春の章・08 能面は、やはり怖いのか?
「山田さん?」
どうしたのだろうと声を掛けると、びくりと身体を震わせた。
「あ、わ! す、すみません!」
ひなたは「気を付け」の姿勢になる。まるで悪戯をして先生に注意をされた直後の小学生のようだ。
「もし体調がすぐれないようなら、今日は帰りなさい」
「いえ! あの! 元気です!」
慌てふためきつつも勢い良く答える。確かに元気そうではある。元気です、なんてまるで小学生の返事のようだ。
「元気ですって、ひなたちゃん。その返事、小学生みたい」
まるで誉の思考を読んだかのようで、思わずドキリとした。しかし、順也は邪気のない笑顔で笑っただけだ。
「え、小学生?」
さっきまで蒼ざめていた顔色が、今度はほんのりと赤味を帯びる。そしてこの後に続くひと言で、ひなたの顔色は劇的に変化した。
「うん。なんか可愛い」
「――――っ!」
見事なくらい彼女の顔が赤くなった。まるでリトマス試験紙のようだ。
確かに順也のように見目麗しい青年に「可愛い」などと言われてら、赤くもなるもの当然であろう。もし誉が同じセリフを口にしても、絶対にこうはならない。それどころか、気でも違ったのかと思われるのが関の山である。
まあ、そんなことはどうでもいい。
それにしても、さっきから話が逸れてばかりで、なかなか前へ進まない。
絆創膏が貼られた眉間をそっと擦ると、力を抜くように息を吐き、できるだけ穏やかに声を発した。
「……元気があるなら、話を進めたいのだが、いいかな?」
「は、はい」
ひなたは、まだ赤味が残る頬を引き締め、しゃんと背筋を伸ばす。どうやら話はきくつもりのようである。
「業務はほぼ雑用。コピー取りや入力作業が主になる。週二回。一日二時間から四時間程度。時間帯と日時は月に一度、希望日時を提出することになっている」
必要事項を一気に並べ立てると、すでに用意してあった書類一式を差し出した。戸惑いながら、ひなたが書類を受け取ると、大人しくこちらの様子を傍観している順也に視線を投げる。
「詳しくは小原くんから説明してくれるから、後は彼に聞いて欲しい」
順也も他の教員の元でアルバイトをしていた経験がある。自分よりもむしろ彼の方が事務手続きは詳しいだろう。しかし。
「それは駄目ですよ、先生」
ニコリとしたまま、誉の頼みを撥ね退ける。
「篠原さんからの伝言です。手続きはちゃんと自分でやってくださいね、とのことですから」
……篠原め。
思わず眉をしかめる。
誉が面倒な手続きを順也に頼むだろうと見越してのことであろう。だが、篠原の読みは正しかったわけである。非常に癪に障るが、奴の言い分は間違ってはいない。
「…………わかった。申し訳ない」
誉は咳払いで決まり悪さを誤魔化すと、改めてひなたの方へと向き直った。
「では私の方から手続きの説明を……」
「あ、あの!」
遠慮がちだが誉の言葉を遮ると、ひなたは物言いたげな視線を向ける。
「あの……」
あの……の次に続く言葉を待つが、なかなかその後が続かない。誉は辛抱強く待ってみるが「あの、その」ばかりで待てど暮らせど、その続きが出てこようとしない。
「何か言いたいことがあるのなら、遠慮なく言って欲しい」
「す、すみませんっ!」
強い口調で言ったつもりはなかったが、ひなたはまるで叱られたかのように身を縮こまらせると、怯えの色が浮かんだ目を伏せてしまう。
一体、何なのだろう。彼女は誉の一挙一動に怯えているようにしか思えなかった。
やはり己の能面のようだと言われる、この顔のせいなのか。こんなことだったら篠原が言っていた「スマイルレッスン」を受けておくべきだったのか。だか、付け焼き刃でどうにかなるとは思えない。とはいえ、自分より強面の教授たちを思えば、無理をすることもないのではなかろうか。
「あの……」
誉が難しい顔をして、あれやこれやと考えている間に、ひなたはますます追い詰められた表情を浮かべていた。
「あの……わたし」
膝の上でスカートを握り締めると、蚊の鳴くような声を振り絞る。
「採用ってことでいいのでしょうか?」
誉は目を瞬いた。
「もちろん、そのつもりだが……」
すっかり採用のつもりで話を進めていたが、きちんと彼女に採用だと伝えていなかったかもしれない。
「申し訳ない。できれば今月からお願いしたいと思っているが」
よっぽど問題がありそうな相手でない限り断るつもりは無かった。少々引っ込み思案なところはあるようだが、大した問題ではないだろう。
だが、彼女自身がやりたくないようだったら話は別だ。今だって、こんなにも萎縮しているのだから。採用するのは、彼女にとっては不本意なのかもしれない。
「もし……山田さん、君自身が乗り気では無いなら遠慮なく言って欲しい」
「いいえ!」
意外にも強い口調で言い切ると、覚悟を決めたように顔を上げる。
「乗り気じゃなく無いです。やります……やらせてください!」
やる気満々というよりも、追い詰められたような感じがするのは気のせいであろうか……?
思わず順也の顔を見ると、彼は満面の笑みを返してきた。
「良かったですね、先生」
「ああ……」
しかし、本当に良いのだろうか。彼女の様子を見ていると、疑問しか湧いてこない。
「今度、奢ってくださいね」
「ああ」
「そうだ。ひなたちゃんの歓迎会を開きましょうよ」
「……ああ」
順也に生返事を返しながら考える。
新たに人員を見つけるのも面倒だ。彼女がやると言うのなら、こちらから断る必要はない。
それに。多分、長くは続かないだろう。
「山田さん。それではよろしくお願いします」
椅子から立ち上がり、軽く会釈をする。するとひなたも弾かれたように立ち上がると、角度60度に深く腰を折る。
「よろしく、お願いしますっ」
――さて、どのくらい続くやら……。
一抹の不安を覚えつつ、取り敢えずアルバイトが決まったのであった。
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