冬の章・16 触れ合いそうで触れない距離
小雪が舞う中を、肩を並べて歩く。最終電車を逃した時以来だが、その時よりも距離が近い。
触れ合いそうで触れない微妙な距離を保ちつつ、ただひたすらに歩く。
どこからともなく聴こえてくる軽快なメロディは、何の曲だったろう。思い出そうと辺りを見渡したとき、彼女の肩に雪が薄く積もっているのを見つけてしまう。
傘が小さいのを喜ぶべきか、嘆くべきか。肩を抱いて、引き寄せれば二人とも雪に濡れずに済むのだが、不甲斐ない自分にはそんなこともできない。
いや、それを理由に今だけは許して貰えるだろうか。
「あの、先生」
不意に声を掛けられ、思わず肩が跳ねそうになる。しかし、それを悟られないようさりげなく、彼女の方へと向き直る。
「今日はありがとうございました。」
ふわりと微笑む彼女が、少し大人びて見える。
「……いや、お礼を言うなら橘先生に」
今日の主催者は橘だからと思って口にしたが、彼女は静かに頭を振る。
「梅ジュース、美味しかったです」
「それは……お店のご店主に言うべきかな」
すると彼女は、困ったように破顔する。
「……二十歳になったら、今度は梅酒を飲んでみたいです」
「じゃあ、二十歳になったらまた行こうか」
「は、はい! ぜひ!」
弾んだ声で即答されて、誉ははたと気が付いた。
ちょっと待て。今なんて言った?
『二十歳になったらまた行こうか』だと?
学生を飲みに誘うとは。しかも相手はまだ未成年。いや、二十歳になれば問題ないか。しかし二人で……いや、二人で飲みに行こうとはまだ言っていない。
「その時は、小原くんたちも誘おう。大勢の方がきっと楽しいだろう」
「え……あ、はい」
途端に残念そうな声になる。
そういう声を出すのはやめて欲しい。もしかしたら、二人で行きたかったのかと期待してしまいそうだから。
いやまて。彼女の声色が残念そうに聴こえるのは、己の願望故の幻聴かもしれない。
……冷静になれ。
彼女と二人きりという現状に、気持ちが高揚しているだけだ。しかも少々酒も入っている。
気持ちを取り直して、他の話題を口にするが。
「山田さんの誕生日は、確か……四月だったな」
おい。さっきの話題と大差ないではないか。
会話のネタの引き出しの少なさに情けなくなる。
「はい。あれ、わたし先生に言いましたっけ?」
「いや、履歴書に書いてあった」
「そうでしたね。ところで先生は何月生まれですか?」
「私は十月だ」
「え! 結構最近じゃないですか! どうして言ってくれなかったんですか?」
「単に歳を取るってだけだからだな。それに自分でもすっかり忘れていた」
父圭介からおめでとうメールが届いて、初めて今日が自分の誕生日だったことを思い出したくらいだ。
子供の頃はあんなに楽しみだったのに。この歳になると楽しみというよりはむしろ、迎えたくない日になりつつある。
まだ大学生にとっては、誕生日は楽しみなものなのか。
ふと、自分が大学生だった頃はどうだったろうか。しかし思い出せないということは、すでに誕生日に趣を置いていなかったのだろうと想像できる。
「もう三十三にもなると、誕生日も楽しみというよりは厄介なだけだ」
彼女は今年十九歳。自分は三十三歳。なんと十四歳も歳の差があるとは。
ますます無い。山田ひなたと付き合うなんて無い。
わかっていることを、改めて突きつけて、自分自身が凹みそうだ。
「……誕生日、厄介になるんですか?」
恐る恐る、といった様子で彼女が訊ねる。
「そういうものだ」
「先生は、いつまで誕生日が楽しみでしたか?」
思いがけない質問に、言葉に詰まる。
一体いくつまで、誕生日を心待ちにしてただろう?
幼い頃、ケーキに立てるロウソクの数が増えていくのが嬉しかったこと。
プレゼントがクローゼットの奥に隠されているのを見つけた時のこと。
食卓に並んだ料理が、すべて自分が好きなメニューばかりだったこと。
誕生日の想い出は、父と母と、家族が三人だった時のことばかり。
母が亡くなってからは、父がケーキを買ってくれた時もあったと思うが、いい加減家族で誕生日を祝うような年齢ではなかったせいもあり、気が付けば誕生日を祝うことはしなくなっていた。
恋人と誕生日を祝ったこともない。そもそも誕生日を迎える前に別れてしまったのだから仕方がない。
「そうだな……小学生の頃、までだな」
「そう、ですか……」
ひなたはそれきり黙りこくってしまう。
何か不味いことでも言っただろうか……。
誕生日などのイベントを楽しみにしている彼女からしたら、誉の考えは非常識なのかもしれない。
やはり、こういうことは年齢的な違いがあるのだろうか。
しかし、自分が彼女と同年代の頃から、イベントごとにはとんと疎かった。だから年齢というよりも、性格上の違いもあるのだろう。
「あの、先生」
ややあって、ひなたは再び口を開いた。
「クリスマス、は……好きですか?」
「クリスマス? ああ…………今日はクリスマスか」
もう一月前以上から、クリスマスのディスプレイに見慣れてしまったせいもあり、いつがクリスマスだったかも失念していた。
「別にイベントが嫌いなわけじゃないんだ。クリスマスは、楽しそうな雰囲気で好きだよ」
すると、ホッとしたように彼女が微笑んだので、この答えは正解だったようだと胸を撫で下ろす。
実は、クリスマスもそこまで好きではない。いや、好きではないというよりは、興味関心が無い。
あきらかに彼女は誕生日もクリスマスも楽しみにしている。なのにそれを否定してしまうのも如何なものか。
つまり、要するに、嫌われてくないのだ。彼女に。
今更になって、彼女にクリスマスプレゼントを用意すればよかったと思う。
理性的には、一学生に特別扱いをしてはいけないと思う。
しかし、感情としては、好きな相手に何かをしたいという気持ちはある。
とはいえ、彼女にプレゼントは用意していないし、もし用意できる時間があったとしても、彼女が何を欲しいのか、何を贈ったら喜ぶのかもわからない。
そろそろ駅に着く。束の間の二人の世界はおしまいだ。
「降りが強くなってきたな」
「電車、大丈夫でしょうか」
「まだ降り始めだから平気だろう」
傘にはずっしりと雪が積もっている。傘や服の雪を掃っていると、寒さに頬を真っ赤に染めた彼女が、微笑ましいものを見るように目を細める。
「先生、ほっぺが真っ赤ですよ」
どうやら自分も寒さで、彼女と同じ状態になっているらしい。
頬に触れてみると、まるで氷のような冷たさだ。
「山田さんも」
不味い。無意識に手を伸ばそうとしていたことに気付き、触れる寸前に手を引いた。
「……寒いから、行こうか」
「はい……」
戸惑うような彼女の声。怖くて彼女の顔を見ることができなかった。
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