんは、俺を見て目を丸くした。


「あ、秋月。なかなか……いいね。清潔感バッチリよ」


 この髪型、K市に行った時に日向は絶賛してくれたけど、他のみんなにも案外評判はいいようだ。嬉しいし、ちょっと自信になる。だけど面と向かって言われるとさすがに照れる。


「あ、ありがとう」


 さすがに雅彦は俺の素顔を何度も見ているから驚きはしないけど、ニヤニヤ笑っている。


「祐也のそんな髪型は初めて見たよ。なかなかいいじゃんか。これからずっとそうしとけよ」

「いや……照れ臭くてかなわない」

「そんなのすぐに慣れるさ」

「そうかなぁ……」


 ところで。

 高城は真顔でジーっと俺を見つめたまま、固まっているんだが……

 何か難癖をつけようとしているんだろうか?


 俺は少し不安になった。

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