春の章・11 ご近所探索
一体あれは、何だったんだろう……。
山田ひなたの謎の行動は、あの日以来何度かあった。
思いつめた面持ちで「話がある」と言いながらも、結局は言葉に詰まってしまい、真っ赤に頬を染めたまま立ち去ってしまう。
結局彼女が何を言いたいのかわからないまま、ゴールデンウィークに突入してしまった。
どう考えてもあの態度は、「好きです」とか「付き合ってください」という台詞が飛び出してきそうなものだ。しかし、それ以外のひなたの態度は相変わらずのもので、目が合えば必ず逸らしてしまうし、声を掛ければビクリと肩を震わせる。
別に彼女に対して声を荒げた覚えもないし、酷い態度を取った覚えもにない。ついうっかり篠原にぼやいてしまったら、「誉くんが醸し出す雰囲気そのものが怖いんじゃないの」と言われる始末。
あの男は、人の傷口に塩を塗り込む真似しかできないのか……。
今更嘆いたところで、学生の頃から篠原はあんな調子だったのだから、どうもこうもない。嫌だったら関わらなければいいのだが、不運にも同じ学内の教員と職員という立場。篠原の担当部署が誉が所属する文学部だから、関わるなという方が難しい。
だがせっかくの休日にまで、わざわざ篠原のことなど考える必要はない。
「十二時、か」
いい加減起きないと。
ちなみに、夜中の十二時ではなく、昼の十二時だ。
昨夜は休日前夜ということもあって、つい夜更かしをしてしまい、気が付いたら空が白み始めていたとい始末。新聞配達のバイクのエンジン音にせかされるように布団に潜り込んだ。遅くても十時には起きようと思っていたのに、うだうだとしているうちにこんな時間になってしまったというわけだ。
起きろ、起きるんだ。
誉は自分を励ますように叱咤する。ごろりとうつ伏せになり、腕に力を込め、のろのろと起き上がった。
「……よし」
このまま再び布団に突っ伏したいところだが、次に目覚めたらきっと日が暮れているだろう。今夜は、とうとう義理の母との対面だ。しかし、それまでに、やっておくべきことがある。
冬のコートをクリーニングに出しに行きたい。
今洗濯機に突っ込んでいるものくらい、洗っておきたい。
部屋の片づけもしたいし、ホームセンターへも行きたい。
あとは。
不意に、腹からきゅるきゅると唸るような音が鳴った。つまりは腹の虫が鳴いたわけだ。
「腹、減った」
他人事のように呟くと、今度は思い切りよく掛け布団を撥ね退けた。
相変わらず片付かない室内で、誉は大きく伸びをすると、枕元に放置した眼鏡に手を伸ばした。
* * * * *
「仕上がりは来週の日曜日になります」
「では、お願いします」
店員に渡された伝票には、コートにスーツ、ネクタイにワイシャツとセーター……と溜めていた冬もの衣類がずらりと並んでいる。
財布にクリーニング店の会員カードと伝票を押し込むと、開放された気分で店を出た。
あまり期待していなかったが、住まい近くの商店街はそこそこ賑わっていた。普段使わない路線の駅も近いせいもあるのだろう。勤務先の大学から、そう遠くはないはずなのに、一度の足を運んだことがなかった。
安いチェーンの居酒屋や牛丼屋、ラーメン屋、弁当屋。百円均一ショップや地元のスーパーマーケット、レンタルショップや古本屋。軒を連ねてというわけではないが、歩いているとちょいちょいと小さな店を発見するのも面白い。
しかし今は町探索をしている場合ではなかった。まずこの空腹を満たす必要がある。
手近なラーメン屋や牛丼屋を覗いてみるが、昼時のせいかずいぶんと混雑している。客の回転が速いだろうから、さほど待たずに席に着けるだろう。だが、せっかく外に出てきたのだから、一息つけるような場所がいい。カフェの類なら多少ゆったりは出来るだろうが、何しろ今はがっつりと食べたい気分だった。
ふと、香ばしい揚げ物の匂いに気が付いた。店はすぐにわかった。道沿いに五、六人の列を作っている肉屋、そこが匂いの発信源だ。
荒井精肉店――ガラスのショーケースに、様々な肉や総菜が並んでいる昔ながらの肉屋だった。ショーケースの奥では恰幅の良い店主が愛想よく接客している。
弁当もやっているのか。
入口の立て看板に弁当のメニューが書かれているのが目に入った。コロッケ弁当にメンチカツ弁当、鳥の唐揚げ弁当に豚カツ弁当と揚げ物メニューが多いが、値段が一番高くても豚カツ弁当の600円だ。
今、まさに誉が求める「がっつり」とした食べ物だ。幸い今日は天気もいい。この道の先を行くと、ちょっとした公園がある。木陰で弁当を食べるというのも、中々悪くない。
最後尾に着き、待つこと十分程度。誉は出来たてほかほかの弁当を入手した。
肉じゃがコロッケと鳥の唐揚げのミックス弁当、450円なり。
付け合わせに胡瓜とキャベツの浅漬けと、ポテトサラダ。ご飯は炊きたて、自家製のまるまるとした梅干が白飯の真ん中に乗っていた。
これはいいものを手に入れたと、誉はこっそりほくそ笑む。
公園へ向かう途中、自動販売機でペットボトルの緑茶を買う。これで昼食の用意は完璧だ。
辿り着いた公園は、さほど広くはないが、緑が多い落ち着いた場所だった。入口付近には小さな噴水があり、子供づれの若い母親たちの姿が多い。新緑に覆われた歩道は、ぐるりと園内を一周できる散歩コースになっているようだ。案内図を見ると、奥には市営のスポーツ施設の建物があるらしい。
たまに運動をしに来るのもいいな、などと考えながら、座るのに丁度良さそうな場所を探しながら歩道を歩き始める。
歩道沿いにベンチがあるものの、少々落ち着かない。さらに歩を進め、ようやく落ち着けそうな場所を見つけた。
ここまでくると人の姿は無い。木陰には丁度ベンチもある。
誉はようやく腰を落ち着けると、ペットボトルを開封しながら息を吐いた。
何気なく空を仰ぐと、新緑の葉の間から落ちてくる木漏れ日が眩しかった。春先はばたばたとしていて気付きもしなかったが、もう春になったのだと改めて気が付く。
……結局、今年は桜もろくに見ていなかったな。
大学のキャンパス内にも桜は咲いていたはずだが、まったく気にも留めていなかった。余裕がないと、視界に入っているはずの光景まで目に映さないようだ。
まだやらなければならないことは山積みだが、やっと少しは落ち着けたような気がする。冷たい緑茶を口にすると、もう一度息を吐いた。
「さて、と」
冷めてしまう前に食うか。
レジ袋から発砲スチロール製の容器に入った弁当を取り出す。蓋を開くと、ふわりと温かい湯気が上がる。割り箸を割ると、まずは鳥の唐揚げから……と箸を付けようとした時だった。
「ウォン!」
どこからともなく犬の鳴き声がした。はっ、と顔を上げると、黒っぽい大型犬がこちらに向かって猛突進してくるではないか。
「!?」
思わず腰を浮かそうとするが、膝に弁当を乗せているせいで急には立ち上がれない。そうこうしているうちに大型犬はもう目の前に迫っていた。
飛びかかって来るかと身構える。しかし犬はふわりと跳躍すると、誉の座るベンチに飛び乗り「ウォン!」と吠えた。
「……?」
その犬は物欲しそうに誉の弁当に鼻先を突き付けようとするが、それ以上は近寄ろうとはしなかった。荒い息をしたまま、くりくりとした黒い眼で誉をじっと見つめている。
これはもしや。
「食いたいのか?」
犬に語りかけたところで理解できるのだろうかと思ったが、どうやらちゃんとわかるらしい。目を輝かせて(と思ったのは誉の想像に過ぎないかもしれないが)、そうだと言わんばかりにまた「ウォン」と吠えると、ちぎれんばかりに尾を激しく振る。
一見恐ろしげに思えた大型犬だが、よく見ると素直そうな顔立ちをしている。
「よし、待ってろ」
誉は弁当容器の蓋を切り取る。コロッケを半分、鳥の唐揚げを二つ、少し迷って白飯を少し容器の蓋に乗せると、大型犬の前に差し出す。だが一向に口を付けようとしない。誉を見上げ、何かを待つように小さく尾を振る。
もしかしてあれだろうか。飼い主が「よし」と言うまで餌を食べるのを待っている、という場面を思い出す。
「……よし。食べていいぞ」
途端、大型犬は尾を千切れんばかりに振り回しながら、勢い良くコロッケを食べ始めた。その姿に目を細めた時、誰かが駆け寄って来るのが視界の端に映る。
「チビ太! 何やってるの!!」
悲鳴にも似た少女の声が上がる。
チビ太……?
改めて目の前の大型犬を見る。この犬の名前が「チビ太」だとは考えにくい。しかし、飼い主らしき人物はこちらに向かって駆け寄って来る。
ということは、やっぱりこいつが「チビ太」ということか。
「すみません! うちの犬が……」
首輪の付いたリードを掴んで駆け寄って来た少女は、誉の姿を見るなり大きな目を転げ落ちそうなほど見開いた。同じく飼い主の姿を目にした誉も、驚きのあまり己の目を疑った。
「飛沢先生!?」
「山田、さん?」
二人は、ほぼ同時に驚きの声を上げた。
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