春の章・09 ○○ハラスメントには気を付けよう
二人が研究室を後しててから、事務室へ電話を入れた。まだまだ決まるのは先だと思っていたから、書類の用意すらしていなかった。というわけで、慌てて事務室に掛けたというわけだ。
『はい、文学部事務室です』
電話に出たのは、篠原ではなく、溌剌とした若い女性の声だった。確か、今年で二年目の若手職員の石原だ。
「石原さん? 飛沢ですが」
『篠原さんですね。すみません、今、窓口に対応中でして……あ! アルバイト雇うそうですね』
「……ああ」
別に篠原に取り次がなくてもいい。しかも、何故もうアルバイトのことを知っているのだ。
その問いを口にする前に、石原がその謎を解いてくれた。
『小原くんから聞きましたよ。新入生の女の子だそうですね。先生、色々気を付けてくださいね?』
「気を付けて、とは?」
『最近、すぐにセクハラ、アカハラ、パワハラってうるさいじゃないですか。先生なら大丈夫だとは思いますけど』
「……ああ」
一応釘を刺されたのだろうか。親切心で言っているのだと、前向きに捉えることにする。
『あとご存知でしょうけど、研究室で二人きりの時は、ドアを閉めちゃダメですからね』
「……助言、ありがとう」
どうやら女子学生には、様々な気配りが必要なようだ。やはり、女子学生を雇ったのは誤りだっただろうか。しかし、そんなことを口にしてみようなら、今度はジェンダーが云々と言われるのだろう。良好とまではいかなくても、当たり障りない程度の関係は築けるよう努力するしかない。
誉が低い目標を立てている間に、篠原が戻ってきたらしい。石原に話し掛ける奴の声が聴こえる。
『篠原さんが戻りましたので、今かわります』
しかし篠原は、なかなか電話口に出ようとしない。どうやら、石原がアルバイトが決まったことを話しているようだ。二人の雑談がまた長い。
こちらとて暇ではない。もう、いい加減受話器を置こうとした時だった。ようやく篠原が受話器を取った。
『ゴメン、お待たせ』
受話器の向こうから、篠原の呑気な声が届く。
何がお待たせだ。ふざけるな。
喉まで出かかった文句を、どうにか飲み下すと、簡潔に用件を述べた。
「アルバイトの申請書類を送ってくれ」
『職員専用ホームページからダウンロードしてくださーい』
「どこからダウンロードするのかわからん」
『それくらい自分で探してください。職員だって暇じゃないんですから』
「……ほう」
散々雑談をかましていた、その口が言うか。どうやら無駄な時間を過ごしてしまったらしい。
「わかった。では」
通話を終了させようとした時、受話器から篠原の制止の声がする。
『あ! 待った! 先生に話があったんだ』
「……なんだ」
『今週末、合コンがあるんだけど』
「断る」
『え、ちょっと待っ』
最後まで聞く必要はないと判断した誉は、即座に受話器を置いた。
* * * * *
基本的には週二回、月金の十七時から十九時までの二時間。
相談した結果、今月の山田ひなたのシフトはこのように決まった。
篠原の説明によると、月ごとに希望のシフトを提出し、後は調整して毎月スケジュールを決めていくことになるらしい。
正直のところ、毎月いちいち予定を調整しなければならないのは非常に面倒くさい。しかし自分の業務のために働かせるのだから、他人にスケジュール調整をやらせるわけにはいかない。
こんなことなら、メシでも奢って学生に手伝わせた方が楽だったかもしれないと改めて思ったものの、兎にも角にも今月は腹を括ってやってみるしかない。
本の山と段ボール箱に囲まれながら、誉は諦めに似た決意を固める。
その時だった。ドアを叩く音が本に埋もれた研究室に響く。
「失礼します」
控えめな声。山田ひなたの声だとすぐにわかった。
「どうぞ」
誉が答えると、ドアが軽い軋みを上げてゆっくりと開く。誉が本の山の中で顔を上げると、ちょうど室内に踏み出したひなたと目が合った。
「……こんにちは」
目を逸らしては失礼だと思っているのだろうか。誉からけして目を逸らそうとせず、その割には怯えた様子だから不思議なものだ。
「こんにちは」
腕時計を見ると、針は十七時五分前を指していた。五分前行動とは、いい心掛けである。
「今日からよろしくお願いします」
ひなたは怖気づいたような声で挨拶をすると、ぎこちなく会釈をする。
「ああ――よろしく」
誉も会釈を返すが、さすがに座ったままというのもどうかと思い、慌てて立ち上がった途端に、背後に積んだ本が音を立てて崩れる。
たちまち本に足元を埋めつくされ、足の踏み場が無くなってしまう。
せっかく自分なりに分類別に分けたというのに、自分で整理して、自分で散らかしては世話が無い。
知らず知らずのうちに眉根を寄せてため息を吐くと、のろのろとしゃがみ込んで崩れた本を拾い始めた。
「あ、あ、あの! お手伝いします!」
肩にバッグを掛けたまま、崩れた本の前に膝を付いて片付けを始める。
「来て早々申し訳ない」
「え!?」
「ん?」
驚きの声を上げた彼女は、呆けたように誉を凝視する。見つめる、ではなく、まさに凝視。まるで珍獣を発見したかのような反応であった。
「……私の顔に、何か?」
「いえいえいえ! な、何でもありません!」
青ざめた彼女は全力で否定する。そこまで必死だと、何かありますと言っているのも同じである。
初めて対面した時、彼女が見せた表情を改めて思い出す。
まるで危険人物に遭遇したかのような強張った表情。今すぐここから逃げ出したいと言わんばかりの蒼ざめた頬。
――いくら愛想が悪いからとはいえ、そこまで怯えられる覚えはない。だが……。
誉自身、あまり人に好かれるような人柄ではないと自覚している。話上手でもなければ、愛想もない。親切でも優しいわけでもない。篠原のように始終へらへら……いや、始終にこやかであれば周囲の反応も変わってくるのだろうが、恐らく表情筋が笑うという行為を忘れてしまったのだろう。
「あの、先生。これはどこに置けば?」
「これはこっちへ――」
誉が手を伸ばすと、ひなたは両手で本の束を差し出した。受け取った瞬間、目と目が合ったものの、恐れをなしたように視線を彷徨わせる。
正直ここまで怯えられてしまうと、少々気持が落ち込むのは否めない。
『スマイルのレッスンでもしてあげようか?』
ふと、篠原に言われた言葉かよみがえる。
馬鹿馬鹿しい。鼻で笑いたくなるような提案だか、不思議と頭に引っ掛かる。
でも――笑顔、か。
「山田さん」
「はい?」
「余計な仕事をやらせて申し訳ない……いや、ありがとう」
そして、笑顔とまではいかないが、軽く表情を和らげるくらいはしようと思った。
だがやはり、普段から動かさない筋肉が、そう簡単に動いてくれるはずもなかった。ほほ笑むなど程遠いものになっていたらしい。
「っ!」
ひなたは驚愕の表情のまま、手にした本を落としてしまう。
そう。彼女の反応を見れば、鏡を見るよりも明らかだ。
「す、みません」
落とした本を追うように床に視線を落とすと、それきりひなたは床ばかり見ている。その姿は、もう二度と目を合わすまいという意思表示のようにも思えた。
……ああ、やめておけばよかった。
穴があったら入りたい。今、まさにその心境だった。
結局この日は、研究室の片付けにあけくれ、本来ひなたに頼むつもりだった作業は、誉が自宅でやる羽目となったのだった。
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